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ディオニュソスの冬

第四章

 

 次の日、東京に降り立つと、友が予想していた倍も暑かった。着陸から手荷物を受け取るまでの間、しばらく空港の窓際にある歩行用のエスカレーターを歩かされたが、汗のせいで履いているデニムがだんだんと足にはりつくような感覚があった。体がどんどん汗ばんでいく。日差しを遮るものが何もなく、窓に太陽の光が直接反射して更に熱が強まっているように思える。

 友と母は午前の早い時間の飛行機に乗り、昼前に羽田空港について、そのまま品川にあるホテルに荷物を下ろした。ホテルまでの道中、母が昨日の急な友人宅への訪問について聞いてきたが、転校生の家に行ったのだと知ると、自分が知っている友人ではないことがわかり、それ以上深く尋ねてこなかったので友は安心した。やましいことは何一つしていないのに、あの家で体験した出来事を誰かに話すには相当の時間がかかるのではないかという予感があった。現にハルにさえミヤタの家に行ったことを話していない。昨日も夏期講習がある日だったから、クラスメイトに見られていなければいいが、と友は考えていた。家を出たのは遅い時間だったし、バス停までの道のりで誰にも会わなかったことは救いだ。

 ホテルは駅の目の前で、アクセスのよい場所に位置していた。身軽になって落ち着いたので、駅直結の複合施設の中で二人は簡単に昼食をとった。

 思えば東京に来ることも本当に久しぶりだったし、何より母と二人というのは初めてだった。家族旅行として小学生時代に何回か来た覚えはあるが、何をしたかまではあまり良く覚えていない。今回父は仕事の都合がつかず来ることが出来なかったが、美術大学のオープンキャンパスに行くのだと簡単に告げると、少し驚いたような嬉しそうな顔を友に向けて、気を付けて行って来い、とだけ返事をくれた。

 食事中母が、今日は普通に東京観光しようよ、と友に提案した。今日から早速美術館巡りかと想像していたので、友は拍子抜けした。

「明日から美術漬けでしょ。体力持っていかれるから、今日は楽しく遊ぶの」

「そんなに疲れるの」

「今まで見たことないものを一気に見るわけでしょう。全部新しいものなんだから、そりゃ疲れるよ」

 そういって母は愉快そうに笑った。確かに画集をずっと見続けていると、だんだんと体や頭がしんどくなってくるのは感覚でわかっていた。知らないことを知っていく過程には面白さだけがあるのではない。受け入れがたいものや理解しがたいものも存在するし、そういったものは見るだけでも体力が消耗されることを実感していた。今までに見てきたアート作品は全て紙上のもので、写真やスキャンされた2Dの平面だったが、実際にあれらを目の前にしたらどうなってしまうだろう。絵の具がキャンパス上で盛り上がっているのも、アーティストの筆跡も、制作に使った道具の痕跡も全て現実として脳に送り込まれてくるはずだ。今自分が想像できるよりもっと疲れてしまうのだろうと思うと、楽しみと恐怖感が同時に襲ってきた。友は静かに身震いして、目の前にあるアイスコーヒーをぐっと半分飲み干した。

 その日は結局母の言う通りに東京観光をした。といっても母の行きたいところについて行って、買い物に付き合っただけだ。東京には新しいビルが沢山あって、目新しいものも数多くある。そして行きたい所一つ一つが何故か遠い位置にある。一日の大半は電車に乗って移動をしているのではないかと思うほどだった。

 夕食も終えて部屋に戻り、自由な時間を過ごしているうちに何となく飲み物が欲しくなったので、友は一人でホテルの一階にあるコンビニに向かった。必要なものを買い外に出ると、何となくもう少し歩きたい気分になったので、そのまま駅までの道をゆっくりと歩き始めた。道なりにはカフェや服屋、雑貨屋やレストランが一列に並んでいる。アーケード状になっていて雨に濡れず買い物が出来るので便利だ。その時は既に飲食店を除いた全ての店舗が営業時間を終えており、人もまばらだが道なりの電気だけは煌々と明るかった。

 アーケードに通る風も生ぬるくて爽やかではない。さっき買ったペットボトルをビニール袋から取り出し、手に直接持つと冷たくて気持ちがよかった。もう少し歩くと一番駅に近いところにあるバルで、サラリーマンが数人、瓶から直接酒を飲んで楽しそうに会話しているところが見えた。

 飲んだことはないが、随分と旨そうだなと友は思った。大学生になってハルと一緒に上京することになれば、こうして外で飲むことがあるかもしれない。もしかしたら一緒にいるのはハルではないかもしれない。それはまだ何もわからない。友は自分が東京に出てくるかどうかさえも未だ確信がなかった。

 いつもより大きな声で笑っているのだろうサラリーマンの声を背に、友はホテルまでの道を引きかえした。ペットボトルの表面がだんだんと冷たさを失って水っぽくなっていた。結露の水滴が友の手を流れて落ちる。ホテルの部屋に着く頃に、イヤホンをしていなかったことに気が付いた。

 

 次の日、友と母は朝食のビュッフェを食べ、友は電車に乗って西東京に向かった。母とは午後に上野で落ち合う予定で、ホテルで別れた。本人は本人で勝手に予定を作っていたようだ。正直大学のオープンキャンパスにまで親と一緒に行くのは恥ずかしいと思っていたし、東京で一人の時間を作りたかったので都合が良かった。

 昨日サラリーマンが飲んでいたバルのあたりでイヤホンを耳にはめ、外の音を遮断した。これから大学までは長い道のりになる。アップテンポのアルバムを選択し、携帯電話をデニムのポケットに突っ込んだ。

 普段電車にも乗らないので、正直乗り換えが心配だった。天井高くにある路線表示に気を付けながら、乗り換えアプリの指示に従って進んで行く。土曜日なので通勤ラッシュは無いが、ここは大都市東京だ。覚悟して電車に乗り込んだが、思っていたより人は少なかった。品川から東京駅までは座ることが出来なかったが、そこからの道のりは座席に座ることが出来た。外は快晴で昨日より風もあるようだった。窓からの光も羽田のそれよりは眩しすぎず、友は一瞬心地よく思ったが、行ったことがない場所へ行く不安も相まって妙に落ち着かなかった。

 携帯電話を取り出し、今から向かう大学の名前を検索した。美術や大学そのものにさえ興味が無い人でも名前を知っている、有名な美術大学だった。今から準備して受かるとも思えなかったが、そもそも美術大学の雰囲気さえ知らないのだ。何が勉強できてどんな人がいるのかを知らないのだから、まずはそれを確認するための今日だった。全く無知のままこんな風に大学に足を踏み入れていいのか、友は自分の計画性の無さに少し笑いそうになった。

 長いこと電車に揺られ、今までに聞いたこともない駅名で降り、そこから更にバスに二十分ほど乗ったところにキャンパスがあった。想像していた都会のキャンパスライフは一気に脳内から吹き飛んだ。こんなに都心から遠いのであれば学生たちはこちら側に住むより他ないだろう。駅からの雰囲気も、友の地元にもあるような土地がだだっ広いだけの田舎感が漂っていた。

 正門から入場し、案内に従ってキャンパスを巡る。下調べも特にしていなかったので適当に近くにあった建物から入って見ることにした。ドア付近でパンフレットのセットが入った袋を貰う。荷物が増えて嫌だな、と思いながら、部屋を一つずつ回って見ていく。来場者と思われる人の中には高校の制服を着た人もいて、いつもの校内とは雰囲気が少し違うのではないかと友は判断した。静かというよりはそこそこに活気があって、それは普段この校舎に居ない人たちから生まれたもののように見えた。

 適当に入れる部屋に入っていくと、在校生の作品群がテーブルや床や壁に並べられていた。大学の教室は思ったより広いと、その規模間に圧倒される。部屋の隅には一人、学校の関係者と思われる人がいて、来校者が希望すれば何か説明をしてくれるようだった。

 一つだけ特別扱いされてかなり広いスペースを丸々使用している作品もあったし、校舎の外にオブジェのような作品を展示しているところもあった。作品一つ一つも、アート初心者の友でも描けるのではないかと思えるような絵から、何の素材を使用して作られたかさえよくわからない立体物まであって、そのどれもが友を驚かせた。この感情は何の感情なのか、よくわからないなと素直に思った。こういうものたちを、これを作った生徒たちと一緒になって作りたいという感情はあまり湧かない。ただ説明文を見る前に作品の意図が理解できないものや、自分の想像の範疇を超えた作品に出会うことは面白いと感じた。理解できないことは悪いことではなく、理解できない分自分なりに解釈をしていいと許されているようで面白い。確かに母が言う通り、これはかなり体力を使う行為だ。頭の中がだんだんと新しい情報に押されていく感覚がある。どの部屋も冷房が効いていてかなり涼しいのに、脳の中だけぎゅっと熱くなっているようだった。

 部屋をいくつか回り終えた感想として、この場で来年自分が何かを学んでいるイメージが正直友には想像しにくかった。個性的であることが普通のことで、さらにその個性を創作することで表現する、という行為自体は今、自分がやりたいことではない、と感じていた。今までの人生において個性的であろうと考えたことがない友には、クリエイティビティの塊のようなこの学校とは、こうして外部の人間として接する方が自分に向いているように感じた。

 各学部の簡単な紹介が聞ける説明会のようなものにも参加したが、何となく熱心に聞くことが出来なかった。異様に大きな講義室に生徒たちが詰め込まれ、新しいパンフレットを配られて、遠くで豆粒に見える教授たちが代わるがわる授業について説明する間も、友は窓の向こう側に見える、校庭に展示された作品群を眺めていた。色も形も素材も規模も全て違うので、自分の生きている世界とは違う場所から、それぞれ集められてきたように見えた。

 なんでこれをつくったんだろう。

 顔を真横に向けながら、友は想像する。きっとこれを作った人たちは、何かからアイデアを得て、そしてこれを作った。作りたくて作ったのだろうか、それとも作らざるを得なかったのだろうか?本当に作りたいものはこれだったのだろうか、この形、この見た目、この表現が正しかったのだろうか?

 作り手ではない友には一生わからない答えだと悟って、友は面白くなった。テストのように正解がなくて、点数を付けられないのは、何にも縛られず自由で、純粋にいいと思えた。

 説明会は一時間かからずに終了した。もう気づけば昼前になっていた。母に連絡をとり、キャンパスを後にする。もしかしたら受験さえしないかもしれないが、いい経験になった。遠路はるばる来たかいがある。友は最後にキャンパスを一度振り返り、また長い道のりを戻り始めた。

 

 上野に着いたのは昼過ぎだった。母はすでにレストランに入っているとのことだったので、まっすぐ店に向かった。駅の目の前に食事が出来る店がいくつも入っているビルがあるようで、その中のひとつの店舗情報がメッセージで送られてきた。東京にはこういうビルが多くて便利だなと感心する。

「お疲れ様。どうだった」

 テーブルについて開口一番、母の方がわくわくしながら質問してくる。

「なんか、すごかった」

「わかる。言葉にし辛いんでしょ、きっと」

 うんうんと勝手に頷きながら、母はコーヒーカップを持って笑っている。

「で、行きたくなった?」

「なんか、よくわからない。もう少し他も見たい」

「そうだよね。まあ焦らず決めなさい。別に進路なんて大学だけじゃないし」

 人の進路なのに何故こんなに楽しそうなのか、あまりよく理解できなかったが、切迫して進路を決めろと言ってこないのは救いだった。大学という場所自体に重きを持たないところもありがたかった。

 世の中には専門学校だってあるし、働くという方法だってある、と母がある日ぼやいたことがある。今回の東京行きを決めた日だった。行きたいところを選んでおいてと母に言われたので、いくつか候補を上げて母に伝えた時に、そう言ったのを聞いた。それ以上何か言う様子はなかったので友も何も言わなかったが、母なりの正直な気持ちなのだろうと勝手に解釈した。

「今日はここからが本番だから」

 母はテーブルに並べられた食事に手を付けながら、意気込んでいる様子を見せた。友が来る前に既に注文を済ませていたようで、友が着席したときには既に何皿かテーブルにある状態だった。

 随分久しぶりの上野だと行きの飛行機で言っていたのを思い出す。息子の用事にかこつけて自分まで来てしまうくらいだから、相当楽しみにしていたのだろう。

「体力勝負だから、ちゃんと食べて」

 母にフォークの柄を突き付けられる。これなら今回の旅のメインはどっちだかわかんないな、と思いながら、食事を始めた。

 

 レストランから出てすぐにあるエスカレーターを一番上まで上ると、直接上野公園に入ることが出来る道のりらしく、さっと目の前が自然の緑に広がった。森に囲まれたような感覚だ。色んな年代の人がそぞろに左右へ歩いていく。聞き分けられない色んな音が遠くから聞こえてくる。少し歩くと、左手に野球場が見えてきた。その奥に公園が続いているのも見える。ここも思ったより広い土地なのだろう。動物園と、美術館がいくつかと、博物館もあると母が言っていたのを思い出す。

 もう少し先を歩くと急に視界が開ける感覚があった。石畳の広場には噴水が上がり、大道芸人が人を集めて何かを見せている。動物園へ向かう子供たちの声も大きい。カフェの外ではパラソルの下が満席で、皆暑そうにしながら冷たい飲みものを飲んでいる。

「あっちが東京都美術館」

 母が示す方にカフェの奥の方に、大きな木に隠れて見えづらいがレンガ造りの建物が見えた。途端にミヤタの祖母の家を思い出し心臓が鳴る。

「ちょっと行ってみる?」

「中は見ないの」

 ちらと母をみやると、まだ何もわかってないわね、という顔で視線を返してきた。

「美術展は頑張っても一日二つまでが限界。あんた朝からあんな遠くまで行ったのに、ここまで行ったらしんどいわよ」

 外観だけでも綺麗だから、と母は勝手に足を進める。動物園のすぐ右、その少し奥にその建物はどっしりと建っていた。

 ミヤタの家をもっと広く豊かにした感じだが、建物の壁面の色も窓のはめ込まれた具合も、どうもあの家にそっくりだった。もしや窓から長椅子が見えるのではないかと目を凝らしたが、窓際には間隔を置いて置かれた一人用の椅子で休憩をとっている来場者の後ろ姿が見えるだけで、すこしほっとした。

 美術館はコの字の空いた部分が正面になるように建てられていた。レンガに囲まれた壁面の真ん中に、人よりも大きな銀色の球体がどしりと置いてある。これもどうやらアート作品らしい。その銀色は、横を通り過ぎ行く人たちの姿を鏡のように映し出していた。言っても鏡そのものではないので映る人も湾曲して見えて、来場者一人ずつをその場で飲み込んでいっているようだった。ここにも異世界からの異質物、と、午前中のキャンパスの風景を思い出す。

「今日はこっちね」

 元来た道を戻り、さらに右の先へ行くと、今度はグレーの外観の建物が見えた。先ほどの東京都美術館とは違い、よりシンプルで近代化された印象がある。この違いはどこから来るのだろう。入り口に随分小さく国立西洋美術館と記載がある。これがこの美術館の名前だ。

「コルビュジェって知ってる?」

 母が友に話しかける。

「名前は聞いたことある気がする」

「その人が設計した建物だよ」

 へえ、と思いながら美術館を見渡す。建物の手前に広いスペースがあり、その右側に随分大きな門のようなものが見えた。

「何あれ」

「あれも展示物だよ。見てくる?」

 有無を言わさずこれはじっくり見たい、と思った。外は暑くずっと居るのは辛いかもしれないが、満足するまで見ざるを得ないような、自分を引き付ける何かがある気がする。

「そうする」

「じゃあ、お互い見終わったら連絡しよう。携帯電話確認してね。考える人によろしく」

 そういって母は、友の大学のパンフレットが入った不織布の袋をロッカーに入れるからと貰い受け、美術館の外にあるチケット売り場へと向かっていった。こういう時に息子に執着する母でなくてよかったと、小さく安堵の息をつく。今回の旅は息子よりも美術展の方が大事だろう。ここでは今、母が特に気に入っている画家の作品が集まった展覧会が行われている。普段あまりお目にかかれない展示もあるという事前情報で、本当に楽しみにしているようだった。

 考える人によろしくとはなんだろうと思いながら、大きな大きな門の前に立つ。こんなの人間がつくれるのかと疑うほどの高さだ。全体が黒とも濃いグレーともつかない色で、表面の質感の重さに圧倒される。前に立って作品の一番高い所を見ると、男性三人が皆で手を突き合わせてうなだれているのが見えた。門の下には頑丈そうな扉があり、これは固く閉ざされている。扉の丁度真上には、美術に全く興味のない人でも知っている、あの『考える人』の像が見えた。

 友にとっては有名人に会うような感覚だった。あの『考える人』が今目の前に実際に在る。母が言っていたのはこれかと納得して、本人によりじっくり目を向けた。

 『考える人』は、その名を聞けば誰もが思い浮かぶあの通りのポーズをとっていた。うつむき加減に腕を顔に当てながら何かを考えこんでいる。姿は想像通りだが、『考える人』は彼単体の作品だと思っていたので、こうして扉の上に座り込んでいるとは思ってもみなかった。扉の高さと比較すると五分の一位の大きさの身体なのに、作品全体の中でその存在感は圧倒的だった。

 彼の周りに目を向けると、色んな別の人間が有象無象にこんがらがってうごめいていて、それが非常に気持ち悪く見える。『考える人』一人だけが何かをずっと考えていて、周りではもっと悲惨なことが起こっているのに、彼は別次元で生きているように見えた。それともそもそもこの現状は全て彼の頭のうちの出来事なのだろうか。説明文なしの第一印象だけで読み解くには壮大すぎる作品だった。

 友はゆっくりと作品から離れ、改めて全体を見つめた。出来るならこの扉を開いてみたいと思う気持ちがある。今の自分には開けられないという確信もある。扉自体があまりにも重そうなのだ。この扉の前では誰でもきっと、自分の無力さを感じるだろう。

 自分の視界の上で『考える人』が、今もじっと考えている。考えていることはもしかしたら、今の自分が考えていることと同じことかもしれないと、友は何となく思う。答えは作品の説明を読めばわかるかもしれないが、今それを読む気は起きなかった。『考える人』は、考えることを友に肯定しているように思えた。それだけ分かれば今はいい。

 友は扉を最後に一望して、素直にくるりと振り返った。流石にこれ以上この暑さの中で外に居るのは身体にこたえる。建物の中に入るために、チケット売り場に並んだ。

「高校生一枚ください」

 料金を丁度払うと、手慣れた流れでチケットが小窓から出されてきた。ガラス窓の奥、箱に並べられたチケットの束をそれとなしに眺めていたが、一般用なのか学生用なのかによってそのデザインも違うようだ。

「こちらのチケットで常設展もご覧いただけます」

 予備知識として美術館では、期間限定で行っている展覧会と、この美術館が所蔵している作品を常時見ることが出来る常設展と、二種類あることを知っていた。このチケット一枚で二倍の作品を見ることが出来るのは何となく徳のように感じる。チケットそのものの価格も高校生であれば千円を切る。美術は高尚なもので、ある程度お金をかけなければ関わることが出来ない世界だと思っていたが、意外にそうでもないようだ。

 玄関口の自動ドアを進むと案内所があり、その隣で展覧会限定のグッズショップが賑わっていた。レジに随分と長い列を作って人々が並んでいる。こういう楽しみ方もあるのか、と友は感心した。こういうところで画集を買ったり、好きな絵のポストカードを集めたりするのが楽しいと母が言っていたのを思い出す。展覧会で展示されている絵が印刷されたクリアファイルやメガネケースなんかがテーブルの上に並べられていて、もうすぐ売り切れるアイテムもあるようだった。案内所の右側にはロッカーが並んでいる。母もここに鞄を入れて身軽に館内を回っているだろう。

 美術館に入館した人々は皆、案内所の右手奥に歩いてゆくので、そちらで今回の期間限定の展覧会が行われているようだった。案内所のすぐ左奥には常設展の看板が見える。母も他の人と同様に右にまっすぐ行っただろうから、あえてここは常設展から見てみるのも面白いかもしれない。何事も基礎から、と適当に思い出した格言を言い訳に、友は常設展の受付でチケットを出した。

 中に入るとすぐに、彫刻がいくつかある広い空間が見えた。奥にはスロープがあり、上の階につながっているようだ。オレンジの光が差すような温かみのある室内に、冷たく重たい色をした彫刻が合計で五つ展示されていた。

 友はすぐにそのうちの一つが先ほど外でみた『考える人』であることに気が付いた。先ほどのものは手も届かない高い位置にあったが、今回の『考える人』は間近に見られるようなので傍に寄る。

 友にとって、これが初めて美術館の中で正式に見る彫刻だった。画集や携帯電話の画面で見るものではなく、正真正銘生身のものだ。

『考える人』は相変わらず深く深く何かを考えていた。彼の表面は想像していたより艶々としている。隆々とした筋肉を身にまとい、小さな石か岩のようなものに座り、顔をしかめて眉の間を集めていた。その様子を見て友は、これが本物なのだと思った。今現実に、友と作品は向き合っている。この世界に、実際にこの作品を創造した人間がいて、その人間が遺したそれと今顔を突き合わせている。長い長い歴史の中に、急に自分も含まれたような感覚に友は陥った。

 もしかしたら、しばらく彼の様子を見つめていたら、友、これについて君はどう思う、とこちらに向かって話しかけてきそうな現実感がそこにあった。しかめていた眉根をぎゅっと引き戻し、曲げていた右手をストレッチさせて、ぱっとこちらの方を振り向き、おもむろに意見を聞き出すかもしれない。そうしたら自分は何と返事をするだろう。その時自分は何を語れるだろうか?

 一度『考える人』から目を離して辺りを見回したが、周りにはあまり人もおらず、居る人は皆各々スロープの上に進んでいくようだったので、もう少し彼と向き合ってみようと、友は気持ちの中で腰を据えた。

 しばらく眺めていると、彼の考えることを少しでも理解してみたいという気持ちが強くなってきたことに友は気がついた。外で見ていた時は、彼の頭の中は理解できないと思ってしまうような壮大さがあったが、あれは扉の大きさと彼の周りを取り囲む群衆に気圧されていたからであって、今対面している彼一人であれば、少しは理解してあげられるのではないかという気持ちになってくる。それ位シンプルで、一切無駄のない作品のように思える。

『考える人』を正面からではなく、右側、左側からも見てみると、また違った表情に見えてくることも印象深い。手の甲に隠れて見えづらい部分も立ち位置を変えることで見えやすくなり、彼の見た目も変わるように感じた。『考える人』は友の前で一ミリも動かずひたすらに自身の思考を深めているが、角度によって見ているこちら側の捉え方がこうも変わるということが友には不思議に思えた。

 せっかく三百六十度見ることが出来るのなら、後ろからも見てみようと回った時に、ふとその後ろ姿がミヤタのそれと重なった。

 教室で後ろから見えたときのあの姿が、『考える人』に重なって揺れた。ここまで体躯もよくなかっただろうし、何よりミヤタの全裸を見たわけでもないのに、何故か目の前のブロンズ像からミヤタのイメージが離れなくなった。

 今この空間には、彫刻が五つある。それらは部屋の広さをふんだんに利用して置かれ、各々が人によって鑑賞されている。その中にミヤタの彫刻を置くところを想像した。もし等身大を置くとしたらこの辺だろうかと、部屋を見つめながら友は想像する。閉館して来場者がいなくなり、不必要なライトが落とされてしんと静まり返るこの部屋で、彼のために用意された大理石の土台の上に、一切の傷が着かないように十分に注意されて梱包されたその彫刻が、ゆっくり乗せられていくところを想像する。どんなものに包まれてくるのか定かではないが、その包みを解いたとき、誰もがため息をつくような美しい青年が現れ、この部屋に君臨するだろう。もしかしたら人間だけではなく、周りの彫刻も驚くかもしれない。その圧倒的な均整と、その憂いに。そして彼は来館する数多くの人に見られるようになる。徹底的に温度を低く管理されたこの館の中で、一切誰にも触れられないように学芸員に見つめられながら、来場者の何万個という目で見とめられるのだ。そして人々は言葉に出来ない感情でその美しさを体感するだろう。何度もここに足を運び、彼に会いに来るだろう。きっとそれは誰にも抗えない、自然の摂理だ。

 

 はっとして携帯電話を確認すると、母からのメッセージが立て続けに入っていた。本当に随分長くこの部屋に居てしまったようだった。母は既に地下の展覧会を見終え、先ほどのグッズショップで買い物をしているという。まだこの美術館のほんの一部も見ていないのにと残念に思いながら、友はスロープの上、常設展の出口へと歩き始めた。後ろは振り返らなかった。またすぐに会いに来るとわかっていた。

 色々な作品を悔し紛れに横目に見ながら出口に向かい、玄関口まで急ぐと袋いっぱいに何かを購入した母の姿を見つけた。

「展覧会すごくよかった。あんたもゆっくり見れたの」

「見れなかった。常設展を少しだけ」

「地下から行ったんじゃなかったの?」

「そこから見た」

 常設展の方を見やると、母は本当に不思議そうな顔をした。

「あんた変わってるわね。何かに憑りつかれちゃった?」

 今までしていたことの全てを見通されていたのではないかと思いぎょっとしたが、母は無邪気に笑っているだけだ。

「もうちょっとしっかり見てこれば。先に品川戻るから、連絡しなさい」

 そういって返事も待たず、母はくるりと背を向けた。

 これだけ長い時間、ずっと立ちっぱなしで『考える人』の側に傍にいたとわかっても、まだ見たい、まだ知りたいという欲求の方が勝っていた。せっかく来たんだからという感情より、見なければならない、吸収しなければならない、考察しなければならないという使命感の方が強かった。自分の身体と脳が許す限り、この建物にある多くの作品と出会い、色んなことを考えてみたい。アート作品はいつでもここにあるわけではない。海外の有名な美術館から期間中だけ貸し出される作品もあることを事前に学んでいた。次にいつどこで出会えるかわからないのだ。もしかしたら今後の人生で二度と見ることがない作品もきっとあるだろう。この機会は今の一度しかないと思うと、芸術が刹那において成立しているのだと感じる。

 考える人によろしく、と言った母の言葉を頭の中で反芻させ、友は再度常設展の中に足を踏み入れた。

 

 美術館からの帰り道、友はハルからのメッセージを受け取った。

 “元気、生きてる?”

 スタンプもないシンプルな画面に友もメッセージを打ち込んでいく。

 “生きてる”“講習どう”

 “ダルい”“勉強飽きた”

 “だよな”

 “大学どうだった”“美大見てきたんだろ”

 友人の中でもハルにだけは美術大学のオープンキャンパスに行くことを伝えていた。明日の午前中には一般の大学も見に行く予定だ。

“なんかすごかった”“俺には無理って感じ笑”

“ウケる”

 ふざけたキャラクターのスタンプがすとんと落ちてくる。ハルには本音が話せるので気楽だし、何より今日は精神、身体ともに非常に疲れていた。こういう気の置けない会話を今、必要としていたのだと知る。脳が疲れる感覚とはこのことだな、と、電車の中で友はこめかみをぐいとひねる。

“まあ明日もあるんだろ”

“ある”

 “今決めろって言われてるわけじゃないし”“気楽にな”

 二人で連載を追いかけている漫画の主人公のスタンプが、画面上で友にピースサインを送ってきた。いつの間に課金したのだろう。こちらからはデフォルトで入っていたサンキューのスタンプを送る。今日はどこに行っていたのかと聞かれたので、オープンキャンパスの後に美術館に行ったことを伝えると、ハルは驚いた様子を見せた。

 “ついに行けたのか””よかったな“”俺には一生わかんない世界”

 テンポよく返信が連続で返ってくる。

 “どんな感じなん”

 美術館に行ったことがない人にあの雰囲気を伝えるにはどうしたらいいだろう。周りに人がいるのにいないような、話し声もかすかに聞こえるのに内容までは聞き取れないような、そこには沢山の人がいるのに、まるで作品と自分しかいないような、そんな感覚があった。それほど自分が鑑賞に集中していたとも言える。もちろん自分だけじゃなく、来場者一人一人が作品と真剣に向き合っているように友は感じていた。日常のどこでも体験できるような感覚ではない。

 “なんか不思議な感じ”

 語彙力の無さに自分でも鬱々とするメッセージを送ってしまった。直接ハルに会った時には伝えられるかもしれないが、今言葉にするのは難しい。

 “なんだよそれ笑”“まあ行ってよかったなら良かった”

 これから塾で夜の講習だというハルは、また連絡するといってメッセージを切った。友も携帯電話をポケットにしまい、ゆっくりと目をつむる。窓の外を右から左に抜けていく高層ビルの姿が今の友には辛かった。目を閉じながら、今日見た作品のことを思い出す。

 大学で見た、製作者が誰か知らないものから、誰もが名前を知っている有名なアーティストのものまで、色んな作品が友の目の裏を通過して消えていく。印象に残ったものも断片的にしか覚えていないものも、今日見た全てはアートなのだ。この世界の広さに唖然とする。そして自分がそこで何をしたいのかを考える。そこで自分に何が出来るのか考える。

 気づけば次が品川だった。友はもう一度こめかみをぎゅっと押して、座席から立ち上がった。

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