ディオニュソスの冬

第二章

 この土地で一番寒いと言われている二月が過ぎ、そして三月になった。卒業式も終わり、上級生が抜けた校内はいつもより話し声も少なく、がらんとして生気がない。人が減っているのが理由なのか、床からの冷気がいつもより冷たく感じる。二年生は三年生に上がる準備をするためにあれこれと教師から言いつけられていたが、それを実行するものは存在しなかった。

 ハルは以前とは打って変わって勉学に励み始めていて、二月の学年末考査時には今まで二人がしたことのなかった勉強会なるものも何度か開催した。いまだ将来の進路を決めかねている友にはさほど大きな行事ではなかったが、大学進学を知らないうちに決意していたハルにとっては一大事だ。ハルに付き合って何度か試験勉強をしたが、勉学への興味がそもそもないので、何かをかりかりとノートに書いているハルの姿を横目に音楽を聴いていることが多かった。

 結局考査結果の成績上位者が廊下に張り出されても、ハルの名前をどの教科でも見ることはなかった。

「今回結構頑張ったのになあ」

「今から頑張ってもすぐ結果は出ないだろ」

 見た目にも落ち込んでいるハルを見ながら友は笑った。

「生物、自信あったのになあ」

 左でごにょごにょと何かを言いながら成績上位者の最終チェックをしているので、友も目の前のA4の紙をじっと見つめた。所々にミヤタの名前がある。名前が宮田(ミヤタ)雪(ユキ)という漢字の表記であることを、ここで初めて友は知った。これだけを見ると女か男かわからないが、本人にはぴったりと合う名前だ。

「こんなに探しても無いなら無いか。腹立つ、行こう」

 随分と我儘に誘われたが、友はおとなしくハルの後をついていった。

 友はといえば、勉強には依然興味が持てなかったが、あの冬休みに訪れた大型書店での一件を気に、何となく美術が頭の中にひっかかるようになっていた。そのひっかかりがミヤタによってもたらされたものだと気づいた時、友は再度畏怖にも似た感情を抱いたが、それを乗り越えてでも知りたい何かが美術の世界にはあるような気がした。今まで取り立てて何かに関心を持てずに高校生になってしまったのに、新しく知りたいことが出来るとは自分でも想像していなかったのだ。そんな自分に素直に驚いたし、普段避けてきたような変化だとも思ったが、この感情を出来るだけ大事にしてみたいという気持ちが強くなっていた。  

 自分の美術への興味は、何か絵を描いてみたり作品を作ってみたいという興味なのか、それとも何か知識として知ってみたいというものなのか全くわからなかったので、まずは手当たり次第に母の持つ画集を見てみることから始めてみた。   

 友はまず、家にインテリアとして飾ってある本から手に取ってみることにした。ずっしりと重い大判の本の表紙は丈夫で厚く、文庫本のように簡単に片手で持ってみられるような代物ではないことを初めて知る。画集を開く際はこちらも整った態勢でページをめくらなければならないようで、リビングのソファにきちんと座って見るようにした。画集というもの自体初見なので、どこからどう見ればよいかわからないが、とりあえず写真をメインに見ていくことにした。予備知識がないまま文章を読んでも理解できないだけだ。作品そのものを理解することよりも今は、面白いと思う作品に出会うことの方に興味をひかれた。

 一冊目を見始めると、そこから先は早かった。それぞれの画集に付随する題やテーマは一見しただけではよくわからないものも多いが、それぞれが持つ特性のようなものはなんとなく感じる。似たような作品がまとまっているものもあれば、色んな作品がごちゃごちゃと掲載されているものもある。どの本を見ても言葉にできない新しい感情が生まれていくようで、友には初めての感覚だった。

 学年末考査が終了し、通常授業も残り数日と言ったところで、学校から帰宅した友はすぐさま母の本棚から画集を取り出し、何となく見つめていた。

「ついに興味を示したか」

 リビングを通りかかった母がにやにやしながら友に話しかけてきた。画集を見ているところを見られるのは初めてだったので、なんだか気恥ずかしいような気持ちもあるが、許可なく勝手に母の画集を見ている友には何も言えない。

「どう思う?」

 母の質問は突然で漠然としていた。画集に対する質問なのか、そこに載っているアート作品に対する質問なのかはわからなかったが、そもそも美術について何も知らない友には質問の意図をくんで返答をする余裕はなかった。

「何冊か見てみたけど、こういう立体の、が、面白いと思う」

 今開いているページには、あの日書店で見た精悍な顔つきの男性像と同じような、友の身長よりも大きなサイズであろう彫刻の写真が印刷されていた。両腕がない半裸の女性が斜め上を見ながら何かを待ち構えているように見える。腰に巻かれた布からは絹の音がしそうだし、腹のなめらかさは触れば産毛が立ちそうだ。

 あの日書店で見た彫刻の写真が、どうしても友には忘れられなかった。画集をめくるうち、ああいった立体の作品はほかにも沢山あって、それぞれ違う人物が彫られていることもわかってきた。生きているものでは無いのに今にも叫んだり走ったり笑ったりしそうな石の塊に、同じものは全くないように見えた。

「そうなんだ。どう面白い?」

「どう、って」

 より突っ込んだ母の質問に友は戸惑った。自分でも何に興味をひかれているか、まだわからない。それでも何か知ってみたい。

「アートって色んな見方があるの。芸術性に関係なく、歴史的に重要な物として見る人もいるし、お金と同じ資産として見る人もいる。今見ている作品と全く同じものを作ってみたいと思う人もいるし、その彫刻を絵とか別の立体で表現したいと思う人もいる。友は何に一番興味がある?その作品をどうしたい?」

 母の質問は衝撃的だったが、それは更に友の視点を広くする決定的な言葉だった。今見ているその作品を、自分次第でどうにでも出来る。まだ何も知らないけど、この世界の何かを知ってみたい。まだまだ未知の領域が大きい芸術の世界に、少しでも踏み込みたい。今まで本能的に何かに興味を持ったことのない友に、何となく道が見えた気分だった。

 

 春休みになってもこの地域の春はまだまだ遠い。雪も積もったまま残っているし、少しだけ緩和したとはいえ寒さは根強く残っている。

 ハルがなんとカフェで自主的に勉強をするようになったので、自然と二人の時間は減った。今までに友が想像もしなかった驚くべき変化だったが、学生としては正しい行為であると思えたので、友はハルの努力を応援していた。

 友はと言えばあの日の母との会話以降、時間があれば家にある画集を見るようになった。途中母に質問をすることも増えてきた。質問するたびに母は、友はどう思う?と先に質問を返してくる。最初は答えがすぐに返ってこないことに対するもどかしさがあり嫌だったが、だんだんとその質問にも慣れてきて、素直に自分の感想を述べるようになってきた。母曰く、芸術に答えはない、自分が思った感想を大事にしなさいとのことで、友の拙い意見を聞いた後はいつも嬉しそうにしていた。

 家にある画集は母が実際に行った展覧会で買ってきたものが多く、知識の浅い友には初歩的でない部分も多かったので、書店で美術史入門の書籍を初めて購入した。なるべくエンターテインメント性の強い初心者向けの本を数冊買い、何となく惹かれる部分にマーキングしたりするようになると、自分もハルのように勉強している気分になって悪くない。まだ卒業後の進路は一向に見えてこなかったが、興味を持てることが出来たという事実に少し安堵感を抱いていた。

 春休みが残り数日となったころ、友の携帯電話に電話がかかってきた。画面越しにハルの名前が見える。普段電話などしないので少々びっくりしたが、すぐに電話を取った。

「もしもし」

「今何してる」

「何も」

 目の前にあった初心者向けの芸術史の参考書を裏返しにして傍に置いた。

「ちょっと出てこれるか?」

「何かあった?」

「話がある」

 話。少し面白がっているような、でも緊迫しているような、妙な雰囲気を電話越しに伝えてくる。今までハルがこういう電話のかけ方をしてきたことがなかったので、友は不安を覚えた。

「なら今話せよ」

「直接の方がいい。どうせ暇してんだろ?来いよ」

 駅前のショッピングモールに入っているカフェの名前を指定され、電話を切った。確かに言われた通り家にいて本を読んでいるだけだったので、すぐに出かけることにした。参考書に挟まっていた新刊の案内を読んだところに差し込み、ソファから立ち上がった。

 家を出た時に気づいたのだが、その日は全くの曇り空だった。灰色の薄い雲が折り重なっているのか、一枚の淡い膜のように空を覆っている。その色が地面の雪に反射して、全体的に世界が暗く見えた。まだ夕方前というのにもう夜を感じさせるような暗さだ。

 いつもの雪道を歩きながら、友は先ほどのハルからの電話について考えていた。わざわざ家にいる自分を街中に呼んでまで話したいこととはなんだろう。電話で直接言わないのももどかしかった。どうせたいしたことでもないのだろう。会ったら会ったで、いや別に何でもない、暇だった、とか適当な御託を並べてにやにや笑う様子が想像できた。

 カフェに着くと奥の方の席から、ハルが片手をひらと降るのが見えた。コーヒーを注文し受け取って席に行くと、テーブル上の参考書やノートをさっと片づけ始める。

「勉強はもういいの」

「いい。飽きた。それよりさっきの話」

 ハルはマグカップに残ったわずかな液体をぐっと飲みほした。

「ミヤタ、やばいやつかも」

「は?」

 厚めの陶器を通してもコーヒーの熱さが指先に伝わってくる。暖を取るために表面を触っていると、じんじんと熱が広がるようだった。これから話される話に、何故か胸が騒ぐような予感がする。その気持ちを知られたくないために、友はぎゅっとカップを握った。

「前にさ、母さんと一緒に歩いてたの見たって言ったじゃん。あれ、母さんじゃないっぽい」

 ハルの話を聞くとこういう流れだった。ハルは休み中、一番勉強に集中しやすい場所を探していた。近所の図書館は余りにも静かすぎて逆に集中できず、わざわざ学校に行く気にもなれず、別の場所を探している時にこのカフェが丁度いいということに気づいたらしい。他の高校生は皆もう少し価格帯の安いフランチャイズのカフェに行くので、今いるこの店は知り合いも来ない。駅前にあるので家にも帰りやすいし、いいところを見つけたと思って通い始めた矢先の出来事だという。

 いつもハルは昼過ぎに街中に着くバスに乗って、このカフェで夜まで勉強して帰る。その帰り道に何度かミヤタを見かけたが、いつも違う女性と歩いていたというのだ。それもいつも一人というわけでは無く、複数を連れて歩いていることもあったという。

「一緒に歩いているのがさ、本当に色々なわけ。前に見た母さんみたいなのから、結構若い感じの人とか。最初はなんか違う人と歩いてるなって思ってたんだけど、それが何回も続くんだよ。お前にすぐ言おうと思ったけどさ、なんか怖くて」

「怖い?」

「自分でもよくわからないんだけど、怖くてさ。人に言っちゃいけないような気がして」

 ハルは苦笑いのまま友に話し続ける。よくわからない恐怖感を覚えたのは本当のようで、手をにぎったり開いたりして落ち着かない様子を見せる。

「それってミヤタが遊び人ってだけなんじゃないの」

 一縷の望みのようなものをかけて、なるべく真面目に聞こえないように気を付けながら友はハルに尋ねた。

「俺も最初そう思ったんだよ。あの見た目だし、あいつ流石だなと思って。でも、何回も見てると、そういう感じじゃないんだよ。女の方がぼうっとした顔をしてミヤタの後をついて行ってて。どの人も似たような顔してさ。何してるんだろうな」

 へらと笑って見せていても本心がまる見えの顔をしながら、ハルは友の目をじっと見た。何か助けを求めるようにも見えたが、友にはどうにもしてやれない。仕方なく会話を続け始める。

「それ、クラスの誰かは見てるの」

「西野なら知ってるかなと思って連絡とったんだけど、一部の女子が見てるっぽい。でもみんな最近勉強で家から出てないから、数える程度しか見てないらしい」

 こんな時にも西野の情報網は役に立つのかと感心さえする。ハルは言いたかったことを全部吐き出せたので半ば安堵の様子に見えた。

「別にたいしたことでも無いのにさ、ただあいつが女好きってだけで終わればいい話なのに、どうしても誰かに聞いてほしかったんだよ」

 

 結局その春休み、ハルはカフェでの勉強を断念し、家にこもるようになった。もう一度ミヤタと彼が連れて歩いている女を見たら、もう駄目なような気がする、などと訳の分からないことを理由にし、それ以降街中に出ることすら控えた。

 そうして最終学年が始まった。二年から三年に学年が上がってもクラスごと持ち越しのため、クラスメイトも変わらなかった。教室がある校舎の階が変わるだけで、他は今までと何も変わらない日常がまた始まる。

 友の春休みはただひたすらに画集と参考書を交互に読み進めて終了したが、その満足度はかなりのものだった。最初は写真だけ見ていた画集の作品解説を読むようになり、文章として作品を理解するようになると、意味を知らない専門用語も増えてきて、更に友の勉強意欲が沸いた。携帯電話で単語を検索すると、それに付随してまた見たことがない作品に出会うことも多くなった。アートは友にとって完全に未知との遭遇だ。平面でも立体でもとりあえず受け入れ、自分が思ったことを直感として記録しておこうと、簡単にノートに感想をまとめるようになっていった。学校にも図書室があることを思い出した友は、月に何度か図書室で、古くてかび臭い色あせた画集を棚の端からひっぱりだすようになった。

 ハルは学年が変わっても相変わらずの様子で、いつも通り元気でクラスメイトに絡まれやすいキャラクターではあったが、本人は何となくミヤタのことを避けているように見えた。誰とでも垣根無く接するハルがそういう態度を他人に取るのは珍しいことだ。もちろんいつも一緒にいる仲ではもともと無かったので周りにもそれは気づかれなかったが、友にはあからさまなものだった。

 休み明けに見るミヤタは、一段と何か惹きつけるものがあった。最初は久しぶりに見るので見慣れないのだと友は思っていたのだが実はそうではなく、友が様々な芸術作品に目を通してきたので、ミヤタを見る時の視点が違ってきたのだ。出会った当初の人間味のない肌の白さは変わっていなかったが、冬休みに感じた異様な髪の伸びは継続していて、前見る時よりさらに長くなっていた。直毛ではなくどちらかというとカールのかかった毛質で、窓から日が差すとそれが透けて所々透明に見えた。妖艶に見える瞬間があるのは髪が伸びたせいで、女性性が高まったからだろうと友は推測した。この学校に長毛の男子はいない。

 友はハルの話を聞いてはいたものの、正直これほどの見た目であれば何があっても不思議ではないという変な自信があったので、ミヤタを特別避けるようなことはしなかった。むしろ色んな女を侍らせていったい何をしているのか、その部分に興味が沸いた。

 ミヤタの春休み中の出来事は、ハルの話通り学校には広まっていないようで、皆も彼も至極普通の様子だった。徐々に受験モードに切り替わる教師に合わせてクラス内も真剣な雰囲気になってくるが、そんな中でも得意の話術で周りの人間を笑わせたりしているようで、ミヤタの周りだけいつも独特の空気があった。彼も誰か特定の人と常につるんでいるというタイプではなく一人行動を好むようだったが、周りの人間を拒んだり、無暗に人と関わらないようにするといった行為はせず、話しかけられれば受け入れ、面白いと思うことがあれば参加するなど、誰よりも自由に活動しているように見えた。ハルといつも一緒にいる友には新鮮ささえ感じるミヤタの性格を、どこか羨ましいと思うことも多くなった。

 

 いつの間にか雪も解け、本格的な春を感じることが出来るのは、この地域だと五月くらいになる。桜も咲き始め、草の青いにおいがし、十分過ごしやすい気候になる。五月の後半になれば夏の暑さも始まってくる。友の高校でも冬服から夏服へ制服の移行がある。

 友はスラックスを乾かす毎朝の儀式から逃れることに成功し、クラス内でどの席に座っても構わない時期になって大変満足していた。そもそも生地が薄くてあまり気に入っていなかった学ランをクローゼットの端にしまい、白シャツ一枚で登校するようになった。

 席が変わって良かったことは、授業中に美術の参考書を読んでも教師にばれないことだ。今までは正直クラスのどこに居ようとどうでもよかったが、今では興味のない内容の授業中は参考書を読みたいし、むしろ英語や世界史の授業は参考書とも関連する部分が多いように感じたので、自然と先生の話に耳を傾けるようになった。

 自転車通学が可能になり、一日の日照時間も長くなる。下校のタイミングでもまだまだ昼の陽気だが、所々で涼しい夏の風を感じることも出来る。北国の一年の前半は異様なほどスピードが速い。その分雪が降ると一日の流れがとたんに遅くなる。誰しもが気に入る北海道の夏は、冬の長さを耐え忍んだあとに訪れるつかのまの喜びのようなものだ。

 

 夏休みを目前に控えたその日、生徒たちは休み中の講習の連絡に気分を害していた。夏期講習のスケジュールが記載されたプリントが前から後ろに配られていく。後列に座っていた友は、また何となしに前方に座っているミヤタの後ろ姿を見ていた。

 学ランを着ていた時はわからなかったが、白シャツからのびる腕は長く思ったより筋肉質だった。それでも肌の白さはシャツのそれとほぼ変わりないので、見ていると不思議な気持ちになる。やっぱりミヤタは彫刻のような生き物だ。生きているようにみせかけた作品。実は石でできた硬い物質。髪が伸びて見えづらくなったうなじと、そこから優麗におりるしなやかな肩幅。

 あれを画集に入れたらどんな感じになるだろうと、友は想像した。家にあるうちどの本に彼は合うだろう。入れるとしたらどのページだろう。どういう写真をとったら、一番彼が良く見えるだろうか。インターネットに転がっている有名な彫刻の写真はどれも似たような角度からのものが多くつまらないので、こんな風に後ろから撮ってもいいかもしれない。正面との対比が出来てもっと魅力的に見えるだろう。

 友は最初にミヤタに会った時にも、彼のことを人間らしからぬ存在だと認識していたが、美術を学ぶにつれてよりその気持ちが強固になるのを感じていた。自分の個人的な彼に対する思いではなく、ミヤタを相対的に見たときに、彼は美術としてこの世の中に存在しているような気がした。ヨーロッパにある美術館の一角、彫刻が均等な間隔をあけて置かれているその中に、ミヤタが居たってなにもおかしくはない。ミヤタはいつのまにか友にとって研究対象であり、美術として保存すべき存在になっていた。

「欠席する場合は早めに報告してください」

 プリントを配り終えた教師が簡潔に講習内容を説明している。ハルの方をちらりとみやると、講習内容を真剣に確認し、プリントに何か書き込んでいるようだった。

 友はこの夏休み、母に勧められて東京の大学のオープンキャンパスに行く予定だった。美術大学の雰囲気を見てみたらどう、と母に言われ、何となくインターネットで大学を検索すると、自分が思っていたより多い数の大学の名前が出てきた。東京だけではなく関西の方にもあるし、この北海道にもあることさえ知らなかった。美術大学と銘打っていない普通の学校でも、美術に関連した事が学べる学部もあるようだった。

 もし、大学に行って勉強を続けるなら、美術に関連することを勉強したい。この数か月で友はそう思うようになっていた。クラスメイトの中には卒業してすぐに就職する進路を選ぶ人もいるし、みんなが知っている名のある大学を目指している生徒もいて、その中で自分だけ明確な目標を持っていないと感じていたが、最近は何となく自分の卒業後の進路を考えられるようになってきた。何かを作ったり絵を描いたりするような制作よりも、世界的に有名な作品を今後もどんどん知っていきたいし、今まで画集の中で出会った作品をより多角的に、色んな方向から見るための方法を学びたいという気持ちの方が強い。美術の歴史を学問として学ぶことに魅力がありそうだと思っていた。

 プリントを見ると、夏期講習と東京行きの日程が半分ほど被っていることに気がついた。受験に必要そうな科目だけでも一応受講しておこうと、友も紙に丸をしていった。

 放課後、最近はもっぱら学校で自習をして帰るようになったハルが今日は珍しく直帰するというので、自転車の駐輪場までの道を二人で歩いていた。夏になれば市内のどこに住んでいようと、生徒は皆自転車通学になる。帰りに寄り道もしやすいし、そもそもそんなに大きな街でもないので自転車さえあればどこにでも行けるのだ。友もハルも例にもれず自転車通学をしていた。

 外に出るとまだ日差しが強い。鞄の奥底に投げられてしまった自転車の鍵を探しながら、二人は互いの自転車の前に着いた。

「友は夏期講習全部出るの」

「オープンキャンパスに行く間は出ない」

「いいな」

 東京の大学をいくつか回る予定にしているので、数日分ホテルを取った。といっても飛行機も宿も全て母が勝手に決めていて、その本人は随分と旅行気分だ。久しぶりに東京に遊びに行くなら美術展も回りたいと、インターネットで情報を検索しながらわくわくした様子だ。元々は一泊二日の予定だったのが、母があれこれと予定を詰め込んだので結局東京に長居するスケジュールとなった。てっきり一人で東京に行くと思っていたものだから何となく一人の時間が惜しい気もしたが、友の高校はアルバイトを禁止されているので当然旅費を自分で出すとかなりの痛手になる。ここは母に従っている方が得策だ。こんな年になって母と二人東京遠征というのも恥ずかしかったが、美術展に連れていってもらえるというのは大きな喜びだった。地元には小さな美術館しかないので、生のアートに触れる機会はほぼない。一方東京には国を挙げて大事に管理されている国宝レベルの作品が数多くある。実際に自分の目で見ることの出来る機会を逃したくはない。

 二人は自転車にのり、家までの道を走り始めた。追い風でも向かい風でも、風が頬をきる感覚が気持ちよい。今日は自転車についているカゴが一段と重かった。図書室で面白そうな画集を見つけたので、いくつか借りてきていたのだ。この重さも今日の夜には自分の知識となり、新しい世界を見せてくれる。まだ知らないことを教えてくれ、更なる興味を煽るだろう。友は自転車のギアを一つ軽い方へと回した。

 あと数日すれば学校も終わり、すぐに東京に行ける。学生最後の夏休みと先生が口を揃えて言ってくるが、そんなことを言われてもどうしようもない。時には誰にも逆らえない。

「オープンキャンパス楽しみだな」

 友より少し手前を走るハルが、前を見ながら話しかけてくる。

「うん。ハルも行くんだろ」

 ハルは夏期講習を受け終えてからオープンキャンパスに足を運ぶ予定だった。第一志望の大学は既に決まっていて、そこしか見ないという。

「うん。もし一緒に東京だったらいいな」

「だな」

「お前がようやく動き出してよかったよ。俺には全然わからないものが好きみたいだけど、お前らしいな」

 ハルの顔は友から見えなかったが、いつものハルが話すような陽気な声色だった。昔から常に自分を肯定してくれる人間なのだ。もし東京でも一緒なら、絶対楽しいだろう。同じ大学に行くことはないかもしれない。今までのように遊ぶことも減るだろう。それでもたまに会って、地元では出来なかったようなことを一緒にしたらもっと面白いだろう。今の生活が変わってゆくのは嫌だったが、それと同時に楽しみなこともあるものだ。友は自転車のギアを更に一段軽くし、右足を踏み込んだ。



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