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ディオニュソスの冬

第三章

  夏休みが始まって数日後、友はバスに乗って家から街中まで出てきた。明日から母といく東京のために、宿泊に必要な物を買い揃えにきたのだ。遠出自体随分久しぶりで何を持っていけばいいのかわからなかったが、母から来た携帯電話のメッセージに必要なものは大方書いてあるようだった。天気もいいし勝手があるので自転車で出かけようとしたが、用事を済ませたら車で拾うからと言われ、渋々バスに乗った

 ハルを含む受験組は毎日夏期講習に参加している。朝から昼過ぎまで学校で勉強したあと、各々自習したり塾に移動して更に授業を受ける予定のようで、夏休み前の学校最終日は皆して憂鬱そうであった。友は何となく受けたい内容の講習だけを選択して出ているので、一コマ授業を受けてさっさと帰宅したりするなど、割と自由にやっていた。今日も夏休みの利益を十分に享受し、昼頃に起きてあるものを適当に食べ、リビングでぼんやりとしている頃に、起きたときには既に出かけていなかった母から買い出しの依頼があった。結局家から出たのは夕方ごろになってしまったが、急ぐこともないと思い余裕を持って街中に着いた。

 友は今回のオープンキャンパスを見て、行きたい大学を決めて受験に向け準備を進めたいと思っていた。受験勉強も何となく始めてはいたが、具体的な進路が見えないのでどうも本腰にならない。今回の東京行きが何か大きなきっかけになることを願っていた。

 母からのメッセージを見返し、行く必要がある店を一つ一つ回っていく。大方母が必要としている物が多いような気もしたが、旅費のことがまた思い出されたので気持ちをぐっと抑えた。

 いつも通り音楽を聴きながら買い物をしていくと、必要なものは思ったよりすぐ揃っていった。音楽というのは不思議なものだ。時間を早く進めたり、スローにさせる能力があるようで、アップテンポの音楽をわざと選んで聞いていたらあっという間に時間が経っていた。最終的にいつも行く駅前のショッピングモールで必要なものが揃ったので、これからどうしようかと思い携帯を開くと、まだ時間がかかるのでどこかで暇つぶしをしていろと母からメッセージが入っていた。せっかくだからまたあの大型書店に寄ろうかとも思ったが、手元にはあれこれと紙袋があり、沢山歩く気にもなれなかった。

 モールの一階に降りると、ハルが前によく勉強で使用していたカフェが見えた。歩き回って疲れていたし、ここで休憩して迎えを待ってもいいかと思い、中に入ることにする。

 平日の夕方で人もまばらで、四人席を一人で使っても迷惑にならなそうな込み具合なので、一旦荷物を席においてコーヒーを買いに行く。荷物を置くと思ったより自分が疲れているのを感じ、普段ならブラックコーヒーを注文するところを、メニューの文章が目についてキャラメルソース入りのアイスラテにした。

 クリームをストローですくって舐めると想像より甘かった。普段飲まないものもたまにはいい。何時まで待たなければいけないかわからないから、せっかくならのんびりしていこう。本でも持ってこれば良かったと後悔しながら、またイヤホンを耳にさした。

 選んだアルバムの半分ほどを聞いたところで、目の前の椅子がかたんと揺れた。携帯から目を上げると、そこにはミヤタが居た。

 あまりにも唐突でびっくりしたが、友はすぐにそれをミヤタだと認識した。何を考えているか、普通の人間には到底理解のできない憂いを帯びたいつもの顔つきで、友の顔を見下ろしている。もちろん今日は学ランではなく、長袖のシャツを着ていた。コットンで作られた軽そうな素材だが、上質な光沢が備わった良品に見えた。椅子に掛けた手には細い銀の鎖が巻かれている。ミヤタの真っ白な肌の上でさらさらと揺れて、ブレスレットも気持ちがよさそうだった。

「永代君だ」

 ミヤタは真っ直ぐに友の目を見据えながら、友に話しかけた。つけていたイヤホンをとっさに外してしまう。二人きりで話したことは学校でもほとんどなかったから、どういう風に返事を返せばよいかわからない。

「ここ、座ってもいい」 

 友の返事を待たずに椅子をさっと引き、ミヤタが目の前に座った。さほど距離感のないテーブルをはさんで座ると、思ったより相手の座高が高いことに気づく。友もクラスの中で身長が小さい方ではないのに、目線があまり変わらない。

「ここよく来るの」

 ミヤタが自分に向かって質問をしている。

「いや、そんなに。何回か来たことがあるくらいで」

「そうなんだ。荷物多いね、それなに?」

 友の隣の席に重ねて置かれている紙袋に目を見やりながらミヤタはさらに質問を投げてくる。ちらと目をうごかしただけでも長いまつ毛が上下するのがわかる。

「ちょっと、頼まれもの」

 今日買ったものをあれこれ説明するのは不毛に思えた。返答をしながら、どうもミヤタの容姿を前にすると、緊張して言葉が出てきにくいのを身に染みて感じる。

「ふうん」

 相槌を打ちながら、ミヤタは自身の耳横の髪をさっとかいた。初めて会った時より更に伸びたように感じる長さ。触れば絹のような質感に見えた。

「ミヤタは何してるの」

 唐突に口をついて出た質問に、自分自身でびっくりとしてしまう。見てみれば鞄も持たず、身軽だ。

「ちょっとね。待ち合わせしてたんだけど」

 待ち合わせ。

 ハルが見た、毎回違う女のことだろうと友は咄嗟に確信した。それと同時に、少し話を突っ込んでみたくもなった。聞いていいことなのかどうか正直わからないが、ミヤタが言葉を濁すようなら別の話に変えればいい。この究極に端正な顔は、自分の質問で歪んだりするのだろうか。

「誰と?」

 ミヤタは友の質問に少し驚いたようだったが、すぐに微笑みの顔つきに変わる。頬杖をついて少し友の顔を覗き込むような形になった。自分の考えを読まれているかのように見えて鳥肌がたつ。

「永代君の知らない人」

 そういってミヤタは自分のマグカップからコーヒーを一口飲んだ。そんな所作でさえ芸術の範疇に見えるようだから不思議だ。

「ナガシロ、って長いね。名前で呼んでもいい」

「ああ・・・うん」

「友達って書いて、ユウだよね、名前」

「そう」

「僕もユキでいい」

 会話がどんどんとミヤタに流されていく。話を聞くと妙に心地の良いテンポで、ずっと聞いていても苦ではないと思えるような、聞いている人の心に何かを思わせるような声だ。自分の下の名前をミヤタが知っていたことにも驚きがあったが、同時に誇らしいような妙な感覚もあった。

「この後は何する予定なの」

 自分のマグカップを細い指で丁寧になぞりながら、ミヤタは友に質問をした。骨ばった関節の先にバランスの取れた大きさの爪が均等にはまっていて、その色は少し紫がかっている。ささくれや傷は一つも見つからない、丁寧に作られた手だった。

 友は、美術館に行ったらこんな気持ちになるのだろうかと想像した。今まで紙や画像でしか見たことがなかった作品を目の前にすると、こんな風に実際に素材や造形を直に確かめることが出来るのだろう。

「今は連絡を待ってて、あとは帰るだけ」

「そうなんだ」

 ミヤタはスラックスのポケットから携帯電話を取り出した。冬に履いていたものより少し細く、また夏素材だった。こちらも暗く上品な色をしている。もともと明るい色は着ない趣味なのだろうか。ミヤタの肌の色とその服の色は、相乗効果で更に美しかった。ミヤタはスマートフォンの画面を簡単に何度かタップし、テーブルに置いた。

「提案なんだけど」

 ミヤタがにやりと笑いながら友に話しかける。いたずらっぽい少年のようにも、想像も出来ないような意地悪いことを考えている青年のようにも見えるその姿を見て、友は一度だけゆっくりと唾を飲み込んだ。

「会う予定の人が今来られなくなったから、友、代わりに来ない?」

 唐突な提案に友は改めて身を引き締める。この人間からは何が出てくるのか、全く予想もつかない。

「代わりにって、どこに」

「うちの家」

 ミヤタの大きい眼球が友の目を見据える。少し目を細めて、またゆっくりとまつ毛を上げる。

「家?」

「そう。よかったら来ない?」

 ハルの家に行くのとは訳が違いそうだった。そこまで仲良くもしていなかったクラスメイトの家に行くのは、知らない土地に足を踏み入れるそれに近いものがある。単純にミヤタがお人好しで、ゲームや漫画を一緒に見ようとカジュアルに誘ってきているのであれば、母を待っている身としては丁重に断って次回の約束をすればよいだけの話だが、今日は、この瞬間は何か訳が違う。

 ミヤタの家に行かなければならない。

 頭の中で誰かが自分に語りかける声がして、友はぎゅっと指を掌に押し込めた。今日、この時以外は在り得ない。何故かわからないが、その家に行くべくして、ミヤタがここに自分を呼びに来たような気がした。

「・・・急に行ってもいいのか」

「もちろん」

 ミヤタは友の返事を見て、ゆっくりと笑顔になった。こうなることがわかっていたかのような表情に見えて、友はより一層緊張した。

「行こう」

 ミヤタは飲み終えた二人分のカップを持って、返却台へと歩いて行った。その隙に携帯電話を取り出し、母に一報を入れる。友人と会って家に行くことになった。果たしてミヤタを友人というべきなのかわからなかったが、とにかく母の迎えが必要ないということが伝わればよかった。

 カフェを出て、二人で並んでモールの入り口を出る。以前冬にミヤタと道ですれ違ったあたりを目指して歩いている様子なので、そこに家までのバス停があるのだろうと想像した。

「荷物が多いのに歩かせてごめん」

ミヤタは友の手にあるいくつかの紙袋に目をやった。

「重くないし大丈夫」

「そう、よかった。そんなに遠くないから」

 こういう気づかいに女子たちは夢中になるのだろう。たった一言でも、この顔から発せられる何かがあればそれでいいと思わせる。

 今までにミヤタと並んで歩いたことがなかったので気づかなかったが、ミヤタは随分と歩くスピードが速い。一緒に歩くのが辛いほどではないが、いつも自分が歩く歩幅よりも広い気がした。これも足が長いせいかと、少し羨ましく感じる。都会生活が長く洗練された洋服を着たミヤタと、ずっと田舎で生きてきた友とでは全く違う生き物のように感じ、隣で歩いていることが恥ずかしくなるようだった。相変わらずミヤタの手首に巻かれた鎖は歩くたびにさらと揺れて音が鳴り、血管の浮いた白い肌を上下していた。

 バス停に着くと同時にこれから乗るバスも着いたようで、すぐに乗り込んで後ろの席に着席できた。街中同様車内も人がまばらだ。赤みが強くなった空に浮かぶ雲の境目から、暖かいオレンジの夕日が窓に差し込んでくる。窓に近づくと熱の気さえ感じる。この土地の夏は過ごしやすいことで有名だが、それでも夕方までは暑くて汗ばむ。この時間くらいから少しずつ冷気を帯びた風が吹き始め、夜には寒ささえ感じる気温になる。

 二人掛けの席を二列使い、友とミヤタは座っていた。後ろの席から、ミヤタが窓の外を見る姿を見ていた。肌がオレンジ色に染まり、いつもより若干生気が戻ったように見える。艶を感じる髪の色素が薄く光り、薄茶に透けて見えた。後ろからでもわかる長いまつ毛は髪のそれより更に細く軽く見え、その下の眼球はガラス玉よりも透明で、青白かった。

「そんなに乗らないから」

さっと友の方を振り返って、ミヤタは軽く笑う。口角が上がる。横に振り向きながら、ゆっくりと下がる。

 これを一つ一つ、紙にデッサンしてみたらどうなるだろうと友は想像した。今までみた画集の中には、彫刻を彫る前にそのイメージをつくるため、生身の人間の裸体を炭でデッサンしたものも多くあった。実際に立体にする前に平面で構想し、それを三次元に起こすのだ。ミヤタは二次元に残したままではもったいないような見た目だ。どれだけ丹念に影を入れ込み、どれだけ精工に細部をなぞらえても、この美しさは一枚のキャンバスの上だけでは満足に表現出来ない。これはまさしく彫刻として、実際に「触れられる」ものとして存在させるべきだ。そのためのデッサンであれば惜しむ必要はない。より完璧な作品へと昇華するための手順なら、全て彼のために行うべきなのだ。

「大丈夫?」

 ぼうっとミヤタの顔を観察していた友は、とたんに現実に戻された。ミヤタが友の顔を覗き込んでいる。顔というより、友の眼球を覗き込んでいる。自分の眼に映る彼自身を見ているかのような動作だった。顔が近い。

「・・・ああ」

 間の抜けた音しか出せない。こちらの考えを見透かされているのだろうか。

「酔った?」

「酔ってない」

「そう」

 そう言ってミヤタはくるりと正面を振り返った。自分から目を逸らしてくれたことに安堵し、一介のクラスメイトである自分をこうも気遣ってくれることに驚いた。きっとこうして誰にでも分け隔てなく接するのだろう。

「次で降りるから」

 しばらくして、今度は振り返らずにミヤタに声をかけられた。街の中央から十五分くらい乗った先の停留所で、二人が通う高校に割と近い場所だった。住宅が多く治安も悪くない、市内でも落ち着いた地域だ。

 バス代を払って車内から出ると、もうすぐ日が暮れようとしていた。さっきまで見えていた空のオレンジはそれを追いかける濃いネイビーの色に飲み込まれそうになっている。夏の陽の長さは一日でも一瞬しか感じることが出来ない。もう少し時間がたてば肌寒くなる。

「こっち」

 バスが来た道とは反対方向にミヤタは歩き始めた。このまままっすぐ道なりを歩いて、大きな十字路を右に曲がれば二人の通う高校がある。自転車があれば便利だが最悪歩いても苦にならない距離だ。バスを乗り換えて登校する友には家の立地が羨ましく思えた。

「こんなに近いなら通学が楽でいいな」

 友がぼそっとつぶやくと、となりを歩いていたミヤタがくすりと笑う音が聞こえた。

「この時期はいいよ。冬はしんどかった」

 そういえばミヤタは北の土地が初めてだったことを思い出す。

「雪があんなに積もるとは思ってなかっただろう」

「あれはすごいね。一面真っ白。映画みたいだよ」

 かくいう本人が映画に出てきてもおかしくないような容姿なのに、普通の人間が思うことと同じ感情があるのだなと感心する。ずっとこの街で生まれ育った友には普通のことも、彼にとっては違う世界だったのだ。降りしきる雪の中、ミヤタがこの道をまっすぐ歩いてゆく姿を想像した。制服の上にミヤタが何を羽織っていたか思い出せなかったので、指定の制服姿を想像した。マフラーをぐるりと首に巻き付け、みしみしと鳴る雪を一歩ずつ踏みながら足早に歩いてゆく。その様はさながら映画のワンシーンのようだろう。青白い肌は降る雪にとけていつか見えなくなるはずだ。しんと静まり返った住宅街の朝を、ミヤタの姿だけが通り過ぎてゆく。

 ほんの数分も歩かないうちに、ミヤタは一軒家の前で立ち止まった。一目で見て豪奢さがわかるレンガ造りの家だ。建物自体の高さはないが重量感があり、一般的な家ではない感じがする。普段訪れるハルやクラスメイトの家とは全く違う雰囲気だった。家というよりは博物館などの歴史的建造物の方に近いような、そんな趣がある。

「どうぞ」

 重そうな黒の柵をキイと開け、ミヤタは中に入っていった。柵の向こうには乗用車が一台とめられる駐車場があるが、今は何もとまっていない。その左側には家の奥まで続く庭が見えた。一軒家にある簡易的な庭ではなさそうな雰囲気が入り口からも伝わってくる。立派な太い幹を持つ大きな木がどんと植わっており、見える限りの緑は全て丁寧に手入れされているように見えた。

 ミヤタは友を柵の中に入れ、内側からそれを閉めた。ギイという古い金属の音が友の耳を突く。そのままミヤタは玄関ドアの前にさっと歩いて行った。

 短い階段の上にはこの土地ならではの二重ドアがある。最初のドアがガラス張りで、引手には金属でできた大きな石のようなものがついていた。真鍮を石のテクスチャーに見せたような凝った作りだ。それを開くと今度は木製の重そうな扉が見えた。ミヤタが鍵を差し込むと、扉は主人に従順そうに自分の鍵を開けた。

 ドアが開くと、室内の冷気が一気に外に流れ出てきた。ぎりぎり夕日がどこかの窓から入っているのか、友の靴をさっと照らしている。足元を見ると玄関は大理石造りだった。左を見ると靴箱があり、その上には天使を象った物入れのようなものが置かれている。天使が仰々しく掲げる皿の上に、ミヤタはぽんと鍵を放った。金属と金属が打ち合わさる音がする。

「入って」

 生活音が何も聞こえない暗くて冷たい玄関で、友は履いていた靴を脱いだ。足に触れる大理石の冷たさが心地よくもあり、同時に違和感を覚えさせる。自分の家のフローリングであればここまでの冷気は感じられない。玄関には今二人が脱いだ靴以外には何も置かれていなかった。傘立てすらないので生活感が無い。

「こっち」

 ミヤタが玄関を上がってすぐにある左側のドアをひいた。木製の扉に四角いガラス窓がいくつか均等に埋め込まれたデザインで、先ほどの夕日はここから入ってきていたようだった。

「適当に座って」

 ミヤタが扉を手前にひっぱると、ガラスが夕日を反射させて眩しく虹色に光った。友は目を細めながら扉の向こう側に入った。

 中を見ると応接間のような場所だった。ミヤタが電気をつけると、部屋の内容が一望できる。奥には先ほど玄関口で見た大木の全様が見える縦横に長い窓があり、窓辺には美しい花瓶が三点、色違い、形違いだが同じアーティストの手によったものが均等に置かれていた。赤、青、緑。花は生けられていないが、花瓶だけでも十分美しい。窓には重そうな深緑色のベルベットのカーテンが丁寧に束ねられていた。

 部屋の中央にはヨーロッパの歴史もののドラマなんかで見るような、長いダイニングテーブルが椅子とともにセットされており、手前にはこちらもベルベットの赤いソファがローテーブルをはさんで二つ置かれている。部屋の所々には絵が飾られており、絵よりも更に華やかな額縁にそれぞれきちんと収まっていた。小さな彫刻や置物も部屋のあちこちに見える。応接間の一番奥、窓の左側には、家庭用とは思えない大きなスピーカーが二台構えていて、その間にレコードプレイヤーが丁寧に設置されていた。古い歴史的なデザインの調度品が多いこの部屋でそのスピーカーは色を的確に揃えられ、インテリアの一部として完成されていた。

 友が唖然として室内を見ていると、ミヤタが友の顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」

 その声にはっとして、友は我に返る。東京で訪れる予定の美術館の雰囲気を一足先に味わってしまったようで、あっけにとられていた。これだけの調度品に囲まれるのは初めてで、隅から隅までじっくり見たい気持ちを抑え、一番近くにあった一人用のベルベットのソファに座った。その様子を見届けながら、ミヤタは天井を仰いだ。

「この部屋には電気が合わないんだよね」

「どういうこと」

「電気の光だけ異様に強くて、部屋の雰囲気と合わない。キャンドルとかろうそくの火の方がよっぽどいい」

 友も一緒になって天井を仰いでみた。確かに天井で煌々と光る電球より、先ほど窓からかすかに差し込んでいた自然の光の方がこの部屋には合っているように思える。ダイニングテーブルの上には燭台があった。金色で凝った装飾がしてある、年代物のように見えた。もしかするとこれはインテリアではなく、実際に今もミヤタが使っているのかもしれない。

 ミヤタは一瞬眩しそうに目をつむり、それをそっと開け、友の向かい側にあるソファに座った。友が座っているものとデザインは同じだが、もっと横に長い。その分ソファの背もたれに彫り込まれた美しいロココ調の文様も長く、高級そうな生地がふんだんに使用されている。ミヤタのためのソファのようだと、友はふと思った。

「家には誰もいないの?」

 友は恐る恐る聞いてみた。先ほどから足音一つ聞こえない。見えるより奥行きのある家なら、もしかすると今も誰かがいるかもしれない。手土産も持たず家に入ってしまったので、できれば挨拶ぐらいはしたかった。何より二人以外誰もいないという状況が、友に緊張感をもたらしていた。

「いないよ」

「仕事?」

「家族はこの街にいない」

「一人で暮らしているのか?」

「そう」

 何か過去に暗いことがあった様子もなく、ミヤタは淡々と質問に答えていく。

「この家はもともと母方の祖母の家なんだ。ここに引っ越すぎりぎりになって、父の仕事が別の街に決まって、僕はあの学校に転入するのも決まっていたから、それで」

 ミヤタが高校生ながらこんな家に一人で暮らしているとは誰も想像していなかっただろう。こんなに学校の近くで、誰も姿を見ていなかったのも不思議だった。そういえば登下校を誰かと一緒にしているイメージはミヤタにはなかった。いつの間にかいないような、そんな存在だった。

「すごい家だな」

「祖父がこういうのが好きだったんだって。気に入ったら惜しまず買う生粋のコレクターだよ」

 そういってミヤタはソファのすぐそばに置いてある、人間の膝くらいの高さの彫刻をそっと触った。こちらも天使が立ち上がって大きな皿を持ち上げているデザインで、天使はミヤタの顔を見上げるような形でにっこりとほほ笑んでいた。

 天使とミヤタが顔を見合わせている様子を見ていると、その二人がまさに作品のように見えた。一つの作品に二人以上彫られた彫刻も数多い。ギリシャ神話に出てくる神と天使の題材ももちろんある。全てを見通す力のある万能の神と、それに付き添って飛び回る無垢な天使。ミヤタの手に下がった細い鎖が天使の皿にあたってシャリと鳴った。

「何か飲む」

「いや、大丈夫」

「そう。友は酒を飲むの」

 突然のミヤタの質問に友はぎくりとした。

友は、普通の高校生がよくしてしまう羽目を外すような行為は今までしたことがない。勉強はしないが、生活的な面においては実に善良な学生だった。ハルもそういったことにはあまり興味がないらしく、二人で酒を飲んでみたり、タバコを吸ってみたりしたことは一度もない。友の家族は誰もそういったものを嗜まないので今まで興味がわかず、クラスメイトがそういったことで自慢してくることは良くあったが、友にとっては正直どうでもよかった。

「飲まない。実は、ちゃんと飲んだこともない。正月にお清めで飲むあれぐらいで」

「そんなの飲んだうちにさえ入らない」

 そういってミヤタはケラケラと笑った。笑うと口の両端がぎゅっと上がって、粒で揃ったつややかな歯が見える。

「興味ないの」

「興味がないというか、機会もなかったし」

「そうなんだ」

 そう言ってミヤタは横を見やった。壁に埋め込まれた戸棚の窓に、年代物の酒の瓶がずらりと並んでみえる。ミヤタの祖父が飲んでいたものなのだろうか。長いこと戸棚に入ってほこりを被っている様子はなく、時たま取り出されて丁寧に拭かれ、また戸棚に美しく並べられているような、そんな雰囲気があった。

「あれを飲むのか?」

「あれは飲まないね。好きじゃない。ワインが好きなんだ。赤。赤しか飲まない」

 珍しくミヤタが感情的に饒舌に、早口になった。

「開けたいボトルが地下にあるんだけど、飲まない」

 そう言ってミヤタはくるりと目を動かし、友の目を捉えた。これがもしクラスの女子なら絶対に断れないような、いたずらっぽい威圧感がある。友としては飲んでも飲まなくてもどうでもよかったが、この後家に帰った時に家族にばれてしまうことが面倒だった。酒を飲んだことがないから、顔が赤くなるかどうか、具合が悪くなるかどうかすらわからない。何より東京行きを明日に控えているのに、ここで何かやらかしてしまったら母がただでは済まさないだろう。そういった部分で友は実に真面目だった。本人としては、親に怒られるのが面倒という一点のみが気がかりなだけだ。

「今度にするよ。味は気になるし」

「そう。残念」

 ミヤタは本当に残念そうな顔をした。美しい眉がひっそりと落ちる。そんな顔をさせてしまって申し訳ない気持ちにさえなる。当の本人はどう思っているのか、実際のところは全くわからなかった。

 外はすでに真っ暗になって、窓からは街灯や車のライトの光がかすかに差し込んでいた。大きく広い窓に、友とミヤタの後ろ姿がくっきりと映っている。異空間に一人招き入れられた事実を再度感じたが、友はじっと窓に映る自分を見つめた。これだけ暗くなってもミヤタはカーテンを閉じようとしない。二人が座っている位置は庭の茂みに隠れて通行人に見えづらいし、見えたとしてもミヤタは気にしないのかもしれない。彼がこの長椅子に座っている風景や、部屋の際に置かれている壁一面の本棚から何かをひっぱりだして読んだりしている姿を外から見れば、映画かなにかの撮影なのではないかと疑って窓の向こうから中を確認する人がいるかもしれないと友は想像した。冬に道端で彼に出会ったクラスメイトたちと全く同じ感情だ。美しい家と美しい家主。

 ミヤタはソファにゆったり腰掛けながら、特に何かを話し始めるでもなく、ところどころ部屋の調度品に目をやりながら時間を過ごしていた。その姿を見ながら友は、一つ一つの作品と彼が目を合わせているのではないかと思った。額縁のような美しい隆線が彫り込まれたイーゼルに立てかけられた油彩画や、部屋のあちこちにひっそり立っているブロンズの彫刻たち一人一人と、あの大きくて真っ白な目を合わせているような、そんな気がした。

 あの目で生きた人間と目を合わせたらどうなるだろう。この視線は彫刻として作品に残せるだろうか。ミヤタの姿というよりは“ミヤタが何かに目を向けるその行為”を作品に残せるだろうか? 途端にミヤタの目が友の目をとらえた。カフェで向けられた目とは何か違った。もっと奥深く、意味があるもののように捉えられた。目を逸らせない。

「君は僕の人生で初めて家に来たクラスメイトだよ」

 ミヤタの急な告白に、友は即座の理解が出来なかった。口から返事も出てこない。

「何で今日ここに呼ばれたと思う?」

 ミヤタは右手をゆっくりとまた先ほどの天使に伸ばした。天使はその手を待っていたように見えた。二人の間に鎖の音が鋭利に響く。

「何でって言われても」

 ミヤタは右側の口角をゆっくり上げた。完璧なバランスを保ったまま口角が上がり、そして下がった。

「君は僕への興味を隠さない」

 友はひゅっと息を吸い込み、止めた。

「僕に興味があるだろう」

 図星だ。正解だ。

「そんな、クラスの女子たちはみんなそうだろう」

 自分のミヤタへの興味が普通であると証明したいのか、友は自分でもわからなかった。それでも何かを返答しておきたい気持ちがあった。

「あの子たちは僕への興味を、僕の前では隠したがる。それが悪いことみたいに」

 そういってミヤタは自分の手首に巻かれたネックレスをそっと触り始めた。細かく繋がった鎖をじりじりとなぞる。学校でもそれをつけていたのかわからなかったが、片時も外したことがないような、その鎖を付けて生まれてきたかのような一体感があった。

「友は何も隠さない。最初から、そうだろう」

 ミヤタの声を聴いていると、不思議と恥ずかしいという感情が消えていくのを友は感じた。こんなにミヤタに見通されていたのに、それを知った今も何故か堂々と目の前に座っている。

「僕のことを好きなわけではないこともわかる。過去にはそういうふうに恋愛対象として好かれたこともあるから。それとこれとは全く違う」

 男性から好意を寄せられたこともある、という意味なのだろう。ミヤタの目は依然として手首のブレスレットに向けられているのに、何故か友は自分の目を見据えて喋られているように感じていた。だから友はミヤタから目を逸らせなかった。

「今まで会ったクラスメイトの中でも変わった興味の持ち方のようだから、僕も面白いと思った。もっと話してみたいと思って、家に呼んだ」

「何でわかったんだ?」

「全部わかるよ。僕にわからないことはない」

 そう言った瞬間、応接間に金属の音が響き渡った。心臓がどきりと鳴る。どうやらこの家のインターホンは鐘の音らしい。二回ほどキンと鳴って、静まった。しつこく鳴らす様子はない。

「来たね」

 ミヤタはまた口角を上げた。今度は左側だった。この時間ぴったりに来ることがわかっていたかのような雰囲気がある。指はまだ鎖を触り続けている。

「誰だ?」

「お客様だよ」

 携帯電話の画面を見たらすでに八時を超えていた。いつの間にこんなに時間が過ぎていたのだろう。画面上に母とハルからのメッセージが交互に来ているポップアップが出ている。流石に母は返信を返さない息子を心配しているだろう。

「帰るよ。誰か来る予定だったのに、長く居てごめん」

 椅子の際に置いていた荷物を拾い上げて、友はソファから立ちあがった。

「まだいたらいいのに」

「明日から東京なんだ」

「東京?」

「オープンキャンパス」

「ああ。そうなんだ。いいね、楽しそう」

 ミヤタはにっこりと笑った。自分のことでないのに本気で楽しみに思っているような表情だった。

 二人は玄関に向かった。電気がついた玄関は最初の印象とかなり違うものだった。深いブラウンを基調とした靴箱は触れば指が沈むのではないかと思うほど柔らかそうな年季の入った木製のもので、それにかかった緑のビロードの布も重厚で美しかった。靴箱の向かいには随分大きな姿見がドアにはめ込まれていた。何につながるドアなのかはわからない。

「友」

 靴を履いている友を後ろからミヤタが呼び止めた。さっと振り返ると、ミヤタが視線を合わせてきた。

「いつ東京から帰ってくるの」

「月曜の夜、だったかな」

 母が組んだスケジュールをしっかりと把握していなかったが、三、四日は行くはずだった。

「そう。次の日の夜は予定ある?」

「ないけど」

「またおいでよ。見せたいものがある」

「見せたいもの?」

「うん」

 そこまで言ってミヤタは口を閉じた。内容までは伝えるつもりがないようだ。表情から何を見せようとしているのか探ろうとしたが、難しい。友は大人しく諦め、一度だけ頷いた。

「九時以降に来て。あと、その人をそのまま入れて」

 ミヤタはその言葉を言い残して、奥の部屋に入っていった。送るつもりもないらしかった。よく考えればハルと友の間柄もこんなものだったか、と妙に納得し、ドアを開けた。

 二重ドアの前には女性が一人立っていた。人がいれば自動で電気がつくシステムらしく、その女は蛍光の光に照らされていた。

 見かけは自分よりもかなり大人に見えた。子供がいそうな年齢くらいの女性だ。俯いた顔を斜め下に向け、じっと立っていた。何も言わないでドアを開けているのもおかしいかと思い、友は口を開けた。

「あの、中に入っていいと」

 女性は友の顔をさっと見上げた。化粧で頬が紅潮しているように見える。ミヤタとは全く違う顔なので、家族ではなさそうだった。待ち合わせしている人が来なくなったと言っていたのを急に思い出す。あの時ミヤタは、待ち合わせしている人は、今、来られなくなったと言っていた。この人だったのかもしれないと思った瞬間に途端に友はぎょっとして、少し目を逸らした。その女性は何も言わず、一礼だけして中に入っていった。

 鍵の閉まる音が聞こえた。その動作は手慣れているようだった。

 ハルの声が頭をよぎる。

 ミヤタ、やばいやつかも。

 ここまで見たならば、最後まで見なければならない。友はこの家を出る前から、ミヤタが週末の予定を聞いたその時から、心に決めていた。ミヤタが言う「見せたいもの」をこのまま知らないままではいられなかった。そのために何かが犠牲になるとも思えないのが不思議だった。ミヤタは何かを無償で見せてくれると固く信じられるものがある。友がミヤタに興味があるのと同時に、ミヤタも友に興味を示したのだ。そこに対価は必要なかった。

 ガラスドアを閉める時、ブワンという音がした。このドアの向こう側で今何が起こっているのか、友には全く想像できなかった。想像しても当たらないことがわかっていた。ミヤタはいつもその先を行くのだ。

 友は今一度ドアの取っ手に目をやり、そして振り返ってバス停を目指した。



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