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ただ居る記。第11回

 先週は2週間ぶりにBUoYの喫茶スペースにただ居たのだった。(写真は全く関係なく、この間いった京都の川。川……。)。

 こう、労働がかさんだり、てんやをわんやしていると、人はただ居られないんだなあとも思う。ただ居る。は、実は結構難しい。生活に追われている人はただ居れないのかなあ。たとえば、ワンオペ育児をしている女性は、家の中ですら、ただ居る事は出来ないのかな、と想像する。また、路上生活を余儀なくされている人や、難民や、受刑者とか。

 そんなさなかの、ただ居る。今回はあらかじめメールで逢いたいと言ってくれた方と話す。かまどキッチン→http://kamadok.tumblr.com/という人々だった。劇団……というのか、集団というか、運動体のような人達で、下北ウエーブにも選出されたらしい。そんな、いわば「血のつながりはないけれど演劇の後輩」な人達。
 それで、いろいろ話す。

 表現の事も話した気がする。が、よく考えたら人ってそうそう日常で、「表現について」なんて話さないよなあと思った。それはもう、日々労働をしているとまさにそうで、労働の最中に「表現における他者とは、単に自分の認知の外にある存在ではないのではなかろうもんか、云々」みたい事は話さない。
 その代りするのは天気の話や、インスタントラーメンはどこで買うと安いとか。

 かつて僕は、そういった天気の話は、一切するものかと構えていた時期があった。

「そんなもの、共同体の確認のためだけにただするような、安心とかりそめの仲間意識を感じるためだけで、天気など口にしたら、センスが退廃するわい!」

 と思い込んでは、口にすること、耳にするものはとにかく面白いものであるべきだと、ケンケンツンツンしていた気がする。つまらないものを見聞きすると、無理やりにでも腹を立てようとし、凪のような会話には奇声を上げて暴れまわり、迷惑をかけようとか思ってた。

 まあ、思うだけで、結局天気の話もしていたような気もするけれど。
 でもあのころ、どうでもいい会話が苦痛で仕方なかった。人と本当に話せなかったなあー。目も合わせられなかった。ただ自分の中で決めていた「面白い」以外見ないようにしていた。今思えばそれは、「自分の中の確認のためだけにする」、ひどく小さいものだった気がするけれど。

 で、今の僕が意識的にやっている事は、「人と話そう」ということだ。労働先でも、一緒に働いている方がいろいろ話しかけてくれる。その話も、「相槌」を打つと、いろんな話が引き出せることが分かる。だから積極的に、意識的に「相槌」を打てるようになればいいんだが……

 これが本当、難しい。気が緩むと僕はずっとしゃべりがちなのだ。ずーっとずーっと、話してしまう。

 たとえば、かまどキッチンの方々が席に着くなり、僕は延々と話し続けてしまった。話し続けて、話に熱が入り、ついに、さて時間だ、帰るかってなタイミングで、「あのう、まだ名乗っていないんですが……」と。
 自己紹介のタイミングすらさせず、ただただ、ペラペーラと……話してしまうんだよなあ。

 ただね、自己紹介って、いるかね。
 ただそこに居る事、話すこと、そのものが、自己紹介だと思うんだけどどうだろうか。というか、ほとんどの自己紹介ほど、自分を紹介していないよなって思うのだった。名前を名乗る。その事だけに何の意味があるかねえと。
 そして、逆に、その意味のない自己紹介を、むしろこちら側が、自己紹介を受ける側が「よく見る」事によって、人は表現のとっかかりを得たりするんじゃないかなあとも思ってたりするのだけどどうだろう。

 どうなんだろうなあーと思いながら、ただ居る。ただ居るうちに、かまどキッチンの彼らは「プロデュースさせてください!」との事。ジエン社を……? 相槌うってたら、こうなった。不思議だなあ、相槌って。この話はまた……後日……。

 

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