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ただ居る記。第10回

 先週は、ただ居ながら、「早稲田の壁」問題について話したのだった。

 あいもかわらず、ただ居た。
 その時私は、リーディングイベントの演出というものがあり、どうしたものかなあと頭を悩ませそれなりに忙しくしていたが、それでもただ居た。呆然とただ居た。パソコンすら持ってくるのを忘れ、もう、忘我だった。夏の終わりなのに、全く何をすることもなし。

 その何もしない、ただ居る僕に、事前に知人から「この日に早稲田の壁問題について語りたい人がお会いしたいらしく、来るみたいですよ」と聞いていた。
 それで会ったのだった。こんな状態の僕にだ。「壁問題」について話したい、と……。

 実は先走ってツイッターの方でこの話を連投ツイートをしてしまったんだけれど、あらためて話しますと、早稲田の壁というのはこれの事です……

 いわいる立て看(タテカン)問題。この問題は京都大学でのタテカン抗争の方が有名かもしれない。
朝日新聞デジタル→タテカン「罪のないユーモア」 京大出身作家も反発
 それが早稲田でも、立て看板排除の波がやってきた。上の写真のように、学生たちがある程度のルール下で自由に看板を掲示していたスペースを、とつぜんあんな看板で埋め尽くされてしまったのである。
 僕は自身が早稲田在学中(02年~06年)、立て看板になっていたこともあったので、これは他人事とは思えない。

 ↑こんな感じでね。早稲田の壁を使って、思いついたことを即看板や張り紙にし、勝手気ままにパフォーマンスをしていたのだった。

 それが、あのセンスのかけらもない……大学の当局の作成したらしい看板(らしいっていうか、あれが何なのか、どこに看板を作った責任の所在があるのか、全く分からないんだよな)が突如出現したと。
 その事について「何とか変える事はできないか」と、その方は雑談をしにやってきたのだった。

 あー、いいなあと思ったのは、こういう問題を「議論」でもなく、「雑談」できたことだ。これは、「ただ居る」からできたことなんじゃないかなと思う。
 それにこの問題は、生活にとっては優先順位が低い話題なのかもしれない。自分たちの生命に直接の危機には遠い。「生活保護打ち切り問題!!」とか「徴兵制の復活議論に待った!!」「微妙に上がり続けるコンビニのおにぎり価格に待った!!」とかではない。大学の壁がどうなろうと、別に我々は生活ができる。

 でもヤなのだ。

 早稲田の壁が、あんなつまらない、センスの何一つない、だのに制作費は掛かってそうな看板に埋め尽くされ、しかもルール(一団体180cm×180cmを二枚まで)を大学側が破って占拠し、学生の立て看板を設置させないという横暴な態度が、震えるほど許せないのだ。

 どうすればこの状況を、すこしでも変化させられないかどうかというのを、全く関係のない時と場所をすごす2人が、生身の体で雑談し合っているのがいいと思った。
 いや、ツイッターでもいいと思うんですけどね。はてなブログのコメント欄でも。でも、ツイッターですら、雑談でなく議論……めいたものになってしまうのがちょっとなあ……。

「さかなクンを見習うべきではないのか」と僕は言った。本当に単なる思い付きだが、さかなクンほど今の日本で政治運動が成功している運動家は居ない。そうです。「日本で魚に興味関心を持つよう継続的な政治運動をしている運動家」であるさかなクンさんの話をしている。
 奴が本当にすごいのは、「魚が好き、というだけで、他者の心を動かす行動をすることができる」という点だった。そしてその政治運動の原動力が、理でも利でもなく、「おもしろい」という点で人を動かしているのが、すごく良い、と。
 あれを見習って、つまりさかなクンさんを見習って、早稲田のセンスのないあの看板をくさし、撤去に持っていくことが「おもしろく」なったらいいなあ、と……。

 しかし話しているうちに、「僕のような部外者が、早稲田の壁について言っていいのか、考えていいのかどうか」という事がずっと引っかかっていた。大学を卒業してもう10年近くたつ。そんな人間が、出身大学の振る舞いについてとやかく言うのは、現役の学生の頃だったら、煙たく思っていたんじゃなかったかなあ……。

「どこまでが当事者なんでしょうか」

 とその方に言われ、ハッとする。当事者だから発言していい、部外者だから発言したり、関わったりするのは避けるべき、という、発想って、世界を狭くしないかどうか。
 そして僕も無意識に、人を「当事者」と「部外者」に分断していなかったかどうか。そうした分断による弱体化は、権力を持つ人にとってすごく都合がいい。

 さかなクンがいいのは、さかなクンは「魚」の当事者に、いつの間にかなっている事だ。さかなクンが「魚」を語る事は、当たり前かのようになっている。なぜならさかなクンは魚だからだ。魚が魚について語るのは当たり前だし、当然の権利だ。
 だが、冷静に考えると――さかなクンは、人間じゃないか! 盲点だった。これは冷静に考えないと分からなかった。さかなクンは魚じゃなくて、人間だった……実は魚にとっては、部外者だったのだ。
 しかしさかなクンは、「魚について語れる当事者」という立場を、人間という部外者でありながら獲得している。その原動力も、やはり「好きだから」。それも、過剰にだ。「そんなに好きなら……仕方ないな」と人に思わせながら。

 ブランクがあるとはいえ、僕だって立て看板だった過去がある。一時とはいえ、看板そのものだったんだ。看板人間だったのだ。それが排除されつつあるというのだから、憤ってもいい。僕もいわば、さかなクンと同じだ!
 この憤りを、もっとも当事者である現役の早稲田の学生の方に、どう伝え、どう面白く見せることができるか、展開することができるかどうかだなあ、と思っている。なにより面白くなくてはだめだ。上から目線で啓蒙する、なんてな事があってはならない。
 「魚は大切な資源なモンで、もっと勉強するように」と言われて、魚に関心が持てるだろうか。そんな事より、頭に生身の魚を載せて、語尾にすべて「ギョ」をつけて飛んだり跳ねたり魚を食べすぎて入院したり異様に上手い魚のイラストを見せてくれる方が、はるかに有効だったし、心にも残る。

 やっぱさかなクンだよ……さかなクンのように、僕もなれるだろうか。

 そして、当事者/部外者が、発言をする。関心を持つ。表現をする。という問題は、劇作をして、社会に向かって「公(おおやけ)に演じる」事をしている僕にとっても、そう簡単に見逃せない重要な問題なのであった。

 当事者なあ。当事者かあ。当事者になるのがいいのか、部外者のまま表現というのはできるのか。正しいのか。正しくなくてもするべきなのか。悪として、毒として、部外者のまま表現し、それが面白く、公に演じる価値がある物になるのか。

 面白さで、人はどこまで変えることができるのだろうか。

 そんなことを、議論という真剣な場ではなく、ただ居る。ただ居るだけの僕に話しかける。そんな場で起きた「雑談」で考えさせられた、というのが、僕にはすごく良い事だなあ、と思ったのでした。

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