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ある日の高校演劇審査員日記 その3

9月28日

 須貝くんからもらった自転車が消えてしまったことを、どう言い訳しようかなということはスッパリと忘れ、足立区にきている。高校演劇審査員3日目最終日。足立区。
 高校演劇大会の初審査員をおえました。請け負った城東地区のAブロックからは、都立紅葉川『紅葉殺人事件』と都立東『僕の父には名前が無い』を都大会に推薦しました。
 三日目のレポートもさっそく。感想を書くのが楽しくて……。また余力があったら審査の過程……というほどのあれもないけれど、いろいろ書くつもりです。

高校演劇東京都城東地区Aブロック三日目
1【都立深川】『Crazy for me』
 こちら生徒創作。地域FMラジオの、午後のけだるいワイド番組「古賀サリーヌのCrazy for me」のパーソナリテイの古賀はどこか狂っていて、その内面世界とラジオ番組進行が混沌としていく……という……

 あらすじまとめからして、びんびんに狂ってる感じがするんだけれど、緩く狂ってたなあ。完全に好みの作風というか、異端の世界観。ゆるいFMラジオの絶妙なノリと、そのパーソナリティが静かに狂っているということ。そこに「疲れ」というか、限界と共存して生きている一人の女性が描かれている。
 ラジオをやっているはずが、いつの間にか「母」が出現し、主人公をひたすら甘やかす。過度に干渉する。狂いの根源として出現するけど、それを敵として描くんじゃなくて、そうなっちゃってる、そういうものとして、ラジオ語りの中にぼんやりとそこに現れる。
 そのまま地続きのまま、ゆるいFMラジオのゆるいご当地アイドル(これが絶妙にかわいらしく、絶妙に売れる事はないクオリティ)による、生ぬるい現地レポートがありーの、また妄想に入り―の、ラジオにもどりーの、緩い狂気を携えたまま、異様な情報量を流しながら、舞台は進行する。

 なぜか時々挿入される「プー」という放屁。単なる下品なギャグかとおもいきや、最終的にそれは「生理現象だから、逆らえない。運命だよ、私たち。運命おなら共同体」「父さん、母さん。おならなんだね」というすごいところに行きつく。そうか、おならなのか。ラジオという、言葉を生成し、出すという事……。
 大会を通じて随一の狂気を垣間見て、主人公の俳優を兼務するこの脚本の書き手はおそらく、表現と言うものを生涯かけてやることになる運命にあるんじゃないかなと思った。脚本から生成される狂気、それも、晒そうとして見せつけるような狂気ではなくて、そうせざるを得なくなっている狂気がいい。

 ただ、脚本、言葉、世界設定ではかなり表現できているその独特の狂気が、あと一歩演技や演出で描き切れてはいなかったんじゃなかったんかなあ。というのも、講評でも言ったけれど、身体が元気で、生き生きとして、ゆるい狂気の身体に成れてなかったんじゃないかなあと。
 だからこれは、3年……10年くらいかなあ。多分、疲れ切って、どうしようもなくなって、それでも表現をせざるを得なくなって演じてみると凄みが増すのではないか。逆に言えば、現時点でこの脚本はある意味老成してるともいえるのかなー。……違うか? なんだろう。うまく言えたらいいけれど。

 あとは演出。何を見せたらより面白いか。何を省略し、何を急に見せ、どこで正気に戻らせると面白いかを考える。現実と語り妄想の演技体を考えたり、あるいは、美術として使用した無数の布の使い道をもっと考えてもよかったか。ラジオブースをどこに置くか。長机でよかったかどうか。
 確かにラジオブースは今回中心になる話だったけれど、存在を大きくし過ぎると妄想混沌のシーンで目についてしまって、邪魔になってしまう。いや邪魔でもいいのか。ただ、上手に固定してしまって、どうも舞台を不自由な印象もあったなあ。いっそ、舞台のど真ん中に、後ろ向きで配置とかどうかなーとか。
 あるいは舞台上の布は、きれいだけど、この脚本のどの部分を刺激し、俳優にどう影響を与える事を期待してたのかかが、ちょっとリンクが薄くもあった。とすれば何ができたか。この辺ももっといい知恵を掘ればあったかなあ。そういう、テクの部分、緩急であったり、見せ方であったり、そこが惜しい。

 とはいえ面白かった。他とは代替えの効かない、唯一無二の物を見る事の出来た喜びがありました。そこに、唯一無二の俳優の演技で、どう見せるか、でう動かざるをえなくなれば面白いか……考えていくとよりいいのではないかなーと思ったりなんだり。

2【都立白鷗】『7月14日』
 こちらも生徒創作。友人・駿を救うため、4人は神を降臨させ、駿の死を回避するためタイムリープし奮闘するが……というあらすじ。

 タイムリープモノは、基本的に一人がタイムリープすることで、「世界で時間が巻き戻っているのがたった一人だけ」というアウェイ状態で奮闘するのが基本。タイムリープとは、キャラをアウェイで存在させ、孤立させて、不利な状態にさせることでドラマを進行させることでもある。
 それを「4人同時のタイムリープ」だと、緊張感が減ってしまうのは、タイムリープしてるという事情を少なくとも4人が知ってしまえてる。不利な状態が緩和されてしまうのだ。だが、この脚本の白眉な所は、「4人がタイムリープを繰り返すうちに分裂し、立場が分かれる」ところにある。

 そこが、物語の描き所だったんじゃないかなあと思うが、物語はそこで終わってしまう。
 何回もタイムリープを繰り返し、それでも運命を変えようとする派と、むごい未来を繰り返し駿を何回も死なせている事に限界を感じた派の二つの立場の出現は斬新でいいなと思ったんだけれどなあ。
 ただ、「タイムリープ」というギミックをやりたいがために、細部を随分と雑に処理してないかなと。まずタイムリープを「神」を出現させて、その神にお願いをして時間を戻してもらうという設定。「神」を出すのは、ちょっと安直に過ぎるのではないかというのは、万能すぎるからだ。

 タイムリープモノの他の先行例をみてみると、ギミックに富んでいる事が分かると思う。そのギミックの持つ制約を突きながら、時間をやり直し、奇跡を起こすからタイムリープモノは面白いのだと思う。そう考えると、「神」を出したら、なんでもありになってしまう。
 フィクションの中のルールを、いかに構築するか。そのルールに基づいて、脚本が展開し、そのルールの中で、ありうべき身体を考える。なんでもありでは、身体やキャラに負荷がかからない。そうなると、駿を簡単に救えてしまう。だから、「救えなかった」という事に説得力が無くなってしまう。

 講評でも、駿の死が唐突に何度も繰り返されると、シリアスなはずなのに「笑ってしまう」と意見が出た。それはきっと、タイムリープモノをやろうとする前提でキャラクターや物語が動くから、困難や悲劇を唐突にせざるを得なくて、その唐突な悲劇が笑いになってしまうのかもしれない。
 何かの形式やジャンルをやりたいがために、それを無理に見せようとするところに、思いもよらない笑いが出現するのかもしれない。やりたいジャンルがあったとして、それは何故成立しているのか、どういう要素で構成されているのか。そのあたりの分析が必要なのかもしれないなあと思った次第。

3【都立隅田川】『ヒメゴト』
 こちらは既成の脚本を潤色したもの。とにかくこの日一番の笑いをかっさらった。シチュエーションすれ違いロングコント。ニートの姉とさる国の王女が立場を入れ替えて、兄弟メイドに誘拐犯がすれ違いすれ違いああ勘違い……という話。
 とにかく、兄役の俳優の上手さ、声のでかさによる、安心感が半端なかった。一人安心できる俳優によって、観客は本当に心から笑える。舞台上で俳優は弱者になることはできなくて。観客よりも強くなければ、こっち側を揺さぶる事はできない。その点、兄役の俳優の強さは信頼できたなあ。

 コントだと思った。とにかく、観客を笑わせる。それも、一発ギャグなどではなく、すれ違いの、構造からくる知的な笑いだ。題材は、確かに使い古された交換・勘違い・ズレのコント。ただそれを成立させるための輪郭のしっかりとした演技はさすがの一言に尽きる。
 よく稽古してると本当思う。王女/姉役の一人二役など、ハッキリ演じ分けないとこの笑いが発生しない。そうした部分も十分だった。後半、ややテンポが乱れたけれど、大きな瑕疵ではない。ただ、なぜか舞台を上手だけ偏ってみたり、流れを崩してしまう場転も垣間見えたかなあ。

 ただ、僕がコントに寛容じゃないってわけじゃなくむしろ好きなんだけど、会場でおきた爆発的な笑いは、果たして瞬間のためにあって、観客を変えたり、あるいは10年後も心の中に残り続けた笑いだったかなあと思うと、雑味が足りないと思った。
 もう一歩、その笑いに、何か入り込んでほしい。
 狂気? 教養? 抒情? ……何か一つ。この脚本と演出で、もし別な人で、すごくうまい人が演じても、同じくらいにウケてしまうとおもう。この演劇部の固有のものになってなかったんじゃないかどうか。

 どうかなあ。笑いに雑味が入ることを良しとしない人もいると思うけれど。僕が好きで、何十年と心に残っている笑いは、どこかで笑い以外の余計なものが入ってた気がする。松本人志のビジュアルバムだったり、モンティパイソンのコントなんかもそう。笑いの中に、固有のノイズがあって。
 そういうノイズが、笑いの邪魔をしてでも、入っている事が表現なんじゃないかなあ、と思うけれどどうだろう。笑いを作品にする、個が入るのを嫌う人もいるけれど。でも瞬間の笑いを永遠にするのは、そうしたやむに已まれぬ個が僅かに含まれる雑味なんじゃないかなあと思ったんだよなあ。

4【岩倉】『受付番号#4771』

 こちらは既成の脚本。「お魂様」たちが順番を待つ待合室。お魂様たちは長い待ち時間の中、生前の事を話し合っていると、そこに警報が。どうやら不完全な死だったため、生き返り事案が発生したらしく……という内容。

 講評の時に僕は、この劇は、脚本も含めて、外からの目で作られていないんじゃないかなあと思ったのだった。ほぼ初対面のはずの4人(魂様)はすぐに打ち解け、自分の話をし、楽しくしりとりをしたりする。そこで語られている話も、どこか他者がいない。
 ただ、ここから先は講評と言うより感想と言うか、思ったのは、この劇も「死」をめぐる話で、その「死」は劇中、きわめて肯定的に描かれる。生き返りを拒否し、皆の協力で「生き返らずに済んでよかった」として、安らかに死を受け入れる登場人物たち。
 「死」が、ある意味希望のように描かれている事に、どこか戸惑うものの、それが演者や作家の正直な気持ちである事に、現代の高校生の置かれている立場をつい想像する。生きさせられている、生きる事を無理強いされている、安らぎを奪われている……のかなあ、と。
 劇中の構造を考えると「受付をして、待合室で順番を待ち、時が来て楽しい魂ライフのために冥界へ旅立つ」というもの。そこに葛藤や対立はほぼ描かれない。偶然待ち合わせた4人が、楽しく話し、自分の話をし、悩みをすぐ受け入れ、それを否定せず、一緒に死を受け入れる。
 これはかなり、正直なところなんじゃないか。もちろん死生観は人によって大きく違うんだろうけれど。

「誰からも怒られない、否定されない、楽しくて、寂しくなくて、ケンカしないで、粋な計らいもあって、生きたくない。死なせてほしい。」

 静かで優しい叫び声なんじゃないか。
 もちろんそのとおりには実際は表現されていない。僕の一方的な解釈であって、これは作品の批評ではない。でも高校生の、ある部分でのリアルさを感じてしまう。
 生きたくはないのだ。

 僕らは彼らにそう思わせている。生きたくはないと、生きる事への憧れがない、ということの方が、説得力が強い。そういう社会を担ってしまい、押し付けようとしているものの片棒を担いでいるのかなあとも思った。
 そしてこの作品を否定的に思ってしまう僕は、致命的に「分かっていない大人のおじさん」なのかもしれない。見ながら、そんな風に感じた。
「分かっていない大人のおじさん」として、僕は彼らと話ができるのか。つい「生きていきましょう、生きていきましょうよ……」と呟いてしまう。

「もう少ししたら、なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらねえ」(『三人姉妹』神西清:訳)

 っていうチェーホフは、彼らにどう響くんだろう。
 なんか、話がしてみたいなあ、と、ぼんやりそう思った。

5【関東第一】『明日』

 こちらは顧問創作。パンフレットには顧問創作だと「◎」印がつく。結婚前夜、ゆり子は様々な事を思い出す。『明日』というタイトルで映画を撮っていたあのころ、すぐいなくなってしまう妹の事、プロポーズしてくれた彼の事、そして、閉じこもってしまった父の事……。

 また「格」って言葉を使ってしまうけど、格の違いを見せつけた舞台だった。30人が躍動する。30人が動く。動いて、ゆり子の結婚前夜に現れる。人の多さよ! そして全員が一切手を抜かない。全員が同じ方向を向き、物語を紡ぐ。
 そりゃあ圧倒された。30人の一人一人が精鋭だ。よく訓練されていて、一人一人からいつでも物語が始まれる強さがある。そしてその人数に埋もれないメインどころであるゆり子役の俳優の、上手さ、強さったらなかった。ずば抜けた俳優能力だった。能力で言えばこのブロックで1番ではないかなあ。

 で、僕は講評で何と言ったかと言うと、演出と脚本が悪いんじゃないかと、否定的な事を言う。
 これだけの人数を擁して、これだけの人材がいて、それを群衆としてしか見せる事しかできないか、物語や演出に絡める事ができないか、と熱を込めて話してしまった。
 全員が同じ方向を向き、同じ目標に向かって頑張るということ。これの何が悪いのか。僕自身もうまく言葉が出せない。もちろん一人一人を際立たせようとしていたパートがあった。でも、違う顔のはずの30人が、どこかで全員、同じ顔になってるような気がしてならなくて。

 そしてそれが、その30人いるという事、30人舞台にいて、同じ方向を向いて頑張ることが、ほぼ物語や見せたい演出に関連付けられてないようにも思えた。
 劇中語られる「父」が閉じこもる話。ゆり子と妹と家族は、明日結婚式を迎える。その日の1日の物語。しかして30人は何の役割があったのか。
 事情は敢えて汲まない。きっと大変なのは承知の上。でも30人をなんのために同じ方向を向かせて、一生懸命にさせたのか。一人一人力のある俳優だったはずだ。そんな風に一生懸命な身体の他に、表現できること、考える事はできたはずだ。

 それなのに、重要な物語のシーンは俳優の力だけに任せているようにも見えた。演出がまったく効いていない。
 電話で二人が話す。俳優がうまいから見てしまう。でも、その会話を電話でさせていいのか。電話を使うにしても、ただ並列で立たせただけでいいのか。
 もっと一人一人を見せる事は、一人一人の企みや工夫を、群れにせず演出できる余地はなかったのか。
 あるいは脚本。その家族の結婚前夜、明日の話。明日は、誰でもあったはずで、ゆり子と父の家以外にも明日はやってくるのではないか。なぜここだけを書くことにしたのか。
 と、演出と脚本のせいにしたかもだけど、じゃあ俳優も、一生懸命以外、みんなのため以外で立つことはできなかったのかどうか。それは考えられなかったかどうか。

 競え、ギスギスしろ、というわけでは絶対になく。ある一つの流れの一生懸命から、もう一歩踏み出して、そこに「個」として表現することはできなかったか。
 これは難しいし、悩むと思う。でも、それをなすこと、考えることが、大きく言うけど、2020年以降生きることに直結する立ち方なんじゃなかろうか。

 ここまで格の違いがあって、ここまで強くて、すごくて、圧倒的な表現だからこそ、僕は審査員という空気読まない人間として、無理難題を言わせてもらった。本当、誰よりも稽古したんだろうことはわかってる。どの高校より群を抜いて能力があった。確実にあった。
 でも僕はこの作品を次の大会へとは推さなかった。

 本当悔しいと思うだろうし、恨まれるような講評をしたかもなあ。でも、こういう意見になるのは僕にも譲れない部分がある。一生懸命以外の戦い方で、20年演劇をやって生活している。この先も僕は、殺されても表現を辞めない。そういう人の意見の一つだと思っていただければとおもってます。

6【都立科学技術】『ブルースクリーン』

 生徒創作。「青が描けなくなってしまった」若手画家。青が青でなくなってしまっている。その画家に寄り添う一人の女。画家は迷いの中、「消えた天才」の元へ尋ねるが……というあらすじ。

 キャラクターの造形や、主人公を取り巻く人々のやりとりなどに、一貫した美学を感じた。特に画家に寄り添う女の美彩役の俳優は、関東第一のゆり子役の俳優とは違う方向で能力が本大会最も突出してる俳優の一人じゃないかというのは……オーバーな言い方かな。でも居方がすごくいいなと思ったよ。
 何がいいかって、ともすればちょっと、典型的な「寄り添う女」という役なんだけれど、それだけじゃない、居る以上に、そこに居る感じがよかった……なんだろな、異形なのかも。異形なのに、それをグッとしまって、それを日常に、さも普通にしていると……みえて……すごくよかったんだよなあ。

 作品全体は、トータルで見ると僕にはちょっと粗が多く見えて、講評でも言ったのは「主人公に都合良く都合悪い事を起こさせて、主人公の美のために世界を貶めている」点が特に気になった。一人が正しく、味方は正しく、悪は悪である、という人物配置が、なんだかなと。
 ただそれをしのぐ、海のシーンのけだるい美しさ。青を追い求める主人公の緩い立ち方が、心に迫る。見せよう、そうしよう、ではなくて、そうせざるを得なくてそう立っている。そういう立ち方に、僕はいいなって思ったりする。

 でも、人間の身体をどこかで軽視してるかもなとも思ったのは、群衆を使った舞踏的動きのシーンで、全員が倒れたシーンの次が場転だからといって、倒れた体をすっと退場させるのはどうかなあ。
 退場のため起き上がるのも身体だし、現実で、演劇の一部で、それを雑に扱ってないかと思ったりして。
 どこかでこれは演劇より、映像作品で表現する方がしっくりくるのか……とも。ないしは、演出をするとき、人の身体があるということ、キャラにも生活があることを考えて導線やシーンを構成すると、よりよいのではないかなあ。

 そしてここでもまた、主人公は最後死ぬ(ように見える)。死ぬと、終われるのかーと、また思ってしまった。青を見つけてからが長いんじゃないか、と思ってしまう程度に、僕はもうわからずやの年長者になっているのかもしれない。
 あの時死ねなかったから、今ここにいて、演劇を審査なんて恐ろしい事をしているんだなあとも。高校演劇と死について、最後の最後まで考える事になったなあと思いながら、堪能しました。

・・・

 と、初の審査員でとても緊張したけれど、すごくいい経験だった。そして講評した事、考えたことは全部自分に跳ね返ってくる。これは本当、刺激的な体験だった。いい機会を頂いて、本当ありがたかった。できうるならば、また関わらせていただきたいなあ。
 審査だけれど、かなり早く都大会推薦の2校は決まった感じ。他の2人の審査員も一致して少し驚く。奨励賞もスムースに6校決まった。奨励賞は他に都立忍岡もいいかなーと思ったけど、完成度がやや足りなかったかなと思い意見をひっこめる。

 議論で口にしなかったけど、潤徳女子や荒川商業もいいんじゃないかなと思ったけど、同様の理由で強く推せなかったなあ。逆に都立農産はどうかという声があったけど、それは僕が反対。やはり、練習量ってものが気になってしまってなあ。その恨みパワーを練習量に変えていただけたら幸いです……。

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