見出し画像

ある日の高校演劇審査員日記 2021年夏 その3

 ひきつづき、2021年・東京都城東地区高校演劇新人デビューフェスティバルの講評を言葉にしてみました。2日目の午前の部の4校の様子です……。

2日目 午前の部①【都立足立西】『BEAR HUNTER HUNTER』

 こちら生徒創作というか、2日目は確か、全校が生徒創作。熊が出てきた。戦う。最終的に、顧問の先生が出てきた。そんな話。

 演劇は何のためにあるのか、というのも日々考えたり、わからんなあと思ってはいるし、答えも容易には出ない。
 でも、他者の前に自分を晒す、見せる、生きる、在る、というとき、一瞬でもいい、それをしている間だけは、観客より強いものであることが、演劇の条件の一つなんじゃないかなあと思ったりしていて。

 足立西の演劇部員は、自分たちの事を弱いと強く自覚しているのではないか。
 だとしたら、その認識は今回で改めるべきだ。なぜなら、上演をすることができたのだから。この地区の20校と肩を並べ、上演にこぎつけることができた。それだけの力がある。
 そしてオーバーな話に感じるかもだけれど、上演できたということは、いま世界の中で他者に向けて上演されている演劇と、同じ舞台に立ったと言ってもおかしくはない。
 弱くはないのだ。演劇はできたのだ。演劇をすることのできる力はある。

 だからこそ、小技や、観客をくすぐる事にとらわれず、もっと強く、もっとやらざるを得ない事に正面からぶつかってほしいなあと……いうのは……あれかなあ、年上の傲慢な祈りかなあ。(ちなみに「やらざるを得ない事」とは「やらなくてはいけない事」ではないですよ!)
 いろんな状況もあるものなあ。正面ってなんだよって話でもあるよなあ。

 演じる側は、観客より強いエネルギーをもってほしい。
 じゃあ具体的にどうもてばいいのかという話だと思うけれど、シンプルにもちろん稽古することで、エネルギーは高まる。……当たり前すぎるか。何を稽古するかどうか。それは、自分自身の生き死にに関わる、触れる部分を感じられるものを稽古してみてはどうか。

 何を稽古するかどうかのチョイスも大変だし、チョイスをした後も大変だと思うけれども。それが、いわいるごっこ遊びと、表現としての演劇を、紙一重でわかつものではないかなあ。
 んー、いや、生き死にに関わるごっこ遊びは表現だと思うし、自分が死なないと思ってやってるような劇は、表現にもならない。

 何を言っているのかわからないかもだし、自分でも迷いながら今、言葉を書いている。
 けど、なんだろうな、表現の領域に足を踏み入れたのなら、自分の事を弱い、と思っていてほしくないなあとぼんやり思っている。観客より、強くあってほしいなあと。

 そうはいっても今の状況が、いつだって死っぽく見えると思う。
 2人しか生徒のいない部活で、一年生がいない。コロナで何かをすることもできない。だけどそんな状況だからこそ、そんな「死」が近いからこそ、表現できる何かがあると思う。それを見つけてほしい。それをやってみてほしい。
 まずはできる範囲でもかまわない。でも、出来る範囲はすごくいま、小さいと思う。だからこそチャンスだ。限界を超えない限り舞台に生きることはできない。その死の近さが、観客よりも強くある原動力になってほしいなあと……思ったりする。思ったりする。

 ……思い出した! 講評で参考にしてほしいなあとして出した作品は、2012年に全国大会に出場した岩手県立福岡高等学校演劇部『田頭諒という男』という作品。
 詳細はこちらが検索に引っかかった↓

https://performingarts.jp/J/play/1204/1.html

 こちらは少数の演劇部員と顧問とで作られた作品。私も戯曲を読んだだけで、実際に目にしてはいないが、こういう作品が、演劇部員が異様に少ない学校にとって、一つの方向性を指し示す灯台になってくれるんじゃないだろうか。

 と……うーん、一連の感想は、僕の一方的な、押し付けのような祈りのような気もする。審査員としての分別を超えた祈りをつい、頑張って逆手にとって工夫して笑って、けっして整っていない状況で舞台に立つ人には、思ってしまう所。
 とんちんかんな祈りだったら、ごめんなさい。

2日目 午前の部②【都立農産】『コンビニに普通を求めるのは間違っているだろうか』

 イートインのあるコンビニを舞台に、情緒不安定な店長、様子のおかしい店員に翻弄される独り言の多い客。そこに「まともな」銀行強盗がやってくる……

 午前の部でよく笑いを取っていた演目だった。逆張りが上手いいうか、前提の状況をとにかく覆し、どうなっているのかわからない状況を延々とやっていく。最終的に銀行強盗犯のリアクションだけがまともに見えてしまうというありさまの、コントと言うべき演目かなあ。

 講評でも言ったのは、これが1分のティックトックとかに投稿されるものであるならば成立するんだろうけれど、20分の舞台作品として見たときに、きついのではないか。それは、人物の行動が積み上がっていかない、その瞬間にだけ笑いになる行動をさせているからだろうと。
 20分、生身の人間が演じるという事になる。観客はいやがおうにも、人を見ることになる。
 その「人」が、「人」ではなく、共感しがたい物、行動に連続性がないものになってしまうと、なんだろうなあ、ランダム生成される抽象絵画アニメを見ているような感じに僕はなってしまったなあ。

 どういうことかと言うと、キャラクター一人一人に、通った性格や人格が見出しにくく感じた。
 店長はあるシーンでは大げさにビビり、あるシーンでは全く無で轟音のするパフェを説明し、あるシーンでは無だったり。理解しがたい性格の持ち主、にも見えない。
 性格というもの、人格が設定されていないように見えてしまう。

 これは、キャラクターがシーンシーンで、ある状況を面白くしようとするため、逆張りのために動きやセリフが作られているのだと思った。
 面白いシーンは確かに作れる。だが、面白いシーンの連続が、面白い劇になるかと言うと、そう言う物ではないのだと思った。

 面白いシーンのために、キャラクターがその都度死んでいるから、20分という時間が持たないのだろう(1分ならきっと大丈夫)。
 だから、もし今後、長い時間の劇を作るならば、面白いシーンではなく「面白い人」を描いてほしい。「理解しがたい人」でもいい。「不条理で訳の分からないばかの人」でもいい。
 いかに、演じている「人」を面白く見せるかどうかが、生身の人間をともなう演劇というジャンルの表現なのだろうと思う。

 そしてそうすると、じゃあ「人」ってなんなのか。え、「神」とか「霊」とかを演劇で表現するのはどういうことか? みたいに、悩むことにもなってくると思う。そうなんだよなあ。悩むんだよ。悩むんだよなあ。

 観客は確かに笑って、強い笑いのセンスがあることは確かだ。次の作品では、そのセンスで「人」を見、「人」を出すことに使って見てほしいなあと思った次第……。

2日目 午前の部③【都立紅葉川】『仁義なき戦い』

 これは演劇部物。絶対強者演劇部女子と、絶対弱者演劇部男子の、仁義なき戦いが、ラップバトルとかなんかそんな感じで、戦ったりなんだりするお話。

 題材そのものの面白さもあり、さらに全員がいきいきとこの面白にのっかり、しかも確かな技術で劇を構成し20分を上手く使っていたのに好感を持ちました。

 ただこう……僕は審査員席に劇が始まる前に座っているのですが、隣に紅葉川高校の方々も座っていて、雑談が聞こえてくる。
 その時は確かに「この高校の女子は強いなあ」と思ったりして。日常や現実の方に、女子の強さ、男子の逆らえなさが見えてしまっていて。
 なぜ舞台の上でそれが出しきれてなかったのか。

 たぶん、「演劇部だと女子が男子より強い」というあるあるだけで、劇を構成してしまったのではなかったか。「なぜ女子が強く見えるか」という観察や分析がなく、あるあるの雰囲気で構成してしまったから、舞台に立った時に、なんか……弱い感じはわかるけど、男子たちが実際、舞台で声を出してると、弱くは見えなかったのよ。

 ただそこに居るだけではわかり難い、目の見えない「力」を表現するのは、まさに演劇で表現するべき題材としてはうってつけで。
 だけど紅葉川は、その分析が浅かったのではないかなあ。題材の面白さに目を奪われて、なぜそうなのか、何がそうさせているのかの分析や演出が足りなかったのではないか。

 むしろラップバトルなんかは、男子チームのほうが、ごついし、なんか声も太いし(期待の新人二人の、ちゃんと発声できてる頼もしい感じよ!)、男子の方が強く見えてしまった。
 強さを見せる戦いで「ラップ」を選んだ時、そのままやっては女子のもつ強さって出にくかったんじゃないだろうか。

 じゃあ、演劇部女子の、あの男子に強い感じって何なのか。何なのか。
 高校時代、男子が女子に話せなくなっちゃうあの感じはなんなのか。……むしろ「男子が、ある状況下ではコミュニケーション不全になる」とか、そっちなのか? 
 じゃあ、中性的な男子は強いのか? 中性的な女子は弱くなるのか?

 こういう……分析を、稽古段階で取り入れていくことで、多分私たちは人間を知ることができる。演劇部女子は男子に強い、という、あるあるの面白さを、それだけで終わらしては、劇にはあと一歩足りない。
 その一歩の踏み出しから「ジェンダーギャップ」「マイノリティ」といった様々な難題にリンクしていくこともできる。
 それが演劇の面白いところでもあると思うし、そこに踏み出すことが出れば、きっともっといろんな策が思いつく。
 冒頭で女子部員たちが男子にさせようとしていた事や、女子たちの会話の距離、男子チームの密談はどう演出するべきか、など、題材を深堀していけば、工夫と改善する余地がもっとあったんじゃないだろうか。

 これが劇の面白いところの一つなんだよなあと思うわけです。
 ……そしてその先には、こう、歳をとっていきますと、今度は「出会ったこともない、年とった権力者の男性」に、なぜか社会が逆らえないという謎の力の動きを感じることになると思う。

 見えない力はどこから来るのかを、演劇で考える意義はある。
 そんな可能性に満ちた舞台だったなあと思ったわけです……。題材を、一歩深めて考える。なぜそうなのか、稽古で、体を使って、その逆らえなさ、見えない力を考える、みたいに、題材をより深めるとお芝居って面白くなりますので、次回はそんな感じで取り組んでみてはどうかなーと思います。

2日目・午前の部④【都立上野】『仮面ライダー アメィズ 最終回』

 仮面ライダーの最終回をやっていたなあ。もちろん完全に新規の生徒創作なんだけど。戦っていたなあ、悪の女幹部と、ダブルライダーが……。まさかこんなところで、新作のライダーが見られるなんてなあ。

 やってみたかったという心意気がものすごくわかる。
 ライダー愛とでもいうのか、特撮モノの勘所をよくとらえていて、しかも全員ノッている。見ててさわやかでとても見やすかった。
 ただ、劇の見せ方として、その本気度、見方がわかりかねたのは、講評でも指摘した「小道具・衣装のトーンが不ぞろい」というところ。
 ここが分からず、演技はかなりノっていたけど、その演出意図が計りかねたのだった。
 というのも、変身ベルトや銃は既成のおもちゃ(かっこいいプラスチックのやつ)。
 相棒ライダーの使っていた盾が段ボールでの手作り。
 両ライダーの衣装はジャージにガムテープでライダー名というギャグ調……かと思いきや、女幹部はめっちゃカッコいい黒ドレス。これは……特撮物を演じるという「本気度」というか、どこにリアリティを置いているのと言うか、どうみたらいいのか?

 そして演出として「ヒーローショー」のような煽り(がんばれーと言うのを観客に強いる奴)が入る。つまりこれは、全体として「ヒーローショーである」と見せたいのか、つまり、パロディとして見せたいのか……にしては、女幹部がかっこいい。主人公ライダーもちゃんと演技してる。ということは、段ボールやジャージは「見立て」として、これは劇の約束として「本物」として見るべきなのか???

 や、純粋に「仮面ライダー」をやってみたい、というピュアさと、今できる事、面白そうなアイデアを詰め込んで、こうなったんだろうなと思った。
 それは伝わる。楽しく、しかしある部分では真剣に、ある部分ではお茶目に、20分、観客に楽しんでもらおうとしたのはわかる。女幹部もカッコいいし。
 ただそこに……「仮面ライダーを使って、どうみせたいのか」という演出がないと、「やってみた」で終わってしまう。「やってみた」は、果たして表現だろうか。他者に届く物になりえるだろうか。

 主人公がジャージ、という軸なら、「ヒーローを演じようとしている男子」という線で見せることができる。こう演出するなら、女幹部は「ヒーローごっこに付き合わされている」みたいな演技にするとか、衣装も適当とか、そういう所で笑いにもできる。
 や、かっこいい女幹部や段ボール盾という軸で、「現実に見えている見立てとして、現在の高校生ができる精一杯の格好よさとはこれだ」という演出にするなら、既存のおもちゃは使わず、頑張って手作りした段ボールの武器や仮面で、肉体と理想のギャップを見せる、という見せ方もできる。

 その、見せ方の意図……「演出」が足りなかったのかもなあ。
 やりたいと思ったことに、演出が加われば、それはより強く、遠く、観客に届かせるものになると思う。
 都立上野は、ただ「やりたいことをやる」で終わらせるレベルの演技はしていなかったはずだ。俳優の能力も極めて高い。できる高校のはずだ。
次はそのやりたさに「演出」を強めて、表現として観客に届く物を期待したいなあと思う次第……。

さて残りは午後の部6校は、また日を改めて……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?