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ある日の高校演劇審査員日記 2021年夏 その4

 さて今回で全校分感想フォロー。2021年・東京都城東地区高校演劇新人デビューフェスティバルの2日目の午後の部の6校分の感想になります。

2日目 午後の部①【都立成徳】『札束浪漫紀行』

 お札に印刷されている偉人たちが、令和日本を見つめつつ議論をするというワンダーなお話。衣装に力が入ってたなあ。

 これは仕方のない事だったのかもだけど、若干音響レベルが大きく、冒頭のいくつかのセリフが聞き取りづらく、また、登場人物たちが「お札の肖像になっている」ということに、けっこうね、気が付かなかったりした。そうか、次のお札、渋沢栄一だったか……。

 これはだから、脚本段階、テキストレベルでは成立してたのかもだけれど、舞台にしてみると「会話」しかさせることが無く、序盤の設定が言葉頼みになってしまったところから十全に意図が伝わりにくいものになってしまったのかもしれない。

 終盤で彼らが「子供のお人形遊び(?)」だったオチが付くが、それまで、お札の肖像モデルの偉人たちが、何のために集まり、何して集まったのか。何か問題があったのか。何をしているのかが劇としては伝わりづらく。彼らが令和の現在を見つめていて、思ったり議論したり懐かしんだり羨んだりの会話はあるが、ドラマ……つまり、対立や人物の変化を促す事件はおきない。
「設定の面白さ」の展開で20分使っていて、それもある程度は魅力的だが、あくまではそれは「設定の面白さ」であって、演劇の面白さではないのかもなあと思った。
 またその設定も、「お札になった偉人たち」の掘り下げと言うか。なぜ、彼らは令和の現在を見つめている事になっているのか。そもそも彼らは精霊なのか? 霊なのか? お札になったことであらたに命を吹き込まれた存在なのか? 
 お札になった存在である、という事そのものの設定が、この場になんでいるのかという事に今一つリンクしていないようにも見えたし、そもそも、場に現れて、ただ横に並んで立ち、話をしているだけに見えてしまった。

 会話の面白さ、軽妙さはある。
 しかし、セリフが面白い、設定が面白い、では、劇としては持たない。その場所に対して何か行動の動機……なんでここに来たのか、何かすることがあるのかを、場に作ってあげないと、ただの立ち話になってしまい、劇の主役が議論と設定になってしまう。人がそこに出現しえないのだ。
 何でもありの空間になってしまっている。
 何でもありってポジティブに見えて、何でもありだと何もできなくなる。立っているだけになってしまう。
 これを解消するには、キャラに負荷をかけるのがおすすめである。不自由さをつくり、負荷をかけることで、キャラの動かざるをえなさが作られるのだ。

 設定にしてもそうで、例えば登場人物は令和についての知識のバランスがまちまちで、令和の大体の知識を彼らがなんとなく知っているのはなぜか。
 ガッキーファンなのに星野源の結婚だけは知らないんだ、みたいな偏りがあるのは、どこかワンシーンを面白くするための劇の都合を感じる。
 
 また設定的に「会議」であるなら、議題や、何か決定を下すような話し合いを下さねばならない、といった、場と時間に目的を付ければ、物語として進行するんじゃないかなあ。

 魅力的な設定とキャラクターを出現させた。その先の、劇にするときの、もうひと堀りがあればなあと思った次第。
 ……·こういう事って、実際に作ってみないと、やってみないと気が付けない事ではある。
 脚本を作ってみて稽古場にかけて、試行錯誤して、上演して、やっと少しだけ気が付くことができて……。
 創作し続けることが、その「ひと堀り」に気づくことができると思う。これからも引き続き創作してほしいなあ。

2日目 午後の部②【開成】『机上の空論』

 数学のテストを受ける一人の男子学生。回答を考える頭の中に、思考のプロセスと一緒に雑念が形となってあらわれて……みたいな作品。

 この劇を見たあと、観客は数学の設問を見る目が、ほんのわずかに変わるかもしれない。
 頭の中で問題を考えている時に、劇に出ていた6人の俳優がうごめくような……。観客のものの見方を変えうるという意味で、ただ劇をやった、ウケた、面白かった、以上の事が出来た作品だったと思う。

 で、講評の時、山本はめちゃくちゃ嫌な顔して「ミスしたね」と言ったりして。や、劇にミスはつきもので、しかも新人デビューフェスなんだからミスして当然じゃん! でも、ここまでできる人たちだからこそ、そしてこういう劇を作る人だからこそ、「稽古不足からくるミス」は本当に惜しくてもったいなかったのよ

 そう、あきらかに稽古不足でミスっていたところがあった。稽古沢山してのミスとは全然違うミスだと思う。
 や、事情がいろいろあるのだろう。稽古日程が取れないとか、段取りが直前まで確認できなかったとか、コロナとか、様々な大変な事情があったのだろう。
 だけど、そうしたことを想像させるような弱さを見せてはいけない種類の劇だったと思うよ。

 講評の時に「道化的な身体」と「情報的な身体」の2種のカテゴリの話をしたけれど(これは劇作家の宮沢章夫さんがよく演劇の本とかで解説している事の受け売りだったのだが)開成の劇は見事に「情報的」なものだった。「道化」と「情報」については……各自本を読んでいただいて……。

 コンセプトの面白さ、構造がおりなす、一見交換可能に見えながらも複雑な機微に支えられている、隙間を刺すような笑い、質を開成の劇には感じて、だからこそ……稽古不足、打ち合わせしてないんだろうな感からくるようなミスが、途端にかっこわるくなっちゃう。惜しい。惜しい。惜しい。

 なんというか、開成の人たちは、ミスができない運命に生まれたんだろうなあとか、劇を見て勝手に想ってしまった。それはとてもつらいかもしれない。
 劇の中くらい、ミスしても許されたい。でも、そういう運命じゃ、ないのだきっと。練習に練習を重ね、緻密に人生を歩まざるをえない定めを開成の人たちから感じたなあ。

 ……と、劇って、表現の領域になってくると、自分の運命っていうんですかね。自分自身の……うまれた星って言い方がいいのか。私が何者なのか、どう生きざるを得ないのかに出会えるのかもしんない。
 
 なんか話それましたが、2日目の最優秀高に開成を選んだのは、稽古不足からくる失敗があったとしても、こうやって最優秀ですよ、としてしまえば、きっと稽古をやらざるを得ない感じになり、もっと精密に劇を作ってくれるのではないかなあと思い、推しました。
 劇を作り、お客さんを楽しませた、以上の、感覚を変えたり考え方、見方を変えるようなヘンさが、そこにあったからです。それがどこまで自覚的だったかは読み取れなかったけれど、より研鑽と内省を重ねたら、さらに自分たちが目指すべき、作るべきものは何なのかの深堀りが……やー、基本的にはナンセンス面白コントだったんですけどね。
 よい意味でのくだらさをもったお芝居。
 ですが、今回の20校の中で随一のオリジナリティがあったことは確かで、開成の作った劇のフォーマットは、観客ひとつ、新しいところに持っていこうとする萌芽があって、ただ楽しいとか、面白いとかで終わらない、外に向かう可能性を感じたからです。

 いや悩んだところはありますが。稽古不足という、僕がほんとうに、うーんと思う欠点があったとはいえ。でも、面白かったので、最優秀に推しました。そして面白い以上のものがあった。

 ほんとう、なんとか、こう、いろいろ大変な状況だとおもいますが、そういったものを一切感じさせないような、ミスを笑いに変えて身内笑いにしないような、より格好いいものを、今後も目指してほしいな、と勝手に想っています。

2日目 午後の部③【都立篠崎】『トキシック・マスター』

 3つの平衡する世界。人間と人間、人間と「作られた者」、そして思い通りに作れなかった者の3つが交錯する。
 かっこいい世界観で、その世界観に応える俳優たちの格好良さがあったなあ。正直物語の詳細な機微や設定などはわからなかったけど、3シーン、同じに見える状況から分岐した3者の物語を、対比して演じられていき、作られた世界の分厚さを感じました。

 特に俳優なあ。思い通りに人間(女の子)を作れなかった男が、女の子に感情をぶつける役の人が、はまり役だったなあ。この役を女性が男性を演じてたんだけれど「あ、女の子殴る男ってこんな感じするなあ」と思ったりして。背格好が本当、女殴り男感あった。ビジュアル込みで格好よかったなあ。モテるだろうなあ。

 そう、衣装のセクションも気合が入っていて、色彩もモノトーンで統一されていた。
 こうした微細なところに、作品の血肉というか、気合とでも言う物かなあ。通っていてとてもいいなと思ったり。

 だからこそだからこそ、本当細かいところの行き届かなさが、とても惜しい。この凝った世界観に、ビニール袋とか、アディダスのリュックが出てきちゃうと、よろしくないのだった。
 ほんの僅かなところなんよ。ほんのそれだけで、がっかりされてしまう作品。むつかしいけれど。

 あとはなかなか解せなかったのは、ベッドの背もたれに人間が使われていて、これは何か後半で伏線になっているのかなと思ったら、本当にただの背もたれだった。これは多分、背もたれをつくる技術がなかったという、問題だったのかも。
 「人間を作るお話」の世界観だから、「人間が背もたれとして道具になっているシーン」という事も何かの伏線のように見えてしまう。それを生かさない手はなかったんじゃないかなあ。

 また劇も中盤でふと、ある種のテンションが落ちるのは、劇の中心が人ではなく、会話から読み取らせる情報設定の展開そのものになってしまう所。
 会話が、世界観や登場人物の身上を説明することのみに時間が割かれてしまった。それを伝えないと確かに世界観は伝わりづらいかもしれないが、セリフのみになっていた気がするんだよなあ……。

 テキストを劇に起こすときに、テキストの何を伝えるかの取捨が問題になると思う。
 これはむつかしい。なまじ強い世界観だから、何かを伝えそこなうとお客さんに分かってもらえないのではないか、となるかもしれない。

 だが、思い切ってそれらを省略してもいいところがある。逆にピックアップすべきところはもっとあったのではないか。
 今回で言えば特に俳優がよくこの劇の雰囲気を理解し、体になじませていて、もっと動いたり感情が揺れ動くところが見たかった。設定や身上を言葉にしてくれてるところよりも。
 特に女の子殴る男役の、躁鬱の上下する感じとか、白の衣装着てた「作られた人」の女の子が、喜びとともにそこにある感じ、初めて地面に足をつける、その瞬間、それを見た、制作者の男の人の反応、表情、感情、とか。

 ちゃんとテキストをよく読みこんで、練習したところからくるにじみ出る感じがあるから、テキストをの説明が十全でなくてもわかるところがあるはず。
 設定や気持ちを口にするよりも、「人間」がそこに存在するということ。そこに対するリアクション、感情の動き。そこにもう少し、時間を割くべきだった。

 演劇として、何が美味しいかどうか。演劇として向くシーンがどこかを、今後数を重ねていくうちに取捨選択し、演出していくといいと思った。技術不足は、経験で何とかなる。
 そもそもの資質は高いレベルにあり、ただ単に演劇として立体化に経験が足りなかったというところ。

 限られた時間の中で、何を展開すれば演劇として刺さるか。ここを考えることも演出の一つだよなあ……と思ったりなんだり。
 演出。一番むつかしい考え方かもしれないが、小説とは違う見せ方としての「脚本」の作り方も、ぜひ分析してみてほしいなと思ったりしました。

2日目・午後の部④【都立忍岡】『魔法のつかい』

 人間界を見つめている「魔法使い」とその弟子たち。コロナ禍で苦しむ人間界を救うため魔法を使うと過酷な運命が魔法使いには課せられるのだが……。というお話。

 人数も多く、華やかさのある舞台。踊って、ハリーポッター的な魔法を楽し気に使い、かとおもえば世相も斬り、とパワーのある表現だったなあ。

 だけどもここでも顔を出すのが、ある種の演劇に対する、どこか真面目すぎるところというか、「テイ」を装ってしまってないかなあという部分。
真面目で誠実さが、劇に上手く刺さらない感じとでも言うかなあ。

 冒頭、大人数もあいまって、ダンスシーンから始まるが、このダンスで何を見せたいか。
 衣装的にもダンスの練習着にもみえたから(スパッツ+Tシャツ)、ダンス部かダンスサークルか。その後に魔法云々の設定が来たりしたから、ちょっと劇の入り方がよくわからず。ダンスする→ケンカする→魔法を使う人たちらしい、という風に情報が展開をしていくが、あの冒頭のダンスは何だったのか。
 踊りたいから踊る、と言うのは別に問題ないというか、いい事だと思うけど、何だろうなあ、「踊るのが前提」みたいな感じで、冒頭にとりあえず入れてみた感じになってたんじゃないかなあ。

 冒頭にダンスを入れる作戦としての有効性が、あんまり効いていないように見えてしまう。テイとして、とりあえずダンスを入れてみた、になってしまってないかなあと思ったのだ。
 この「テイ」(体裁)をよくするために入れたんじゃないかと思っちゃうシーンが、結構あったのよ。

 例えば中盤で展開される「コロナ禍で苦しむ人々」の描写は、なぜそれが入っているのか。
 コロナで苦しむ人々を演じた、いう情報以上のシーンには、なっていなかったんじゃないかなあ。というのも、それはどこか、ニュースとか、どこかで見たようなシーンを「テイ」として見せられてしまった感じがして、ついさっきまで「魔法使いの弟子」だった人たちの見立てをリセットしてまで演じられるべきものだったかどうか。

 まるで、社会問題を一つ取り上げておけばテイとしていい、みたいになってなかったかなあ、と、ダンスと同じく、シーンとして効いてないように感じたのだった。
 そこに演劇として、忍岡が演じるべき個の解釈や展開が、あまり感じられなくて。
 真面目であるため、ちゃんとするため、演劇っぽくするために入れたんじゃないかなあという感じがしたのですよ。

 これは、ワードや設定の仕方にも言えることで、劇中の「魔法」にしても、これは具体的にいったいどういうものか。
 本編中では魔法が、いわばかめはめ波みたいに人を吹っ飛ばしたりしていて(このへん生き生きとして面白かった!)表現されていたけど、じゃあ魔法って何なのか。要するにバトル系能力なのか。

 魔法を使う、という事が、「魔法を使うという設定」以上のものになってないように見えた。言葉だけのようにも感じてしまい、だからこの魔法の力で人間界を救うと言われても、「かめはめ波でコロナを救うのか?」と思ってしまう。セリフ上では説明がもう少しあった気がするが。演劇で展開はしてなかった気がするなあ

 言葉にしても後半、師匠筋の魔法使いが弟子たちを洞窟にとじこめ「自分を見つめなおす」という事をさせるのだけれど、どは「自分を見つめなおす」とは何か。
 洞窟に閉じ込め、反省をするということが「自分を見つめなおした」事になるのだろうか。
「自分を見つめなおす」とはどういうことかが、演劇として十分に描かれていなかったんじゃないかなあ。見つめなおすとは、閉じ込められて過去を回想することなのだろうか。そのシーンを見て、「見つめなおし」の実感って、観客に届くかどうかと言えば、掘り下げが足らないのではなかろうか。

 修行中の、ある種の特殊能力(魔法)を持つ人々が、遠くの世界の危機を救おうとする。ただ魔法にはリスクがあり、そのリスクにおびえる弟子たちに「見つめなおす」ことを師匠はさせる、という構造だけど。そんな世界で「見つめなおす」、とは何か。「見つめなおす」とどうして、人間界にリスクを承知で救おうとするようになるのか。

「見つめなおす」とは、「テイ」のいい言葉である。だがこの「テイ」のよさの時点で、止まってしまっている。
 観客は「テイ」……体裁、表面の、約束事を指摘されて、果たして心が動くかどうか。

 体裁をしっかり整え、間違ったことを言わず、正しい事をし、社会問題をちゃんと視野に入れ、ダンスを踊ることで「楽しませ」もする、という、真面目に、正しく、よくあろうとして、結果、「テイ」を重視しすぎてしまったんじゃないかなあと思ったのだ。
 果たして自分たちは体裁の人に、心を動かされるか

 ただ逆に言えばそれだけ、礼儀正しく、演劇をちゃんとやろうとしていた。20分の枠に丁寧に様々なものを詰め込んで、礼を逸しないようにしていたし、練習もたくさんしたであろう、その成果は出ていた。観客席に見やすいよう、こちらを向いて、一人一人の見せ場も作り、届けよう、ちゃんとしようとしていた。

 ただ、「ちゃんとしてる感」だけでは、人の心は動かしがたい。
あまりいい例えではないけれど、「社会的にちゃんとした体裁を整えているだけの人」に、心が動かされたり、好きになったりすることがあるかどうか。むしろ、だめな人や、悪人だけど魅力的な人の方に、心がときめかないか。
 ちゃんとしてる感、体裁よりも前面に出すべきものがある。僕はそれを「個」というか――これはだから僕が特殊な傾いた思想の審査員だからそう思うんだけれど――「交換不能の頭のおかしい個」、みたいなものが、最上のものなんじゃないかなあと考えていたりする。

 もちろんそれだけではだめで、その個をどう見せるべきか、どう観客に良いものとして提示できるかの時に、幾何の体裁を整えたりすることもあるけれど。体裁が先に立ってしまうと、それはもう、演劇でなくてもいいんじゃないかなあと思ったりなんだり。

 劇としてはさまざまな技や仕掛け、そして21人(スタッフ込みの人数)の躍動する力も感じたし、エネルギー総量はなかなかのものだったけど、そのエネルギーを体裁をなぞるところに使われてしまったのが大変に惜しいなあと思った次第。
 もっと、頭のおかしい事、体が求めている動きに使ってほしいんよ。

 俳優だと、一人、異様に見てしまうなあという俳優が新人さんに居た。目立つ。目を引く。その人が演じるとき、世界が不意に立体化するというか。惜しいのが多分、その力をみんなのため、劇のため、よい力のために使っていたのだった。惜しい。
 もっとこう……その人は、ダークサイドと言うんでしょうか。一度闇落ちして、悪のためにその能力を使ってみてはどうでしょうと言う意味を込め、この日の最優秀の女性の役者の賞に推しました。
 悪のためとはどういうことか。つまり、体裁のためではない、行儀の良さ、「善」からの解放してほしいと……

 なんかこう……シスの暗黒卿みたいな事言ってますが、それだけ異様なうまさがあって、そしておそらく、本人はそのうまさをあまり誉に思ってないのかもなあと勝手に推測し、ぜひ、闇落ちして、一度でいいからその力をもっと、もっと、いびつでもいい、一度自分の訳の分からなさのために、……つまり闇を「見つめなおす」ために、使ってみてほしいなあと思ったりなんだりでした。
「なんであの審査員は私を女子の最優秀新人にしたのか……」と悩み、苦しむことで、悪の波動に目覚めてくれれば、幸いです。異様にうまい、そのうまさに対するコンプレックスをこう、あれしてくれたらいいなあ。

2日目・午後の部⑤【都立江戸川】『サンサーラ』

 ラジオ中毒で、ラジオのおすすめするままに行動を映してしまう男が、謎の居酒屋に入り、謎の肉やシチューを食べ食べ、ナンパしてしまうが……というお話。

 たぶん、ナンセンスな面白さ、意味のない面白さを見せたかったんだろうけれど、それにしてはちゃんと俳優がしっかりと人を見せることができていて、異常な空間や状況にちゃんと突っ込んだりリアクションできていたから、何か一つ一つに意味を期待してしまう。上手かったのよ。とても。

 作家の持ってきた題材も、7分くらいの面白さが3つ、と言う感じで、7分ごとだったらきっと面白かった。問題はそれを束ねる構成力、20分という時間を使って「お客さんにどう思われたいか/何を笑ってほしいか」の、トータルの演出が欠けていた事かなあ。
 7分の笑い、はちゃんと成立していた。問題は「7分が3つ」あることで生まれる笑い、ネタが成立していない。
 人間を見せることそのものはできていたのだから、あとは「面白いネタであっても、トータルで不要なものだと判断したら切る勇気、差し替える勇気」だろうなあ。

 この「演出」という概念は、本当に難しいし、僕自身も自分の劇でうまく出来ているとはいいがたい。
 劇を通じて、観客に何を期待し、どうやってみたいか……は、稽古最初から不動のものとして持ってるわけではなかったりするし。
 稽古しながら、全体を見て「こうしてみようか」と思いつくこともある。それは、演劇の実の製作を離れて、今こうして、稽古に取り掛かってない時にも、結構悩んだり考えたりもしている。演劇がなんでこの世界に必要なのか。僕がやることに何の必要性があるのか。観客にとっていま、演劇で出来ることは何か。

 で、そんな風に机の上で考えていたことも、稽古段階で全然、通用しなかったりもあるしなあ。
 これは、稽古やらないと、もちろん事前に準備や思想をもつこともしないとの部分もあるけど、実際に稽古しないと身につかない、なんだろう、日々の筋トレに相当するような事でもあるんだよなあ。。

 俳優はいい才能がそろっている。特に新人の男性は自分の体のコントロールもある程度効いていて、リアクションも出来、器用に状況になじめる地味に万能で上手い人だった。
 だからたぶん僕なんぞに「君は最優秀の新人の男子だぞう」と言われなくてもこれからも生きていけるので最優秀には推さなかったけど、とてもうまい。

 ただ何か所か、あまり稽古というか、アドリブだよりというのかなあ、ちょっと不安定なやり取りに感じられるところがあり、この種のものはもちろんガチガチに決め打ちが有効ではないかもだけど、だからと言って決めないのも弱い部分が見えてしまう。
 ガチガチにならないためにもガチガチに稽古した方がいいなあと思いました。

 あと小道具の処理も気になる。皿はあるのにコップ(ジョッキ)はマイムで演じるとか、机の上のヨーグレット(お菓子)箱とは何なのかなあとか。
こうしたわずかな情報の混線が、笑いや劇の勢いを殺して、伝わりづらくなってしまう。

 まあこれらは、何回か舞台で失敗したり、伝わらないという経験をすれば何とかなる。目立たない小道具にも、演出という血肉を通わせてほしいなあと思った次第です。

2日目 午後の部⑥【都立東】『ももたろう(?)』

 誰もが知ってる昔話を「うろおぼえ」で完全再現する、という謎のムーブ。
 妙にロークオリティなハイクオリティさのある小道具、中道具たちの織り成す不思議な昔話のリクリエイション。

 このあらすじだけでも面白い感じ。実際、ばかばかしくて面白かったなあ。その一方で、単なる昔話のパロディ、と、言われたら、たしかに、そうなってしまうのだけれど。
 ばかばかしさを全力で手を抜いて全力でやる、という変な体の置き所も面白く感じた。

 ただ……、いや、確かに今回の「フェスティバル」の空気の中では、2日目の中ではもっとも面白く、クオリティの高い物ではあったなあと思った。
 でもそれはどこか、この「フェス」の中に照準が合いすぎていなかったかなあ。劇を通してみて、面白かったんだけど、この会場の中だけでマックスになる面白さなのだった

 や、つまり、目の前の人間に、おもしろいとおもわせることはできた。
それは一つ絶対尊いし、正しい。
 ただ、ここに僕のような、外部の、外から来た、歪んだ価値観の、人をダークサイドに落とすよう目で見つめるような……「他者」がいる場合、この劇はどこまで有効だっただろうか。

 桃太郎のパロディだけで終わらせないために、つまり外の世界のため、劇の外に向かう何かを提示するには、この話の導入部分が弱い。
「そういえば、桃太郎ってどんな話だったっけ」、で始まってしまっては、「他者」は果たして食いつくかどうか。
·「みんなが知ってるはずの話がうろ覚えで、再構成しなくちゃならない」の動機付け、物語の導入が足りてないから、この劇全体が「なんだか面白い、ウケた」で消費されてしまう。

 複数人による過去話の再構成って、実はけっこう深堀出来るテーマの一つではあるし、その分の演じる人の掘り下げもできるはずだった。

 もちろんそれをしていたら、多分20分にはおさまらないし、また軽みのある、「ロークオリティなハイクオリティ」の道具たちの生きる世界ではないから、都立東はベストな演出はした。
 したけれど、これはこの場限り、ここでマックス、ここまでのものだなあと思ってしまう。

 いや、俳優の能力もフルに生かせていたし、成功と言っていいと思う。
でもなあ……これは変な話だけど、もっと欲張って、なんというか、むしろ失敗してもよかったんじゃないか? こんなことをいう天邪鬼な鬼は退治された方がいいかもだが、もっと訳の分からない、やばくてきついものを題材にしても良かったんじゃないかなあ……。

 と、成功した人に向かって「失敗してもいいんじゃないか」なんてとんでもない言い分かもしれないが。もっとこのメンバーなら、外に向かう力を意識して、観客の外側へ、もっと上へ、そっと未来へ、ヤバいものを見せようとしてもよかったんじゃないかなあと思ったりした。
 
 だからこの日、能力も稽古量もちゃんとしていて、大きなミスもないように見えたし、トータルでも一番いい演目に思えたけれど、最優秀校には推さなかったのは……これがこの日の回だけで最優秀を決めるのなら、都立東にしたかもだけど、最優秀は次の大会へ推薦するというアレがあったのだ。
 その時に、外に向かう力そのものの足りなさを感じたというのもあり、優秀校として次点という感じに考えました。

 劇を起こすとき、――これは僕の偏った考え方だけど、観客に面白いと思われることは最優先ではなく、その向こう側へ皆を、世界を連れて行こうとしてほしいなあと、思ったりするのです。

 仏教の『公案』という、いわいる頓智問題で悟りを開くというやつがあるんですが、好きな公案に「自分の父母の生まれる以前の顔をせよ」と言うのがある。
 ……や、これ、なかなか答えが出ないんだけど、なんというか「観客の、父母すら生まれる以前の顔」に向かって、劇を向けてみてはどうかなあと。
や、これはだから、下手すれば言い訳にもなりますよ。僕なんかもそう。お客さんのウケよりも大切な事があるんだ、と、僕のような小難しい系のお芝居作ってます感のある人が、言いそうな事ではあるんですけれど。

 でもなあ、なぜこの世に演劇があるのかなあと考えたとき、一つは「生まれる以前の顔」をさせる……というか……人間という存在の起源の「顔」、感情、心、精神の動き、そう言ったものを揺さぶるのって、生の演劇だからできることの一つなんじゃないかなあと思ってたりするんですよ。もちろんそんなの、そう容易にはできないんですけれど。

 なんかこういう……都立東くらいのレベルであれば、この場に居る人に面白いと思われる、程度のものではなくて、面白い事をさらに超えたものを最初からやろうとしてほしいし、そしてそれをやって、大いに失敗もできるポテンシャルが、あると思うんだけどなあ……と、思った次第です。

 うーむ、失敗をしろと、人に勧めていいものなのだろうか。これはおじさんが若い人に「若いころの苦労は~買ってでもして~たくさん失敗していいんだ~」みたいな、超失礼な意見と同じことを言ってしまってるのかなあ。
 でもなあ、悩んだりしたけど、心の底から、そう思っちゃったんだよなあ。

 そんなわけで20校分の感想書きましたー。
 続いては全体の感想と、賞に関して考えたことなどまとめます。

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