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ある日の高校演劇審査員日記 その6

11月18日~

 17日に高校演劇の東京中央大会、スケジュールの都合上、三校しか見られなかった。その感想を労務先から書ける限り。

中央大会2日目
1 武蔵野北『アルジャーノンに花束を』

 原作小説ファンとして、とても興味あり。どう演じられるものか。単純に大河な話を、どう1時間切り取るのか。それも興味深くみた。原作のあらすじを超絶ざっくりまとめると、知能が低い人が手術で高い知能を手に入れるが、それが失われる話。分厚い文庫一冊には、数奇な運命をたどった知能手術被験者のチャーリーによる「経過報告」という形で、彼が言葉を失うまで書かれた小説。

 小説という形態にも一工夫あったりする原作。大河な物語原作を1時間にまとめる事を思うと、「ハワイを日帰りで観光する」事くらいの困難があるなあと思った。せめて2時間ほしいよなあ。

 ハワイを日帰りで観光する場合、どうしたらいいのか。やはり、海か。
 その中でも、よりハワイらしい海を探すだろうな。なにせ日帰りだ。ハワイらしい、ハワイの本道、誰が見てもハワイだ、みたいな。
 そういう観光の仕方は、ハワイに行った事になるかどうか。ハワイに行ったアリバイ作りになってしまわないか。

 武蔵野北の『アルジャーノンに花束を』は、誰がみても「あ、アルジャーノンだ」と思われるような要素を上演したように思える。
 では『アルジャーノンに花束を』の必須要素とは何か、を考えて、武蔵野北は、「らしい」部分、王道の部分を厳選して演じていた。
 知能を得たことで、家族との葛藤を回想したり、アルジャーノンとともに逃げたり、父、母と再会したり。すべて劇的なシーンだ。あとは前提を説明するシーン。
 そうした劇的なシーンをやらなければ、アルジャーノンに花束を、を演じた事にはならないのだろうか。
 そうでもないんじゃないかなーというのが、僕の思う所だ。

『アルジャーノンに花束を』の、何を面白く思い、何を演じたいのか。その意思が重要ではなかろうか。それが結果、原作をやったとは言えないくらい歪でヘンで説明不足になったとしても。むしろ、そこに演劇が立つんじゃないかなあ。
 武蔵野北は丁寧に物語を抜粋し、原作を最初から最後まで、要点を押さえて、まとめ上げていた。国語であれば合格点を与えられてしかるべき構成力だ。アルジャーノン見たよ、って感じを観客に伝えてくれる。
 だけどそれは、情報の伝達だけに始終してしまってなかったか。
 演技もうまい。うまかったけど、それは「伝達がうまかった、情報や、原作に書かれていた物語が淀みなく伝わった」という意味のうまさだ。知能が足りないチャーリーが天才的な頭脳を得る、その表現も感情のやり方もうまかったけど、「情報として」伝わってしまってなかったか。

『アルジャーノンに花束を』の中で、何が一番やりたくて、やらないではいられなかった部分はどこか。もっとわがままになってよかったんじゃないかなと思ったり。わからなくていい、話なんて。伝わらなくたっていい、情報なんて。
 観客に楽しんでもらおうとすら、最重要なことではないと僕は思う。

 存在すること、そこに居ること、その原作を使い、そうしないではいられない私が、物語やテーマや情報より人間が、そこに居たらいいなあと。思ったりするなあ。

 話はずれますが、『アルジャーノンに花束を』原作小説で一番好きなのは終盤のワンシーン。チャーリーが知能を失いつつある中で、愛してやまなかったはずの音楽がわからなくなってしまうシーン。
 レコードをかけても、その音楽が、何が良いのか、今鳴っているのが何なのかすら、わからない。
 なのに、かつてそれを愛していたことだけは覚えている。チャーリーは苛立ちの中、もっとも愛していたレコードを壊し、部屋中にばらまく。かつて神経質なくらい清潔だった部屋は汚部屋になり、世話していたアリスキニアンが部屋を片付けると、チャーリーは理不尽にアリスに怒り散らす。

 もし自分が『アルジャーノンに花束を』を上演するとしたら、やってみたいのはこうしたチャーリーの晩年だ。おそるべき勢いで天才的頭脳が衰える日々。研究室との関わりを断ち、長いためらいの時間ののち、知能が低かったころ世話になったパン屋に再就職を決断する。そのパン屋でも、うまくいかない。
 うまくいかない中、パン屋の皆から、支えられて生きる日常。これも原作小説にある。だけどこれも支流だ。地味な話。でも僕にとっては、これから起きうる話。ダメになって、何もかも分からなくなって、それでもそこに居る話。もし僕が演劇にするなら、そこをやるだろうなあ。

2都立紅葉川『紅葉殺人事件』

 これは僕が審査員として参加した城東地区A日程から選出された演目。その時の講評では愛憎入り混じった感想をたくさん言った。内向きに向かう方向に、くわあっ! と思ってしまってなあ。でもより多くの観客に見てほしいと思っていて、それが叶ってすごく嬉しい。
 今回二回見て、その多重な構造の精緻さにあらためて気付かされたり。ざっと見受けられたレイヤーでいえば……

 つかこうへいの原作→
 それをやろうとしている人の話→
 劇全体が演劇部の事実を元にしている→
 作家が劇中で殺されている、という「ごっこ」→
 等身大を描くという事は何か/私(作家)は殺されなければ書けないのではないかという内的主題→
 全体を覆う青春(等身大)の終わり、卒業/現実の始まりのイメージ……

 それが、60分、歌とアクション込みで……やってたわけです。あと舞もね。その複雑なレイヤーを観客に押し付けるわけでもなく、超高密度で、笑いとともに展開されて、それがやはりやはり、劇の主題を僕がいかに否定的に思っても、中央大会に推薦させてしまうほどの過剰な力を感じたのでしたよよ。

 難でいえば、その力が弱まるシーンが中後半にある。それはまさに、作家が主題に向き合う一連の展開。作家が殺される前段階のシーンだ。そこに凪がでる。立ち止まって考えて議論してしまった。そこは、止まるべきではなかった。役を動かし、論理より役の衝動で動かすべきではなかったか。
 前半のひたすら飛躍し、追いつけない観客すらうねらす速度を、維持するか、あるいは一気にせき止めるか。
 停滞が生まれたのが、この劇の唯一の、最大の瑕疵だったんじゃないかなあ。
 作家のわずかな逡巡、それが作家自身の誠意さの表れだとしても。

 それでも、作家は劇中のように、道化として仮面を被りつつけ、過剰な言葉をつづり、俳優を動かすべきではなかったか。
 さながら、原作として利用した、つかこうへいのように。

 二回見れてよかった。二回目の方がなおよかったなあ。観客を巻き込み、うねらせた。等身大以上の、魔法のような時間があった。楽しかったなあ。その魔法に酔う事なく、次の劇に向けて研鑽を積んでいただけたら嬉しいなあ。

3 筑波大付属駒場『敦盛敦盛』

 噂には聞いていた有名校だったけど、その有名さに納得というか、や、この劇は、東京の演劇の最前線の一つではないかと感じた。
 ひょうひょうとした立ち方、振る舞い、力の抜けたようでいて、だからこそ見ている世界があり、その世界の歪みのクレパスにそっと落としてくれる。

 舞台にプロジェクターと白スクリーン。ショートコントのようにネタのタイトルや、プレゼンテーションのように資料が照射される。
 まず、舞台中央にひとりきて、型通りの挨拶……「今ここに上演できるのも、スタッフや皆さんのお陰です、感謝いたします」(正確な文字起こしではない)的な事を言う。
 で、自己紹介がはじまる。この一分間を見て、演劇の「呪い」が解けた観客もいたんじゃないかな。舞台ど普段通りに喋っていいし、からだもラフでも構わない。それが別に観客に失礼にはならない。
 僕にその呪いが解けるのは、19歳の時だった。岡田利規さんの戯曲を大学で読んだ時だったな。
 呪いのかかっていない男子四人は、未来の話をするという。敦盛敦盛。タイトルの意味は、100年。敦盛は人間50年だから、二つで100年。その100年の未来を、四人は淡々と、しかし何か、微妙な何か……とろ火のような、不条理さとでもいうのかな。怒り? まだ名付けられていない感情を、僕は見た気がして。

 100年で起きうるだろう彼ら一人一人が考えてシーン化した状況は、確固とした絶望に裏打ちされた軽くて笑えるナンセンスさだ。
 誰も乗る人がいない北海道新幹線、首都機能を失い氷河に閉ざされた東京のクレパス、誰も大声で叫ぶことはなく、死を空気を読んで待ち続ける、100年の孤独たち。
 観客は笑う。散々観客を笑わせて、不意に時間は100年先から現在にもどる。そして自分たちの、近過去から現在を通り過ぎて、近近未来へ。トーンは相変わらずかわらず、絶望が当たり前の現在のなか、淡々と演劇練習……公演直前なのに一行も台本ができないとか。部活卒業を親に諭され「東大いきます」と言わされ、アゴラの支援会員は俺たちを見ようとしてないんじゃないかとか、顧問にたしなめられるとか。
 ……そんな彼らの、淡々とこなすシーンの向こう側に、まだ言語化されてない、まだ誰にも発見されてない、生身の精神を見た気がして。

 うまく言えないけど、ツクコマのこの劇を見て、演劇って、この現在に超必要じゃないかって思った。ここに演劇がなければ、この感情や人間に宿る業やくるしみを、感知できなかったんじゃないか。

 ラスト近く。不意に、つい最近、風雨災害によって大会ができなくなった事実を、その淡々とした空気のまま触れられる。
 そして十数年後、中央大会が100回目の節目を迎える地点に、彼らは演劇を使って観客をいざなってくれる。
 それは形にも、意識すらできないかなしみやくるしみしか、現時点では見る事も知ることもできない未来の世界。
 そこで冒頭にやった、型通りの、つまらない、なんの感情ものらない、ただ言ってるだけだろって冒頭の言葉が繰り返された。

「今ここに上演できるのも、関係者やスタッフや皆さんのお陰です」

 希望というにはあまりにも弱すぎて、目に見えない。でも100年の、敦盛敦盛した先に、彼らは上演への感謝の言葉を置いた。

 若い彼らですら死んでいる、100年先の未来に、演劇はあると、宣言してくれた。こんな世界でもだ。
 演劇があってよかったと思う。これを見た時、なんかそう思った。
 高校演劇という括りを最大限生かして、そしてそんな括りなんかなくても自立できてしまうほどの面白さを、シレッと見せつけられて。
 や、彼らとて余裕しゃくしゃくではない。ギリギリで生きて、ギリギリに淡々とひょうひょうを演じている。
 その戦いを見れたのが、なによりの幸福でした。
 いや、よかったと同時に、焦るなあ。焦る。労働先にて、演劇が思う様できていない現在に焦るなあ。

 と、弱音をはいている場合ではないな。演劇や生活を、よりよくせねばな。よりよく、よりよく。
 感想の締めがこんなんでいいのか。でも、頑張りますよ、ぼくも。

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