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ある日の高校演劇審査員日記 2021年夏  その2

 前回に引き続き、2021年・東京都城東地区高校演劇新人デビューフェスティバルの19日ツイートしたものをまた書きます……。今回は午後の部の5校分になります。

午後の部①【都立小岩】『夢』

 19日の午後一発目の公演。生徒創作。進路希望調査を提出できないでいる男子生徒が夢と現実のギャップに苦悩するというお話。

 現実の高校生が、現実の高校生を演じるって、けっこうむつかしいのだろうなあと思う。モチーフと距離感が近すぎるのか。

 そもそも「演じる」ということに、なにか特殊なことをしなくてはならないのではないか、という……義務感と言うのかなあ。それがあることで、ほぼ劇中のキャラクターの置かれている状況は近いはずなのに、そことかなりかけ離れてしまったりしてるように見えたなあ。
 劇だから伝えないと、劇だから高校生はこうしゃべらないといけない、というように、演劇に対して生真面目に応えてしまったように思える。

 劇中の高校生は、自分の進路、自分の夢を、たまたま教室で居合わせた友人と語り合うが、果たしてそもそも、自分の夢や進路って、そんな生真面目に普段、話すだろうか。語るだろうか。語るとしたら、そんな語り方だろうか。顔をちゃんと見て、目を見て、20分の上演時間に収まるように話すだろうか?

「劇のテーマは進路に悩む高校生がテーマ」だから、「登場人物に「夢」の話をさせている」というように見えてしまう。
 登場人物が、テーマを語らせるために出現した記号にのように見えてしまうのは、とてももったいない事だ。生身の人間が演じているんだから。
 真面目な考えで作られすぎてしまっているようにみえたなあ。
「お客さんに見られるのだから、しっかりと情報を伝えて、ちゃんと見せなくては」と考えたのかもなあ。

 どこか、学校の中で配られる資料を見ているようにも思えてしまう。演劇は、そうならなくていいんだよなあ。
 テーマを伝えたい、という動機があるとして、ではそれを、どうすれば観客に展開していくと、刺さるか、面白がってもらえるか。それは自分が何を見たら刺さったのかを考えてみてはどうか。
 何を見て自分は心を動かされたり、自分の考えが変わったかを考えて、あらためて自分たちの演技や表現が、そうしたものになっていただろうか。
誰かに、生真面目に「情報」だけを伝えて、私たちは心を動かされる事があるだろうか。

 劇の最後、今回は「新人デビューフェス」という側面もあり、各校新加入部員の紹介も行うんだけども、その時都立小岩の新人の人たち、とても楽しく、ちょけていたんだよなあ。1回転したり、ポーズとったりして。
 それだよ! と思った。その身体なんだよ! みたいのは、やってほしいのは!

「やんなきゃいけない事」から解放された身体と精神を使って、表現に挑んでほしいなあ。真面目なテーマだから、部活でやってることだから、高校生だから、という制約から、ほんのわずか自由になった(ように見える)のが、舞台という空間。
 その怖いくらいの自由を使って、他人に向けて何かを考えたり、出してみてほしい。

 ……とはいえ、それが本当に怖くて、むつかしくて、地獄でもあるんだけれども。……まず、こっち側……表現をする側というか、「間違ってもいい側」にきてくれたらなあ。
 19日の他校の上演とかに刺激を受けて、「あいつらが狂っているなら自分たちも狂ってみよう」と思ってくれたら、いいなあと思ったりした次第。

……でも本当難しいんだよなあ。そもそも、精神が自由になるという事のリスクというか、なんていうんだろう。自由になったからと言って、表現をすることが幸せであるかどうか。
 そもそも「自由になれー」という僕のようなおじさんの声ほど信用できないものはない。自由ってなんだろうか。そのわりに、僕のような審査員を名乗る、権威を身にまとったおじさんは「でもそれはダメだ」ってわけわかんないタイミングでいうしな。

 自分を「真面目にせよ」「誠実でなければならない」と縛っているものは何か、を考えてみるといいかもしれない。なぜ自分は、間違えないように、怒られないようにしてしまっているのか。そうさせる、見えない怪物を見ることができたら、その怪物を笑わせることを考えてほしい。
 それはきっと、無自覚にできてる。新人紹介であんなにちょけられ、体を1回転させたり、ジョジョ立ちしたりポーズとったりできる君らなら、権威の都合で高校生を真面目に縛り上げる怪物の裏をかくことは、出来るんじゃないかなーと思います。

午後の部②【関東第一】『花の乙女は暗殺者』

 こちらは顧問創作。アイドルかつ暗殺者としてプロデューサーに育てられたセンターの少女が、カメラ小僧との許されざる愛をなんちゃらかんちゃら、わーっとなって30人出る奴!

 圧巻。強いテキスト、それに応えるストロングな身体で、他を圧倒するパフォーマンスで20分走り切る。まあバカな世界観。しかしセリフがつかこうへい張りの昭和歌謡。動き、うねって、飛んだり跳ねたりの大立ち回りだったなあ。
 とてつもない力を見せてくれたのは、単にすごい人数が出てるからというだけではなくて、個々の実力が、俳優の力が相当頑張っている。

 問題は、そこに頼り切ってしまっている。
 30人と言う圧、そして一人一人が頑張っている。そこに依存している。演出が俳優の努力に応えるだけの計算がない。
 演出とは演技指導の事でも、俳優にはっぱをかけて頑張らせることではなくて。例えば、強いテキストだから、必然的に俳優は強い体になる。最初の数秒でこの世界に引き込もうとするわけだから、最初っから強い力でバーンといく、という作戦はわかる。問題はその強い力が、ずーっと20分間、変わらない事だ
 だから、最初のシーンとそこで語られる変な設定の面白さだけが印象に残ってしまう。
 緩急がない。や、厳密に言えばつけようとしているんだけど、それが「俳優頼み」になっている。演出としてコントロールしているとは思えなかった。
 さらに一人一人が「頑張って」「力強く」いてしまうから、30人が全員同じに見えてしまう。なんのための30人の才能なのか。そこは、演出しなければならないだろう。一人一人、美味しくさせるためにも。

 そして俳優も、頑張ること以上に「作品の邪魔しないように」「みんなのために」演技しているようにも見えた。
 それでは、そこどまりなのだ。もっと出せる。もっとやっていい。
 作品の邪魔をしないようにする、という遠慮は、「自分のターン以外のシーンでは演技が止まりがち」ことから察せられた。
 そこは、もっと出さなければ。むしろ自分のターン……注目が来ていないところでも舞台に立っている時にこそ、生きなくては、立ったまま人数の多さの中で死ぬことになる。
 どうすればいいかといえばリアクションだ。このキャラクターがこの場所にいるときの、反応。

 構造的に、明確に一人の主人公がいて、その主人公の動きで劇が動く。ただそこで――これは僕の好みだろうか、祈りだろうか、生き方だろうか……進行の邪魔をしないように立つのではなく、むしろノイズとなって、ここにいる、ここに生きている、というのを、全員が示してほしいなと思ってしまった。

 主人公としてセンターを張る女優は、強度のあるポジションを引き受ける強い力があり、サブ主人公のプロデューサー役の男優も極めて器用で上手い。この二人がメインを張るのだから、その強さを信じて、残りのキャラたちは進行の邪魔になるくらい、生きてほしいなと、思ってしまったんだよなあ。

 そして、案外セリフがぞんざいになっている。強い言葉だから、強く出している。でもそのセリフの一つ一つ、あらためてとんでもない事言ってるというのを味わいなおしてほしい。このセリフはどういう動機で、どういう狙いで言ってたのか。
 テンポと力にかき消されて、それを言う時の精細さがおろそかだ

 具体的にどのシーンかと言うと、アイドルに恋愛の話を振りだす司会者の言葉は、その発話する者も、発話を受ける者も、それを聞いた周囲にいる人も、もっとザワつかなければ。
 勢いとテンポで、その言葉、行為の重大さが掻き消えてしまっている。
嵐のような芝居であっても、そこは繊細さがなければ、テンポや、劇のノリやねらいといった大きなもののために、個が、人が、シーンが死ぬことになる。生きなくてはいけない。
 全体のために、演劇部のために死ぬことがあってはならないと僕は考える。
 ……や、まあ、死にたければ、演劇のために死ぬのはいいかもなあ。でもそれなら同時に、したたかに、死んでも生きるという、ズルほしてほしい。ズルが足りない。ズルが。したたかさ、悪さ、それでもワレがワレがという、たぶん今の学校教育では真っ先に消されてしまう、悪い部分が足りない。

 しかしなんだかんだ言ってますが圧倒的ではあり、そして多分、両日、全20校の上演高の中で、唯一かなあ。外に向けて劇を発していたのは。目の前のお客さんを超えた外側に向けて全員が劇を作ろうとしていたように感じたんです。その点が、19日の最優秀作品に値するのではないかなあと思い、推しました。
 そして、最優秀校は1か月後別の短編大会に出場するというので、その外に向かう力と、「演出」を意識した再構成と、一人一人がずるく、生きてくれることを、その大会までにパワーアップしてくれたらいいなあーと……願っています。

 こうー……書きぶりからお気づきかと思いますが、この系統の演劇を山本は本来苦手としているというか、言わばアンチです。でも、審査員の好みに合わないという劇を、それでも最優秀に推させるということをさせたというくらい、この高校はとてつもない力を持っているんだなあと、思っていただければなあ……。

午後の部③【都立足立】『前略 社会困難の中より~社会人の叫び~』

 こちらも生徒創作。これがなあ、謎なのよなあ。会社員3人が、立ち話している。……立ち話している……。そういう話なのだが……。すごく異様なんですよ。会社員が、リモートワークではなく久々に会社に来た、というテイで3人が話すんだけれど、トリオ漫才のようにこちらを向いて、延々と……ただ話す。
 これが不思議なことにテンポも崩れず、話している事もなんか……なんかおもしろい。

 なんか3人も異様にうまいというか……謎の生き生きさがあるのだ。会社という設定が何にも生きてないようにも見えるし、ただ立っているだけだし(せめて椅子くらい使ったらどうか……?) 仕事も何にもしていない。ただ20分、立って、話して、笑って、話して、「そういえば」で話が転がり、ただただ流れていく。

 ドラマツルギーとでもいうべきものが全くなく、20分が過ぎていく。
 なんだったんだろう……とはおもいつつも、3人はただそこに居た。それを見た。そういう不思議なものを見たなあーと。会話が軽妙で観客も笑いが起きている。舞台上ではほんとうに、なんも起きてない。ただ3人がいるのだ。

 それがこの「20分」という枠にはうまくハマっていたんだろうなあと思った。
 ただこれが20分以上あると、やっぱりむつかしいんじゃないかなあ。面白い会話をする人間がそこにいる。では、その3人はどういう人なのか……とかの、もっとその先への深堀りがあるのが、きっと作品と呼ぶべき領域になるのかな

 このテキストと演出した人は、やはりある種の才能というか、漫才台本とかの能力がある人なのかなあともおもいつつ。
 その力を保ちながら、次は人や題材、状況をもっと深堀って、観客を楽しませることのさらに向こう側を刺激するようなものを作ってみてほしいなあと思ったりなんだりしました。

午後の部④【都立深川】『憧れのヒーロー』

 こちらも生徒創作。戦隊ヒーローにあこがれた人々が、誘拐事件に巻き込まれながら、どこか特撮ものにあるお約束を踏みながら、ゆるく話が展開していく……というお話。

 なんというか、謎ないい雰囲気がこの高校から漂っていて、この世界で、ここにしかいない、ここでしか見られない劇を見たような、そんなスペシャルで唯一無二のものを見たなあと思ったりなんだり。なんだろうこの独特な緩さは。世界観は。すごいほっこりする。

 一人一人がもうかけがえのない、交換不能な存在に見えている。けっして、何かが突出してうまいとか、強いとかはないんだけれど、ヒーローもののフォーマットを楽しそうに踏みつつ、それだけでは終わらないキャラの個性を存分に楽しめたなあ。

 存分に「やりたいこと」をやっている。そこに好感を持つ一方、ここまでできているから辛口な事をいうと、「やりたいことをやっている止まり」ではある。お客さんに対してどう見せたいとか、ヒーローもののフォーマットを借りてきた以上のものを、意図して持ってきていないと感じた。

 や、滲みは出ている。人のいい感じ。柔らかな感じ。なぜか笑ってしまう感じ。
 それを使って、何かを見せよう、観客をどうこうしようという……野心が感じられなかったなあ。
 それは悪い言い方をあえてすれば、内向きの楽しみでとどまっている、という言い方もできる。それは全然いい事なんだけれど。むしろ寿ぎたいくらい。

 しかし、この実力があるのだから、もっと「観客にこうさせてみたいなあ」とか……我欲とでもいうんでしょうか。エゴのようなものも見れたらいいなあと思ってしまった。
 面白い事をして、みんなも幸せである、という所にとどまらせるには、もったいないくらいうまく、生き生きとしているところがあって。

 正直、19日で見た中でいえば、僕の好み補正というものもあわせ、そして世界で唯一のものを作りだせているという点で単体としてのクオリティは随一と思ったけれど、なぜ最優秀に推さなかったと言えば、その先、外に向かう力に欠けていたなあと、おもったからだったり。
 フェスという催しという観点から見たらとてもいいものであるには間違いない。
 けど今回「最優秀校」は、7月下旬の短編演劇会に推薦されるそうで。その先の発表会に推薦したいと思うものは、やはり「フェス」というものの枠内に収まり切れない、より他の観客を必要としている志向を感じられるもの選びたいなあという観点から、最優秀賞ではなく次点の優秀校として推しました。

 なんだろうなあ、都立深川は、2年前も審査員したときにも、その特異で、ぼんやりと、やさしく、異様な空気感のある作品を作っていたなあと思い出したりして。
 校風とでもいうのか。人が入れ替わっているのに、校風が残るって、高校演劇のおもしろい一側面だなあと思ったりしましたよ。

午後の部⑤【都立飛鳥】『青春とは!!』

 こちらも生徒創作。いつも元気で仲のいい女子生徒たちが「青春したい!」と夏への予定を立てていくが、不意に一人が全ての予定に行けないと伝えてくる……というお話。

 これもまた「高校生が高校生を演じる」モノとでもいうものでしょうか。こんな元気な人は、フィクションの中にしかいないんじゃないかなあというくらい、楽しく明るい女子生徒が描かれる。その一人が「青春したい」と口にする。これは多くの人が共感されるテーマなのかもしれない。

 その「青春」を、夏休み、いろんな計画を立ててイベントで味わおうとするが、一人が「病気」になってしまって、一度しかない青春を味わえない、という事態になるというストーリー。そこから、青春とはなにか。私たちが体験したいこととは何かという話になっていくのだけれど。

 問いの立て方、そしてそれを展開するための事件として「病気にかかってしまう」という困難を持ってくるのは、劇の話の展開としてはなかなか悪くないチョイスだ。
 この困難の中でキャラクターはどう動くのかなというのが見どころになっている。

 ただ講評でもやや辛口に指摘したのは、その「病気」の扱いだ。

 ·生身の人間が「病気にかかった」という事を表現する。これは漫画や映像よりも生々しく、繊細に扱わないといけない。
 講評で僕が言ったのは「病気と言う名の病気はない」。
 劇中では病名に言及されることはなく、俳優の一人が罹患した状況は、かなりステレオタイプで、あえて言えば表現に「浅さ」を感じた。

 たまたま僕が前日、大病院に診察を受けたという経験があったからそう感じたのかもしれない。僕が目にした生身の病気に罹患した人たち。病気というリアル。死と言うリアルにき合う人々と、それを介助する人、接する看護師さんの現実の姿を見た後に、「病気」を扱う劇が、体が、現実に匹敵していない。

 や……「病気って大変な事だから簡単に扱うな」みたいなことで委縮はしないでほしい。むしろ、病に縁がないからこそ、病気をフィクションで扱い、味わい、やってみる、トライすることは超重要な事。
 ただ、たとえば家庭内に病気を持つ人がいる観客がこの劇をみたら、思うかの想像と、その覚悟はできていたか。

 「病気」をフィクションとして扱う覚悟。
 想像力は、こういう題材に限らず、自分たちの外にあるものをの目をもっと意識される必要がある。
 「夏休みの予定が消えてしまうほどの大きな病気をした」人に対して、話しかけるのはその距離感でいいのか。そんな声の大きさでいいのか。近づき方でいいのか。ベッドの横にそんな速度で座るのか。未来の予定の話を、そのテンションで本当にできるかどうか。

 特に病気と縁がないと、私たちは普段、健康な世界、「健康界」にいる。
健康界で、なんの疑いもなく、明日や、1か月後や、1年後の予定を話題にしたり、憂いたりする。
 しかし、ある日突然「健康界」からはみ出てしまう事がある。当たり前に来るはずの明日が、当たり前ではない世界になる。
 そこに住む人は、はたしてどういう風に話すのだろうか。考えるのだろうか。
 ……その一方で、この学校の持っていた底抜けの明るさで、「病気」を扱うとしたら、どんな奇跡ができるだろうかという希望も見たい。そこに劇の希望があると思う。深刻な話をただ深刻にやるのではなくて。

 しかしそれには、多分経なければならないステップ、考えなければいけない事、想像しなければならない事がもっとある。
 それらを積み重ねて、決して味方ではない、自分の世界の外にいる人にも見られるという覚悟をもって、これからも自分の環境の外側にある題材に挑戦してほしいなあと思ったりしました。

 さてこちら、初日11校は以上! 次回は2日目の感想をまとめます。

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