ジエ子さん。第4回

【ジエ子さんの読書と文学】

 休みに何しようかと思っていたら、もう17時になってしまい、そもそも朝ごはんを食べたのが14時だ。片づけをし、ミヤネ屋を見(職場でもなぜかこの時間事務所に居たら職場の人達となんとなく見ている)、服を片づけようと体を動かそうとしていたら、こうなる。

 結局、出勤しないと日の光を見ないな、と思う。出勤してても、外回りに出ないと日の光を浴びるチャンスは通勤中くらいしかない。でも通勤に使う電車は、成増駅から地下だ。帰宅は、夏場だったらまだ日の光があるけど、日の光というものは、朝から昼にかけてだと思う。太陽がもったいなかったな、と良く晴れていた日は事務所(オフィス、といういい方はちょっとあれだ)で思う事がある。休みの日こそ、太陽を浴びるべきだろうと。

 ので、読書をしようとする。キンドルが便利だときいて、実際にキンドルの端末を買ったが、充電が減っていくのがストレス過ぎてやめ、やはり紙の本になってしまう。

 だが、読書も最近は怪しい。読もう、という気力がすこぶる減ってきているのだった。
 特に用事なく、駅前の本屋もぶらりとのぞくのだけれど、なかなか買うまでのテンションには至らない。それに小説を買おうとすると「あ、まだ加藤千恵の『ラジオラジオラジオ』が買ったまま読んでなかったな」とセーブがかかり、そして結局『ラジオラジオラジオ』は未読のまま、もう1年くらいたつのか。

 就職してから読書量が格段に減った気がする。昔は、文化構想学部という、文化を構想する学部に居たくらいだから、かならず読書継続中みたいな本は鞄にあったはずだった。小説だけではなく、評論や、理系のあれこれを文系のわたしにもわかりやすく解説してくれる新書とか好きだった。あと、たまに歌集。短歌も好きで、実際に自分でもある時期短歌を熱心に詠んでいた。

・ネックレスの重みで首を切られてるような気がする これはいらない
・全自動さよならをいうマシーンにさよならを言わせつづけてる日々
・暗闇で見えなくなるほどの白さのわたしの肌の密度のうすさ
・くるしさをよだれに変えてたらしても砂漠はよみがえったりしない
・憧れは模倣と気づく模倣にもなれないと気づくただ立っている
・マニキュアの破れが爪を剥がしてる拷問跡に見えている午後

 みたいな感じで短歌を作っていて、大学に居たころは短歌の新人賞に送ろうと思っていたが、30首作らねばいけないらしく、また「ネットや同人誌で発表したものは不可」とあり、SNSで不定期に短歌を載せてたりしたのと、30首もつくる根性がなく、ぐだぐだした気持ちのままになっている。
 それでも、いつか短歌の賞を取るのかもしれないと思っているわたしは、思い出したように『短歌研究』の冊子を買い、「調査票」(応募チケットみたいなもの)を切り取ってはファイルに挟んでいた。

 短歌を詠むのは好きなのに、他人の歌集はそこまで熱心に読んだりはしない。それでもさすがに穂村弘は好きで、だけどわたしの本棚に彼の歌集はない。『世界音痴』『短歌の友人』『もしもし、運命の人ですか。』『にょにょにょっ記』とかはある。エッセイとか、そういうのばかり読む。
 だけど穂村弘を好きという人たち、とりわけ、ほむほむ呼ばわりする人達を、なぜかわたしは猛烈に憎んでいた。そんなんじゃない。穂村弘をほむほむと呼ぶな。穂村弘も、ほむほむと呼ばれて、喜ぶな! と、会った事もなく、喜んでいるかどうかもわからないのに、なぜかそう思い、ネット上で自分の他に穂村弘を褒めてたり、面白がっている人を見ると、つい不機嫌になってしまっていた。

 他に好きな作家は、星野智之、長野まゆみ、あと引きこもり研究の齋藤環の本はよく読む。あとあまり人に言わず隠れて読んでいたのは清涼院流水。清涼院流水の小説は、内心バカにしながらもものすごく面白くて、これを面白いと思うわたしのセンスは間違っていると思ったので、周囲にバレないよう、なぜか大学から遠い場所の本屋でこそこそ買って読んでいた。あと、わたしの中では舞城王太郎も同じ扱い。中でも舞城の一番の傑作は、ジョジョの漫画のノベライズだと思ってる。

 と、小説の話をするのは好きなのだけど、最近まったく読まなくなってしまったのはなんでだろう。働き出してからの休日、本で埋めるのがもったいなく思っているのかもしれない。太陽を浴びるべきだと思う。でも、もう17時半だ。もう夕方。

 夕方に家を出るのは、なんとなく違和感がある。総菜パンもまだ家にある。今日は家を出るのをやめよう。テレビもラジオも聞くのはやめよう。短歌、ちょっと詠んでみよう。でも無理かもしれない。インプット、全然してないからなあ。

(つづく)

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