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ある日の高校演劇審査日記。2020年の1

 ツイッターにて、東京都高等学校演劇コンクール2020・多摩北地区B日程の審査員をしたときのことや、見た高校についての全部の感想を連投しました。
 ちなみに審査結果は下記になります↓

 ツイッターでは見づらいのと、アーカイブの意味も込めて、こちらでもまとめてみました。
 コロナにより特殊な年だった今回の高校演劇コンクールのある日の地区大会の様子を、ぜひお伝えできればなーと思っております。
 長いので、三分割? にして記事にする予定です。

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 さて今年も山本は、高校演劇の審査員というものをやってきました。多摩北地区B日程というところです。全11校を、10/3、4、10日と三日間みました。
 この状況下で、11もの団体が「上演」できたこと。これは本当にすごいこと。それを見、審査をする。真摯にあらねばと、力の限り、見ました。

 この状況下の上演は繊細さきわまるもので、関わる顧問の先生の細やかな運営や判断、そして、高校生活もままならん中で稽古し、打ち合わせし、上演した高校生の努力がなあ……。
 
 本来であれば、上演というものは努力や奇跡が前に出るものではなくて、ごく当たり前に、息を吸えば息が吐けるような、日常のものであれかし、とは思う。
 生きることは、日常のもので、努力や奇跡ではないように。そうあるべきであれかしと、願うように。

 例年とは違って、観客席に座る観客が、きわめて限られている状況だった。コロナ感染を防ぐために、一般の観客が入らない状況だったのだ。
 これは、誰に見せるためのものなのか。演劇は誰のものなのか。上演は誰に見せているものなのか。

 そんな限られた客席の中で、審査員として僕がこれらの劇を見ることで期待されているのは「他者」としての役割だろうと。
 自分らの作ったものを、他者に見られるという事。これほど人を鍛えるものはないと思う。
 ときにその目で、何かを殺すこともある。希望を殺すこともある。日常ではない中で作り上げた、奇跡と呼ばれてしまうような過酷なものを、安易なやさしさの目で殺してしまうことはよくないよなあとも。

 そんなことをつれづれ思いながら、そして、審査員という名目で呼ばれてはいるが、僕のもう一つの仕事は、見た、という事を、「見たよ」と、多くの人に話し、そして記すことだなあと思う。

 見られなかった他者のために、僕の目を通じて、彼らが劇場に、舞台に、そこに、「居た」という事を、書き止めておきたいなあと思います。そんなわけで見た11校の感想を書きます。

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東京都高等学校演劇コンクール2020・多摩北地区B日程 
①黎明館『ガラスの靴を脱ぎすてないで』

 既成脚本。女性にフラれた男がシンデレラの世界に入りお姫様になってしまう……というコメディ。全編明るく、ギャグと笑いが小気味よく展開される。
 何が面白いかといえば、主人公の「女にフラれた冴えない男性」を女性が演じていて、さらにその主人公はシンデレラ世界に入り姫扱いされ、「ごつい男なのに姫にさせられてしまう」という状況になるという所。たぶん脚本が想定している俳優は、ゴリゴリの男性男性した男性だったんだろうなあと。

 しかしそれを、黎明館は女性が演じ、そしてその笑いどころもしっかりと演じていたところは素晴らしかったなあ。男性の部員もいたのに、あえて主人公のこの役を女性が演じたのは、何より能力があったことの証左だし、男性の演技に説得力もしっかりあった。まずこのキャスティングの妙で一本。

 構造としては「”する”と”させる”」のギャップの面白さが根底にあり、もっと踏み込めば、日常私たちが受けおわさせられている”「男性」「女性」の役割を笑うものとなっている(ように僕は解釈したよ)。
 だからこそ、男の子っぽい容姿も演じられる女性が、この役をやることに面白さがあると思った。

 ただ、おそらくそこにはまだ踏み込んではいない。
 この学校が重視したのは、とにかく面白く、人を笑わせ、どたばたと明るく演じることを重視したんだろうなと思った。笑いを取るための工夫は(成功しているかどうかはともかく)随所にあって、仕掛けて、狙って、たくらんで、考えて、楽しんでいた。

 上手さもある。人を笑わせようとするのに必要十分なエネルギーもちゃんとある。ただその上手さも、一つ一つの笑い、シーンに費やされていて、全体として、作品としての面白さにそのものには向けられていないように見えた。だから、やや散漫になる。
 つまり演出が薄いなあ、と思ったんですよ。
「人を笑わせよう」「おもしろい劇にしよう」以上の、指針がなかった。一人一人の面白さはあるけど、それらが作品トータルで効いてこない。また笑いにしても、これはどういう笑いなのか。何が面白いのか。楽しいシーンではあるけど、その構成要素は何なのか。
 そこの取捨選択がなく、脚本に書かれた面白そうな笑いに時間をかけていくと、全体として何が起きているのかが分かりにくい。もしくは「話を先にすすめて!」という感じになる。
 この脚本全体は、何がかかれていて、だから、何が見せたいのか。もっと言えば、なぜこの面白さを、なぜやるのか。

 この「なぜやるのか?」っていう問いは、物を作る人間にはついて回ってしまうんじゃないかなあと思う。世の中で自分たち以上に、笑いが取れてしまう人たちがいる。面白い力を持っている人たちがいる。それらを差し置いて、なぜ、私たちが人を笑わせようとするのか。私は/あなたは、何者なのか。

「私が誰かを笑わせたい、だけではだめなんですか?」とも思われるかもしれない。
 その問いに僕は「あなたただから、あなたが演じるから、面白い、というものを見たいんです」と答えるだろう。演劇、に、限らず、作品を作るという事は、「あなたはいったい誰ですか」が問われることになるんじゃないかな。

 そんな時に、この作品を2020年の黎明館高校のメンバーが演じるにあたって、なぜ自分たちなのかという部分を、作品に欲しかったなあと。なぜこの脚本を選び、何を面白いと思ったか。それを作品で表現できたか、という点が、やや薄かったかなあ。これはどの高校演劇にもいえるのかもしれない事だけど。

 俳優としては王妃役の人の堂々とした演じぶりや、出番がやや少なかったけど姉役の人のワンポイントで強い印象を出したりと、総じて上手い人が多かったように見えたなあ。ポテンシャルは十分だと思うんよ。そこにあとは、いかに演出が乗るか。演出という考え方が入れば、きっともっと良くなると思いつつ。

「演出」なあ。
これは、調べたり、勉強したりで、すぐにできたり、身につくというものでもなくて。ただ考える、思い、言葉にして俳優と考えたり、伝えたりすれば「演出がうまくいった」という事でもないのだった
 ただ、演出というのは、その集団がそのままでいたら、絶対にだどりつかなかったであろう、「変なこと」をいうものだ。「まれびと」であり、「外からきたもの」と考えるといいと思う。そういう感覚があると、集団はより面白くなり、自分の持っている上手さで、人が殺せる。人の心をとらえることができるみたいに考えてみればいいんじゃないかなーと思いました……。

②都立東村山西『To be…』
 こちらも既成脚本。『ゴドーを待ちながら』を下敷きに、学校をやめたディディと、大人の割り切りができないゴゴの二人芝居。

 まずこういう脚本をやろうとしてくれる心意気が、小難しい演劇をやっている身としてはすごくうれしい。最初の第一声の、「もういいかい」「まあだだよ」のフレーズを聞いて、小さい声だけどしっかりと届く声に、ちゃんと稽古した痕跡が見えて、すごくうれしくなったなあ。

 こういう劇は、自然体とかリアリティというもので構成されているのではなくて、イメージや詩的な跳躍でシーンが運ぶから、自分の身体のありよう、演技のやり方がすごく迷うと思う。正解が極端にわかりにくい。観客としても、どう見るべきか。何を見るべきか。観客を選ぶものになるっていうのはあって。
 しかしそこで、こういう「雰囲気」に押されて演技をしてしまうと、観客も「暗い雰囲気」以上の受け取りをしなくなってしまう。全体を覆う脚本のトーンに、対抗し、戦って、大きな声を張り上げるようなものではない代わりに、何か強いものが必要になる。何か強いものが。

 例えば、この登場人物は、そう簡単に返事をするだろうか。
 心によどんだものを持ったデディにゴゴ。演技を見るに、かなり素直に返事をしていた。おそらくこの二人は、そう簡単に返事をしないのではないか。声をかけても、風のようにいなされるか、鋭い視線で睨み返されるのではないか。

「せっかくだから話しないか」

 というセリフ。このセリフに、果たしてそう簡単に応じるかなあと、見てて思った。
 返事、しないんじゃないかな、この人は、と。
 本当のこと、本当の言葉、本当の精神で、ようやく発話されて、やっと次のセリフに行っていいんじゃないかな。

 この二人の登場人物たちは、本当の人との関りに敏感なんじゃないかなあと思う。簡単には、返事を返したりしないのではないか。演劇だからって、脚本にそう書いてあるからと言って「生まれたときからレールが敷いてある」ような返事の仕方を、彼らはしないんじゃないか。

 そう考えると、俳優の二人は「演劇だから」という理由で、簡単に応答をしているように見えてしまった。
 演劇を真面目に、真摯にやるあまり、登場人物をよく見ないまま、相手をよく見ないまま、「こういう演劇だから」という理由で、雰囲気に押されて声を出してしまったんじゃないか。

 別に、舞台上が常にセリフに満たされなくたっていいのだ。
 登場人物がしゃべらないなと思ったら、しゃべらずに、そこにいたっていい。脚本にそう書かれていたとしても、脚本の人物が、そうはしゃべらないならば。おそらく東村山西の二人は、優しくて真面目で誠実に演劇をやったんだろうなと思う。

 身近に、人と話さない、話すことができない、話せられない人、というものはいないだろうか。その人に話しかけるとき、私たちの身体はどうなるだろうか。どんな言葉をかけるだろうか。どんなタイミングで、どんな間合いで、どんな時間に、どんな空の色のとき、やっと声をかけるだろうか。そういった想像力で、もう一度この脚本を読んでみたらどうなるか。

 そんな間で演技をしたら、この劇は終わらないかもしれない。朝までかかるかもしれない。とてもコンクールの尺に収まらないかもしれない。
でも、ディディとゴゴの二人にとって、大会のルールなんて関係ない。だから、この劇は1P分のセリフだけでもよかったのかもしれない。

 ふと脱線。
 ちょっと前、僕の劇団の公演に出てくれた高校生の俳優が、一人の観客に招待を出した。
 普段、教室でいつも顔を合わせるが、声をかけてもいつも返事をしてくれない。そんな人だった。その人に、その俳優は普段からずっと声をかけ続けていた。今度演劇に出る、という話もして、チラシも渡したりして。
 その人は見に来てくれた。
 そしてその高校生の俳優に、長い感想メールを送ってくれたという。その話を聞いて、僕はすごくうれしかったし、何より、その俳優がずっと、声をかけていた、という事に感動した。返事が簡単に来ない事をしってなお、そいつはずっと、声をかけていて。

 それって演劇だなあと思ったり。演劇を見に来てくれたこと、感想を送ってくれたこと。これらも劇的な事だけど、それ以上に、そいつが常日頃声をかけることを続けていたという、日常の、些細な、返事のない、通り過ぎる、風みたいな一コマが、もう演劇だなあと思ったのだった。

 回想終。さて、上演時間の60分。そういう部分を切り取ってもいいんじゃないかなあとも思ったりしてて……や現実にはむつかしいかなあ。でも、東村山西高校がこういう脚本を選ぶようなセンスであるならば、こうした領域にも足を突っ込んで、考えてみてもいいんじゃないかなあと思ったりしたんだよなあ。

③都立小平西『的を射ながら』
 こちらは創作脚本! 初創作とのこと。日本語のもつ言葉のわずかなアヤに翻弄されながら、現代のコミュニケーションの陥穽を描いた作品。
 ネット配信者が出てくるというお芝居で、おー現代だなあと思ったりしつつ、メインの舞台として選んだ場所が喫茶店だったりするところに、「人間が会う場所として喫茶店」という感覚が、高校生にもあるのかなあとおもったり。人が集うという事のリアルが、やっぱり喫茶店にあるのかなあと。

 序盤、一組の男女が親しげに話す。
 そこで気になったのが、男性が女性に話すときに、やや強めのツッコミが毎回入るなあと思った。
 いわいる「イジり」というか。男性の芸人が場を盛り上げるように、相手の言動のわずかな隙にいろいろツッコミをいれる。

 難しいのは「親しさ」というものの表現で、これを冒頭のシーンにあったりすると、会話の端々からこの二人は親しい関係にあることはわかるけれど、男がずっと強めのツッコミやいじりを入れているのを見ると、なにかこう、パワハラな感じな印象になる。

 この男がいろいろと後半活躍したり、ピンチを救ったりするんだけれど、この冒頭のやり取りや、あるいは中盤、その女性から真剣な告白をうけても「どうも」とか「えーそれはぁ」と、いなしてしまうシーンがあって、これはどうなのかなあと思ったりしたのだった。

 この脚本の作者は女性で、今回が初めての脚本の創作だという。
 中盤以降、シーンがクロスしながら展開するなど光るところもあったりするが、この男性の主人公の表現の仕方、あるいは作品全体の登場人物のコミュニケーションの不全な感じに、作家の置かれている現在の空気を僕は勝手に感じ取ったりした。

 劇中のネット配信者が、ささいな言葉のやりとりから炎上する。危機に瀕したところに、男の主人公が駆け付ける。この男は、僕から見るとパワハラ感があり、他人に対して不誠実な印象も受けて、でも自分の心の闇をパソコンの日記にしたためていたり、だけど、登場する女性たちに愛されたりする。

 それは僕のような他者から見れば、一貫してない、奇異なものに見える。
なんでこの男性主人公、こんなに女に好かれるんだ? なんでこいつ、古くからいる友人に真剣な告白をいなすような奴なのに、炎上した配信者にこんなカッコいい言葉を吐けるんだ……? 

 でもその一方、そうか、この男が、ある意味、正義やまっとうさは持ちえないまま生きていかざるを得ないんだなあと。たぶんそれが、この高校生の筆による、男性のリアリティなのかなあと解釈したのだった。告白されても、「日本語のアヤ」ということで、まともに受け止めようとしないし、それなのに、死にたさをパソコンで(つまりブログでってことなんだろう)書き止めてしまう、現代に生きている高校生の男子。そこにリアリティがあると。

 既存の脚本に描かれるキャラクターの、その健全さというのか。地獄を見てない人間の甘さみたいなものへの、ほのかな怒りを、僕は客椀から感じたなあ。そこに、創作させる原動力の、むき出しの第一歩を感じたりしつつ。
その念を、観客に、他者に、自分の世界の外側に、どう投げ、受け止めさせ、見せつけることができるのかどうか。次のフェーズはそこにあるんじゃないかなあと思った。
 自分の強い念を、外側から見たときにどう映るかを見つめながら創作をするという事。その目線はけっこう痛みを伴うと思うんよ。
 その目線でこの劇を見たとき――あるいは、人から指摘されたとき、キャラの一貫性のなさや、キャラから受ける不穏な感じ、観客が共感できない感じを、自分自身でも一つでも「なるほど」と思う所があれば、次の作品に行くことができるんじゃないかなあ。

 俳優では、友人アズサ役の俳優が存在感があって、かなりうまく、華もあったなあ。衣装もズボンタイプの制服を纏ってて格好良さがあった。感情のつながりがむつかしい部分を、俳優の力で説得させて進めてたのがよかったと思いましたよ。

④拓殖大学第一『七人の部長』。
 これは既成脚本。
 この脚本に山本がちょっと思い入れがあるのは、これが2000年の高校演劇の、たしか最優秀の作品で、この時僕は高校演劇やってる高校生だった。
 その上演をBSで見たんだよなー。

 内容は、生徒会室に、委任状を出しそびれたりで集つまった7人の部長が、生徒総会で可決される、あらかじめ決められた予算案を承認するための会議での一コマ。例年通り、ただ承認するだけで終わると思いきや……というお話。

 この作品が20年前に書かれた脚本であり、そしていまだに傑作である、という事実が、日本がヤバい証拠だなあと講評でも言った。これが傑作だと困るのだ。
 20年で、生徒を取り巻く状況、もっといえば、日本人の「あらかじめ決められたこと」に対する体質が何一つ変わらないままである証左でもある。
 この劇を見た人、演じた人は、きっとこれからの将来でも劇と似たような事があったとき、抵抗の意志を見せるだろうと思う。そういう、あらかじめ決められたものに対して、静かに心をかきたてる力のある脚本で、既に決められたことに対して、無駄かもしれないけど、それでも何か、変わるかもしれない、変えていこうと、……していこうとは思うけれど……。
 20年かあ。
 20年。20年では、この演劇を見た人たち、演じた人の力では、世界を何も変えられなかったのかなあ。

 拓大第一で演じられた『七人の部長』は、次のシーンから始まる。

 生徒会長がホワイトボードにやってきて、

【令和二年】

 と、書く。

【令和二年度・ヤツシマ高校部活動予算会議】と書かれた白板の、その【令和二年】という言葉に、すごく染みるなあと思った。
 脚本をチェックしたけど、ト書きには年号をそう描けという指示はない。
この高校独自の、演出だ。この劇は【令和二年】の劇である、という、宣言だ。
 そしてどこまで意図的にそれが意識して演じられていたかはわからないけど、これがわざわざ【令和二年】と書かれているという事は、ここに出ている部長たちの、インターハイとか大会は、きっと開かれなかったという事だ。
 予算を獲得しても、彼らが費やした練習が、例年通り花開くことはなかった。それが、去年まで演じられていた『七人の部長』とは、明らかに読み取られ方が違うという点だ。
 だが劇中はそういった事は一切言及されない。ただ白板に【令和二年】とあるだけ。
 コロナ禍によって、空白の青春が生じた、時代の一瞬。でもそこに、七人の部長は居た。今年もいた。
 今年も、あらかじめ決められた予算案について。一人の部長が異議を発したことから始まる「何か変わるかもしれない予感」「その予感が、またいつものように流されて」「でも、私たちはそこにいて、活動をしている」という、高校演劇古典的名作のストーリーが、上質に演じられる。

 演技は、この言葉が適切かどうかはあれだけれど、静かに他の高校とは格が違った。その格って何さていうと、演出が効いているという事。椅子の配置、役者が背を向けながら、計算と訓練で培った間、自然な人との距離の空き方、縮まり方。
 なんとなくでは作っていない事が、なんとなくではわからないようにできている。そして、このコロナの中、拓大第一の俳優たちの静かな思いというものを、完璧に隠して、この作品のそのものの良さを見事に上演しきった。とてもコロナで稽古時間が削られていて、ピンチな状況だったとは思えないほどの、精密な完成度だ。よくぞ、これだけのクオリティを、と思う。

 講評では一か所、難癖をつけた。
 この脚本が20年の時を経て、状況が変わったところがあるとすれば、それはオタクに対する扱いや視線だろうと指摘した。
 劇中、アニメオタクと運動部が対立をする。ところが、その運動部が隠れオタクだった……という、作中でも屈指の笑いのポイントである。
 原作脚本だと、そのアニメオタクのアイテムが『フランダースの犬』だったりして、ぬるいことになっている。そこをどう改変するか……という話というより、今の「オタク」は、果たしてそこまで笑われるものかどうか。この20年でオタクの権威が上がり、笑いの具として機能しなくなっているのではないか。
 むしろ運動部というか、クラスの一軍感のある人でも「オタク」的なものを愛好するのはそれほどおかしなことではなくなっている気がするし。むしろ、過度に攻撃する態度に対して引いたり、たしなめたりする方が、より一軍感のある運動部的ふるまいになる……ような気がする。
 劇中書かれているオタクの描かれ方が、若干ステレオタイプで古いのだ。
 ただ、古いとはいえ、ギャグシーンとしては全然通用する。でもそれを甘受しては【令和二年】の現代の話から「よくできた、ウェルメイドな高校演劇の傑作」になってしまうだろう。

 その瞬間、劇が遠くなる。ただの上手い、ただのすばらしい、別にこの高校が演じなくてもいい傑作になってしまう。

 拓大第一はオタクのアイテムとして『ラブライブ』を選択していた。悪くないチョイスだけれど、だとすれば、ラブライバーは果たして、近所のツタヤにレンタルが一巻ずっと借りられているというだけで、その巻の視聴を諦めるかどうか。むしろサブスクで見るんじゃないか。そもそも、ラブライバーは人前でラブライブの話ができるかどうか。
 振り切れた古参であろうアニメ部のラブライバーは、新参であろう剣道部に対してどんな声のかけ方をするか。この脚本の形に合わせるとしたら、どんなオタクの暴露のされ方、リアクション、振り切り、友情があるだろうか。オタクのリアクションは現代だろうか。

 拓大第一がこの劇でとった演出の運命は、一部の隙も無い完璧な【令和二年】の『七人の部長』を演じることだった。
 令和二年の、現代の感覚を、いかに「高校演劇の古典的名作」というアレに飲まれず、上演しきることができるかどうかに、掛かっているんじゃないかなと思ったのだった。
 それが、冒頭【令和二年】と書く演出が引き起こす、演じられ方の運命だろうと思う。

 その時、「すこし古びてしまったアイテムや出来事の距離感」を考慮せず演じてしまう、という、静かな傷が、この劇を「わたしたちの現在の劇」から、距離の遠い「よくできた、他人事の、いいお話」に変えてしまう。ここを、どう考えるか。

 そしてその小さな傷について、考え、演じ、新たに作り上げて見せるその実力は十分に、この高校には備わっていると思うんだよなあ。

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 初日の日程はここまで。
 長いので記事を分けます。次は二日目以降の高校についてかきます。

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