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ある日の高校演劇審査員日誌。2020年の2


 ひきつづき、二日目の感想です。

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2020/10/4

東京都高等学校演劇コンクール2020・多摩北地区B日程 二日目
⑤都立松が谷『ひよりぼうず』

 太宰治の『駆け込み訴え』を原作にした創作脚本。といいつつ、さまざまな引用がなされた、今大会屈指のヤバい作品。

 どんな作品なのかを、どう説明したらいいか……。
 見たままを言うならば、最初なんか、落語なのか、落語やってたと思ったら、高校の演劇部の二人のレズっぽい女子の話になって、演劇部の愚痴があって、歌と踊りが……影絵があって、で、なんか二人、キリストとユダなんだよ。で、駆け込み訴えの引用が……なんか……人生50年……いろいろあって、ブルータスとシーザーが、最終的にね、舞台奥の幕が開いて、血まみれの傘がバーッとね。ばーっとね。

 その瞬間、なんか山本は感動したんだよなあ。だって、月がきれいに輝いているって言ったら、雷鳴と大雨が降るんだもの。

 トータルで見ると、松が谷の俳優二人、たくさんミスをしていて、小道具がパネルに引っかかったり、パネルが上手く動かなかったり、わざわざ暗転して蓄光テープ書いた文字を見せる処で全然蓄光が光らなかったり、歌とダンスで急に自信を無くしたかすっごく小さくなったり、という事がいろいろあった。

 そして、そんなことは何一つどうでもよかった。そんなミスは何一つミスではなかった。一貫して、情念と、そうしないではいられない感じ、演劇やらなければ、どうにかなってしまう感じ。
 やばい奴。
 やばい奴が、舞台に居て、観客席にいる誰よりもやばく、立っていた。そこに僕はもう、感動しきりだった。

 多分だけど、普段の俳優の二人は、全然やばくないのかもなあと思った。普通だと思う。
 でも、舞台で、この脚本をかけてみようと思ったときに、二人は人間以外の何者かになったのだと思う。俳優になったのだと。がんばって、俳優になったのだと思う。稽古して、少ない稽古時間に頭を抱えながら。本番でも、何もかもが味方しなかった。運も装置も何もかも。でも、そこに俳優の変な体があった。変なことを言い、そうしないではいられない、この高校の人たちじゃないと2度と再現できない時間があった。僕はその貴重な時間を見た。
 すごく贅沢なものを見た。それは作品だった。

 何が作品と、そうでないものを分かつのかというと、観客に対して何か、変更してやろう、変えてやろう、何かをなしてやろうという企みがあるものを、僕はきっと作品と呼ぶ。ただ情報を伝達するものを、作品とは言わない。
 そういう意味で、松が谷高校の上演は、本大会で随一の「作品」だったと思う。で、彼らが何を企んでいたのか。何をこっちになしてやろうとしていたのか。

 それはわからない。何一つわからなかった。

 今、こうして感想を書くときに参考にして脚本読むと、結構あーなるほどって思うが、上演を見たときには本当にわからない。でも面白かった。すごくおもしろかった。それがよかった。

 この面白さをもっと開くための工夫は、いくつかある。
 ほんの少しだけ、もう少しだけ、前半で何を頼りに見ればいいのかを丁寧に、具体的には二人が高校演劇部で何かの上演のためにやってるというパートを、速度と情念を抑えて少しだけ説明セリフを足してもう少しわかりやすく見せるとか。
 序盤の早い時間で、観客に今何を見せているのか、いくつかレイヤーのある世界観の話だけど、どこが基本の世界というか、頼りにしていいとかそういう……
 そういう工夫は、別にいいや。気にしないでください。

 言葉と体を使って、言葉と体ではわからないものを、わからないままこちらに持っていく。その訳の分からなさは、人間が人間であるために必要な何かだ。
 こういうのを見ると、演劇があってよかったなあと思う。血まみれの傘が舞台を埋め尽くす中、「月が綺麗だ」と力強く発するところに、雨と雷鳴がとどろく。そこに立つ二人がある。そこにいる。そういる。無数のテキストを引用し、無数の言葉を発して、そこに居る。
 この時期、こういう風に立つ人間が、この世界にいるという事を、見れてよかったんだよなあ。

 こう書いているとエネルギーだけの勢い芝居に思われるかもだけど、決してそうではなくて。技巧的にも様々な演劇的やってやるぜ感があって、企みがあった。
 影絵、劇中劇、パネルを使った見世物小屋的なショーイングなどなど。
 それらの成功不成功はこの際どうでもいい。それらは一貫して「やばい私たち」の軸の上にあったから、見られる。
 逆に「やばさ」が消えてしまうような事――複雑な振り付けの踊りをキレイに見せようとか、歌を上手く歌おうとか、そうしたことで演じ手のテンションが下がったり、エネルギーが低下したものは、明確に失敗だと思う。上手くやる劇ではない。やばくやる劇。そこに雑になってはいけない。

 丁寧に、やばくあるこのあと、どんな風に進化をするのかどうか。なんだかわがことのように期待してしまうなあ。こういう作品に出会えて、本当うれしくありがたいなあと思った事だよ。

⑥八王子『終わらないお茶会を抜け出す方法』

 こちら既成脚本。近未来の話。戦争で極端に少なくなった男性に代わり、女性が徴兵される時代の共学高校の、また今年も行われた、立てこもり事件の話。

 第一声から俳優の声に自信がみなぎってて、それはたぶん、ちゃんと誠実に稽古したことからくる声と立ち振る舞いの明るさだった。出ていた俳優は、みんなよかった。
 異様な設定の脚本だけれど、前半部分はその暗部をなかなか明かさない。明るく楽しく陽気に、学校の何かに反抗する生徒たちが立てこもりをし、バリケードを張る。パンケーキ作ったりして、どこかのんきだ。
 その暢気さのバックでは、戦争の残滓が見え隠れする脚本になっている。と、なかなか面白い設定なのだけれど、その面白い設定は、中盤から後半ですべて口でセリフとなって「説明」されてしまう。

 俳優もものすごく誠実に、その説明の言葉に感情を乗せて、上手く、こちらに情報を渡してくれる。なまじ脚本がそうなっているので、俳優は誠実にそのセリフを言うのだけれど、設定がセリフになっている脚本では、誠実にやってしまうと、「情報が面白い」になって「劇が面白い」にはならない。

 そこにいる人間が面白くあるようにはなってない脚本であると思う。その、口で説明されてしまう所を、他の何かでできないかどうか……。例えば、同時進行で行われているらしい生徒総会がどんな様子か。その高校の窓から見える「中景」。そしてその場からは想像させるしかない「遠景」……戦争があり、地雷除去のため女性が徴兵されるという景色は、どんなものなのか。どうそれを見つめているのか。

 いっそ、言いにくいセリフ。やりにくいところは、カットしていいと思った。この高校がこの脚本を選んだ面白みの部分は何なのかを分析して、それをセリフではないところで表現するには、何をしたらいいか。言葉以外で、なにができるだろうか。
 例えばむつかしいけれど、この空間は「少数になって保護されている男子生徒」と「徴兵される運命にある女子生徒」が、狭い空間で立てこもりを実行している。その少数派の男子は、「徴兵反対」を生徒総会で発言するような奴だ。それと、狭い教室に立てこもっているときの、その空間。立ち位置。離れ方。
 あるいは「徴兵」「戦争」と言った言葉が、もはや日常のものになっている世界で、どんな話題になったら言葉を詰まらせるかどうか。

 例えば私たちは2011年に、言葉を失うような経験をした。あの日からしばらく、天気予報では放射能の濃度が報道された。放射能というものが日常になった世界がある。それから数年経ち、今度は未曽有のウイルスによって、人々は学校に通うことが禁じられて、マスクをつけることがなんとなく義務になり、テレビのバラエティ番組ではアクリル板があることが普通になった。
 異常な世界で、異常な空間のはずが、日常になったとき。わたしたちはあたらめてコロナのことや、震災の事を話すとき、どういう風に、どんな状況で口にするか。あるいは、口にできないか。
 コロナに罹患した家族がいる人と相対するとき、どんな緊張感が走るかどうか。震災で知り合いを失くした人に話しかけるとき、どんな距離感で話しかけたかどうか。

 おそらく、説明台詞のような言葉は、最も口にしないと思うのだった。
 劇中の、自分の母親が地雷で亡くなった話をするときは、では、どんな風に切り出すか。はたしてあんな風にしゃべるかどうか。

 脚本にはそう書いてある。そう演じてほしいということなのだろう。
 そこに、体がどう抗うか。脚本にリスペクトする部分とは別に、脚本はいつだって過去で、現在はものすごい勢いで更新され続けていて。
 テキストをどう発話するかはこちらの「演出」次第であると思う。演出が、足りなかったのではないかな。俳優の上手さで、それを乗り越えてしまったところがある。

 テンポもよく、すごく情報は見やすく、演じてる喜びや、明るさも伝わるし、何か深刻な問題や、設定の面白さもよく伝達される。
 それを、超えていくのが演劇だと思う。情報を超えた面白さが、生身の人間で演じられる必要のある演劇の特性なのだと、僕は信じている。

 俳優は、出番少なかったけど生徒会長の役の人が妙に存在感があったなあ。あと基本的に、男性役が男性役に全然見えなかったけれど、柔道着? ぽいものを着ていた男役やってた女優はなんか見ちゃう。上手さ的には直線的すぎて細やかさはないけど、なんか見ちゃう感じがあったなあ。

 あとこれだけ人がいたら、創作劇やりたい人がいるんじゃないだろうか。アテ書きしていくたのしさというのもあると思うんだよなあ。でも今回は稽古の時間が少ないというのもあって、手が出しにくかったのかもしれない。
いい脚本に出会えたら、きっといいチームになるんじゃないかと思ったところです。

⑦成蹊『恋歌』

 こちら顧問&生徒創作。お話を伺ったところ、大枠を先生が作り、それを生徒全員で作っていったとのこと。まさに今、というモチーフが随所に用いられている。

 とにかく最初にドキッとしたのは、登場人物がまず全員マスクをつけていたそんな彼女らが何をしていたのかというと、「自画像」を絵に描いている。基本的に4人の女子生徒が、時とシチュエーションをかえながら、ただ会話している。その隙間に垣間見える現在と、不変のものを見せる試み。

 あらためて脚本を確認したけど、この序盤のマスクをつけているという指示がなく、稽古の過程で付け加えられたアイデアなのだろう。2020年の現在(脚本上では2019年の年末と指定はあるけれど)、ごく当たり前の光景なのかもしれないが、マスクをつけることが当たり前の中で、自分の顔を絵にする異様。
 絵の中の自分は、マスクがない。あるいは、マスクをつける部分がまだ描かれていない、みたいな(……感じだったんじゃなかったかな? 記憶うろ覚えで申し訳ない)そんなスタートを切りつつ、ある日の、ある時の、ある瞬間の、どうでもいい、何でもない4人の女子の他愛のない会話が、演劇として閉じることなく丁寧に演じられていてで、不意に……不意にですよ……小野小町が乱入してくるわけです。
 ごく自然に小町が入ってきて、そこにリアクションするわけでもなく、小町が4人と会話する。もちろん伏線に百人一首部の練習の声が聞こえたり、平安時代の女性の話題もあったりしたけど、そこに演劇のワンダーを使っていて、そこにいちいちツッコミ入れるでもなく、実にシームレスに女性4人は紫式部、清少納言、和泉式部、赤染右衛門になったりする。その速度感と、俳優の身体を通してつながる、現代の女性と古典の中の女性がリンクさせる演出は面白かったなあ。

 ただ、その一番のワンダーというか、古典女性のシーンは冒頭から中盤にかけてのワンシーンにとどまる。舞台内時間がすすむと、生徒4人の日常の話に戻るが、その古典女性との関りが「恋愛の歌を歌っていた」というわずかな部分にのみリンクするような。物語は一人の女性の恋愛の話へ帰結していく。
 作品全体として見たら、古典の中の女性の引用が、「今も昔も女性は恋愛をして、恋愛の歌を歌う」という部分にのみしか効いていないのではないか。そしてそうした引用のされ方をしたら、多分、引用された清少納言さんはけっこう怒るんじゃないかなあ。あいつ面倒くさい奴だぞ。

 講評では、「女性というものの描き方がアップデートされていないのではないか」と言ってしまい、あとあれだ、引用された古典の女性や、その短歌たちが、国語の資料集以上の解釈がないまま演じられていたんじゃないかなあと思った。
 すごく、「他人に見せる用」として造形されてた……というか……いや、演劇って、他人に見せる用に作るわけだけれど基本は。それがずいぶん余所行きの服を着て、誰でもアクセスできる学術検証済みの情報を使い、なるべく間違いがないような、そういう情報の見せ方……「教師が生徒に情報を見せるような」演じられ方をしているように感じたのだった。
 そういう目で、現代の女性を、「高校演劇で演じられる」という目を意識した、ある意味とても安全なところから切り取った女性の描き方、古典の引用のされ方に、悪い意味でのフェイクを感じてしまうなあと思ったりする。
それを演じて、安全で健全なところから表現をするというのは、安全のための食品添加物を食品を大量に体内に入れているみたいな事になるんじゃないかなと。

 引用された4つの短歌はいずれも百人一首にも選ばれているすごい短歌だけれど、それを単に「古典の女性も恋を歌っている」では済まされない、壮絶な歌だ。和泉式部の『あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな』。劇中でも軽く説明セリフがあったけれど、「この世のほか」なのだ
 この世界の外側……普通には「死」という解釈になるけれど、それを「あらざらん」、あれない、そこに居られない、そんな「この世」の「ほか」なんだよなあ、という事。
 この歌は、記号的に「恋愛の短歌だー」と引用されべき恋歌かなあ、と、ついこう、短歌好きとしては、うーむ。うーむ。演技は丁寧なのに、こうした引用に対して雑いなあと思ってしまう。
 や、引用した短歌の演じられ方扱われ方にケチをつけるなんて、微細なところを言っても、と思うけれども、でもなあ、この劇の最大のポイントでもある、「女性が今も昔も恋をして歌っています」の引用ポイントに、教科書解釈以上の作り手の念というか、いわば、「誤訳」とか、引用したかった熱量みたいなものがないとなあと思ったのだった。

 演技、演じられ方、現代を切り取る部分や舞台美術の使い方など、極めて高い水準であり、「高校演劇」としては高く評価できる分、だからこそ、丁寧で、安全に、よくできたものを、ただ素晴らしい、とはしたくはないと思うのだった。
 女性四人の演じ方もそうで、きわめてよく練習しているし、見やすいし、キャラクター分けも上手くいっている。でもどこか、「他人に見せる用」……言い換えれば「地元の親戚に見せても安心用」みたいな空気がある。自分の内側から出てきた見せ方ではなくて、外側の目を最初から意識されたような見せ方。
 演劇や表現を、そこからスタートしないでいいんじゃないかなあと思うと同時に、もっとこれ、本物か? 本心か? 自分自身が演じないではいられない事だろうか? という事を問われる領域に、この高校の水準が達しているという事でもあると思ったのだ。

 演じられていた現代の女性たちも、今、ただ恋愛できるような状況ではなく。それは古典の女性たちもきっと同じで。古典の女性たちはそれを文学の力で切り抜けた。当時最新の表現ツール「ひらがな」を用いて、千年残る詩を残した。この劇では、そのあたりを詰められることができたんじゃないかなあ。
 ……と、強めの言葉で語っているけれど、同じく同地区で審査員をされていた千田さんからは「高校演劇としてとてもよくできていた作品」と講評でも言っていたように、とても丁寧に、構成や演技もしっかりとした作品ではあった。だからこそ、多分力が入っていろいろ語ってしまうのかもなあ。

⑧都立福生『百万年ピクニック』
 こちら成井豊+成井稔の既成脚本。紙芝居屋の物語から、どんどんフィクション内世界の階層が迷路になっていくメタフィクションの趣のある作品。
 演劇にとって「間違えないようにする」というのは、どういう事かなーというのを、この高校の上演を見ながら考えていたのだった。脚本やセリフを、間違えないよう、一つ一つ、正確に、そして、迷惑をかけないよう、一生懸命演じているのが伝わったのからだ。

 後に脚本と照らし合わせて確認したんだけれど、細かなところを脚本のト書きに書かれている通り行い、小道具を用意し、演技を演じている。
 逆に言えば、脚本に書かれていない事……他の人が演技をしている最中、自分はどうあるべきか、どういていいか、とかは、大いに頭を悩ませているようだった。

 この「間違えないように」「他人に迷惑をかけないように」という指針は、演劇において、最重要なものではない。
 演劇は、もっといえば、本来的には迷惑なものだ。演劇をやろうと選択すること、やってしまうことは、変な言い方だけれど、「大間違いをすること」だと思う。

 脚本は素敵な内容である。幻想的で、楽しく、そしておそらく本来は脚本の外にあって書かれていない部分……豪華絢爛な衣装、舞台美術、しかけ、俳優の「物語世界なんだからかましてやるぜ感」などで、この戯曲は機能するんじゃないかなあと思ったのだった。
 白地図を、いかにカラフルにしたてるか。その白地図に、都立福生は真面目に線をなぞってしまったような印象であった。

 これはきっと、演劇というものの楽しみ方……もっと言えば、間違ったことをする楽しさ、人に迷惑をかけてまでやってしまう、やらかし方を、まだ知らない人たちなんだろうなと思った。まじめで、ただしくある人たち。その真面目さが「間違えないようにセリフをきちんという」「人にちゃんと見ていただけるように失礼にならないように舞台に一列に立つ」「他人がセリフをしゃべっているときは邪魔しないようにして、最後の「。」があってから動く」という部分になるのだと思った。

 おそらく演劇は、そういう所にはないのだった。という事を、本人たちがよく分かったんじゃないだろうか。そしてこういう体験を僕はしてほしいと思っている。コロナもあり、舞台美術に制限があるから、舞台上には搬入が必要な美術はおけない。素の舞台。数個の箱馬以外、ほぼ、何もない舞台。何もかも自由で、何でもできる空間で、何でもできる脚本で、これほど自分にできることがない、という事を、肌で分かったんじゃなかろうか。

 動きたいのに、からだが動かないとはどういうことなのか。練習はきちんとしているのはわかる。でも、練習の段階から、きっと違和感があったと思う。この高校に、「演出」という概念……というか、もっと言えばシンプルに「場違いで、頭のおかしい、人に迷惑をかけるような変なことを言う人」が座組に一人でもいたら、変わっていたんじゃないかなと思う。
「間違えない」でなくて、「変な事」を最優先にしよう、という、たった一人だ。何でもできる世界で、何もできなくさせているものは何なのか。

 一人ひとりは誠実で、中には異様にいい声を持つもの、動きに華やかさのある者もいた。ただ、そういう……いわば「才能」や「資質」を、100パーセント解放させなかった何者かがここいた。魔物がいた。きっとそれは、こんな世界でも上演にこぎつけたという大変さの中で出会えるものじゃないかなあ。
 その魔物を、よく見ることから始めてほしいなと思ったりした。抽象的だなあ……。つまりですね、「演劇をしよう」が、「間違えないようにしよう」と思い込ませてしまうものは何か。誰かに怒られるようなことはしない、あるいは、間違いは恥だ、と自分で自分を律してしまう、その「律し」が、いろんな動きを止めてしまってるんじゃないかなあと思うのだ。

 自分の身体に制限をかけてしまうものを考えて、そこをどうにかすり抜けた先に、演技というものが出現するんじゃないかなあと思う次第。ただその「間違えないようにすること」という機運は、今ものすごく……世の中を覆っているんじゃないかなあと、劇を見ながら思ったんですよなあ。

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