見出し画像

ジエ子さん。第9回

 それで、と言っていいのかわからないけれど、私はあれから仕事に行けなくなってしまった。いけなくなるのは本当に一瞬だった。ぽっきりと、何もできなくなって、起きれなくなって、朝が朝じゃなくなってずっと暗くて会社から電話がきて、電話に出ようと思うと心臓がドキドキし、はい、以外言えなくなってしまって。

 母親が私の部屋に来たのは、会社に行けなくなって12日くらいだと思った。母は合鍵をつかいスッと部屋に入ると、寝たままの私に声をかける事もなく、まずゴミを捨てだした。私はただ寝ていただけだからゴミは出ないと思っていたけど、そんなことはなかった。ゴミはぱんぱんの3袋になった。私は、あ、分別しなきゃ、分別しないとゴミをすててはいけない、地球のためによくないと思っていたけれど、母は意に介さず、明らかにゴミの物を袋に入れていく。まだ使えるかもしれなかった紙コップ、紙皿も捨てる。割りばしも捨てる。会社に行けなくなってから箸やお椀を遣えなくなってしまった。洗う事を考える気の重さに、コップを使う事が耐えられなくなったから。

「わたし、別に大丈夫だよ」

 掃除がひとひと段落し、窓を開けた母に、私は上半身を起こしてそういった。母は何も言わず、タバコを取り出し、窓の向こうに煙を飛ばす。煙の向こうに住宅街があり、街路樹がある。街路樹の向こうは極端な段差のある場所になっていて、その下にも向こうにも街が広がっている。その街の遠くに、東京がある。

「いいよ」

 と母は言うと、灰を携帯灰皿にちょんと入れた。

「いいのよ」
「……なにが」
「がんばらなくったって」
「わたしがんばってない」
「だから、いいのよ」

 そういって母はぼんやりし、手提げバッグから封筒を出すと、こたつ机の上に置いた。お金だ、と思った。

「え、なに、やめて」
「何が」
「それじゃ、わたし本当にだめになるから」
「……」
 いや、もう、なっているのか。だめに。
 母の顔は見れない。だから母が今、どんな顔をしているのか、わからない。
 わたしは、成人して、人に迷惑をかけ、大金を親からもらうような、一番なりたくない自分になってしまっているのか。
 と同時に、お金をみて、安心した自分がいる。母親が来て、部屋がきれいになった。母の姿を見ても止まらなかったざわざわが、封筒にそれなりの厚みのあるお金を見た時、確かにわたしは震えが止まって、つまり安心したのだ。

「だったら、お金、生活以外に使いなさい」
「だめ」
「あなた、どうせ貯金あるでしょ。でも、生活以外に使ってないでしょ。……せっかく東京に居るのに」

 何を言っているんだ母は。

「男にあげるでもいいよ。なんでもいい。少し休んで、体調良くなったら、使いなさい。それでどうしても思いつかないんなら……引っ越し費用にしなさい」
「引っ越し?」
「帰るのよ」

 そういうと母はふらっと出ていく。
 わたしはこの母に育てられた。学生の頃、母には申し訳なさしかなくて、それで反抗ばかりしていた。愛想なんか出せなかったし、感謝しかできないような感じになるのが、本当につらかった。ずっと不機嫌で、申し訳なくて、死にたくて、死にたいと思う事すら申し訳なく、体一つ傷つける勇気もなかった。一人暮らしを始められて、ようやくわたしは、反抗しなくてもよくなった。自由だ、と思った。

 母は帰り、残された封筒には30万円入っていた。
 あの会社の手取りベースで考えると、2カ月分。そのお金が、不意に出現した。貯金はある。100万円ある。100万は溜まっていた。それを確認した時、わたしは「あ、100万」と呟いていた。100万円って、存在するんだ、と思った。私は稼ぐことができた。溜める事が出来た。
 だから、なんだったんだろう。今こうして、30万手にしている。
 わたしが東京で働いていた2年間は、いったいなんだったんだろう。

 ・・・・・・・・・・・・・

 会社はそれで、休職ということになった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 サリーからラインが来ていた。サリーはどうもぼんやりと、わたしの体調が上手くいかなくなっている事を知っているっぽかったが、それをうまく隠しているかのような、何気なさを装ったラインだった。申し訳ない。そして、そのわたしが迷惑をかけている感じが気に入らなくて、不機嫌になり、携帯を投げる。でもしばらくして文面が気になって、ラインを開く。

「やすえに、演劇見てほしかったんだよなあー」

 何通か、ラインは来ていた。そのどれもが観劇の誘いだったっぽい。
【29日13時あいてる? 吉祥寺】
【王子って場所わかる? 京浜東北の。3日夜暇?】
【眼科画廊っていう新宿しらん? 丸椅子とか長時間ok? てか10日なにしてる?】
【13なにしてる? 渋谷っていうか駒場東大前夜暇?】

 なんでこんなにサリーはわたしに演劇を見させようとするんだろう。

 もし、私が元気でも、わたしはサリーの誘いには乗らなかったと思う。
 まず、暇はない。今日暇でも、明日の朝にはわたしは会社に行かなくちゃいけない。そのために、夜に疲れていたら、きっと会社でそれを引きずってしまう。ただでさえわたしは仕事が出来なくて会社に迷惑をかけている。せめて元気でいなくちゃいけない。生理が重い人っていう空気を出してしまって皆に気を遣われて、その気遣いに腹立たしくなって、不機嫌な顔を見せるわけにはいけない。だから、休みの日は休み以外の事はきっとできなかった。
 それに、知らない場所に、遅刻せず行かなくちゃいけないとか、とても自信がない。その場所が「劇場」だなんて、すごく恐ろしい。そんなところに行って、わたしは浮かないかどうか。受付の人が怖い。わたしみたいな人が演劇に行って、変な風に思われないかどうか。そして演劇の内容が分からなかったり、理解できなかったらどうしよう。みんなが笑ったり、感心している中、わたしひとりがわからなかったら。
 そのわからなかった事に、何時間も費やして、疲れる自分に、きっと失望して、悲しくなって、不機嫌になる。良かれと思って誘ってくれたサリーにもきっと申し訳なくなる。

 だから、わたしは演劇にはいけない。

 まして今、大丈夫じゃなくなって、会社員でもなんでもない、ただ東京の近くに住んでいる人、になってしまった私に、演劇を見る資格はないんだろうな、と思った。
 今、わたしは、昼間、人がいて集まっているところにはいけない。
 本当だったら会社がやっている時間に、外には出られないなと思う。そんな余裕があるなら、会社に「休職してしまって申し訳ありませんでした本当に申し訳ありません抱えている資料というか全然作ってないですけど先方からいただいた資料はこちらです本当に申し訳ないです」というメールを送るべきだからだ。

 【わたしは演劇にいけない。】

 サリーにそう返信をして、わたしはまた、布団の中に入った。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 起きて、水を飲む。ややあって、こたつ机に置かれたままになっている封筒からお札を出す。お札をさわる。。
 お金を触って、安心してしまっている自分がかなしい。
 たしかにこの額があれば、わたしはここに、2カ月はいられる。
 でも、その先は?
 そもそも、ここに2カ月いて、どうなる?
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 夜。上着を羽織り、部屋を出た。
 封筒から一万円札一枚を抜き取っていた。持ち物はそれと、定期の入ったパスケースだけ。
 パン屋はシャッターが閉まっている。街灯がともる街。雨上がりだったのか、水たまりがあちこちにあり、街灯はそれに反射している。
 駅に向かう。定期は切れている。Suicaにお金をチャージする。少しためらったが、一万円札を入れ、2000円だけ。
 電車を待った。西武池袋線・池袋行き。職場の方面だ、と意識すると、ズッ、と心拍数が跳ね上がる。

 でも行く。
 
 がらがらの各駅停車に乗り、座席に座る。
 対面の窓は夜の闇で、鏡みたいになりわたしの姿を反射する。
 気持ち悪い女がそこにいる。マスクをし、フードを被り、黒のスエット。男だったら犯罪者か痴漢か不審者だ。ぎりぎり、きってない長い髪の毛だけが女であることを示していて、でも女だからこそ痴漢と思われないだけで、だから女であるわたしは嫌だ。男だったらとっくに不審者で外なんか歩けない。女だから。だから夜、この格好をしてあてがなく歩いてもいい、みたいな、甘えが、わたしには許せない。不機嫌になる。わたしはわたしが許せない。憎しみがある。でも、わたしは外に出た。部屋の中にいると、多分わたしは、自傷するかもな、とおもったからだ。

 終点の池袋についた。人がそれなりに降りる。向こうのホームはJRの山手線であり、多くの仕事帰りの人々が電車に乗り込む。ズン、とまた心臓が圧迫される。わたしは会社に休職のメールをおくらず、迷惑を今もかけている。
 うめき声が出そうだ。でも我慢した。わたしにうめき声を出す権利はない。

 池袋は東京だと思った。わたしは池袋にやってきた。
 理由は特にない。が、「わたしが東京に来るのは、今日が最後かもしれない」と思った。母の元にいたら見る事が出来なかった東京の最後を、わたしは見たかった。改札を出て、地下通路を歩く。普段は使わない出口から出ようと思ったら、ほうら、もう迷った。わたしは地下通路を歩く才能もない。
 普通の会社勤めをする同世代の女子は、きっと簡単に地上に出て、目的地に行くことができるだろう。そういう同世代の女子の頑張りで、現代日本の女性の地位は少しづつ向上してきた。でもわたしみたいなダメで、弱くて、母親から金を貰うような奴がいるから、会社に居る太一さんや社長に気を遣われ、保護され、女性の地位向上を頑張っている人達の努力を無にするようなことになっている。会社では今頃「女子だから突然休職するんだよな」って思われているに違いない。本当にもうしわけない。そして腹立たしい。地上はどこだ。殺すぞ。

 やっと地上に出た。池袋西口だった。
 わたしにとって池袋は東口で、サンシャインがあり、アニメイトがある街のことであり、西口の事はまるで分らない。東武東上線やら東武のデパート? の青いラインであしらわれて、モザイクタイルの噴水のある空間。そこからエスカレーターで出た池袋西口。見慣れない空間。ここはなんだ。

 ロータリーがあり、そんな開けた場所を見ていたら死にたくなるので、ダメな方へダメな方へ行きたくて、横断歩道を渡る。ゲームセンターのピンジャラピンジャラする音に靴をぶん投げたくなるほどいらついて、早足になると、変な空間に出た。

 広場だ。また噴水がある。

 よっぱらって倒れている人。座って語り合っている外国人。酒缶もってる若者。ホームレス。何もしてていないやつ。女性は少ないか、とおもったが、おばさんがいた。おばさんがベンチっぽい銀のところに3人座っていて、何もしていない。

 わたしはここなら、座ってもいいかもしれないと思った。座れる場所を探す。人はまばらなのに、座ろうと思うと、なかなか座れる場所はない。いや、あるんだけど、わたしが座っていい感じの、人の圧の切れ間が無い。

 しばらくさまよっていると、像の奥の空間に、建物があったのが気になった。サービスエリアみたいな休憩所みたいなところかな、とも思ったがちがった。

「東京芸術劇場」

 劇場だった。
 床のタイルの模様が、その入り口に向かって、何重にも輪になっていて、その輪の中心にその劇場の入り口があった。
 わたしの友人が、わたしに気を遣って、何度も何度も誘ってくれた場所。でもわたしは、ここに行かなかった。いけなかった。

 人がまばらに出てくる。わたしには、ちゃんといい服を着て、ちゃんとした人が、ちゃんと感動とかして、ちゃんと駅の方に向かって帰っている。そんな風に見えた。

 わたしは、ここに入れないなと思った。
 わたしはちゃんとしてないし、それに、今のわたしは、感動とか、できないなと思っている。
 憎悪ばかりしている。お金を触って、安心してしまっている。
 歌集や短歌を作っていた、ちょっと前の、こんな風になるとは思っていなかったころなら、ギリギリ、入れたかもしれない。
 でも、今の私には絶対にこの中に入れない。
 入ったら、劇場の中の人に、わたしは迷惑をかけてしまうだろう。気を遣われてしまうかもしれない。気を遣われたら、わたしはわたしにいら立って、不機嫌になってしまうだろう。他のお客さんにも迷惑をかけてしまう。劇をやっている人も、わたしみたいな人に興味を持たれたら、きっと嫌な気持ちになるに違いない。

 ロビーから漏れる光は、雨上がりの夜にやさしく思えた。入り口から漏れる空調の温度が、風に乗ってわたしのほほをかすめる。中に入れば、きっと快適な温度だろう。

 でも、わたしはいけない。わたしにはとても入れない。わたしは、演劇のお客さんに、絶対になれない。

 わたしはしばらく、東京の、池袋の、西口の、劇場の前に立ち尽くしていた。
 どうすればいいかわからない。どうすればいいかわからない人が、座れる場所は、いま、どこかにあるんですか。
 地元には絶対にありません。すくなくとも、わたしの知っている範囲では。
 そういう場所があるなら、とにかくわたしは今、すわりたい。
 すわりたいです。

 わたしを、座らせてください。わたしは、目をつぶるのもつらいです。
 寝る以外で、座れて、わたしがいらいらしない、誰にも迷惑をかけない場所を、だれか。教えてほしいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?