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ある日の高校演劇審査員日記 2021年夏 その1

2021年夏2021年6月19日と20日……

 山本はまた、高校にきておりまして、東京の……東京都の高校演劇の「城東地区」の、新人デビューフェスティバルという、短編演劇大会の審査と講評をやってまいりました。で、それの感想を当日ツイッターしたんですけれど……。
 当日は汗だくだった。異様な、汗だ。汗だくで講評してしまって、なんか清潔感なくてもうしわけなかったなあ。汗まみれで劇の感想をぺらぺーらしゃべる人に、当日なってしまってたなあ。

 クローズドな会で、他者として劇をみるのは僕だけぽい。そして一人審査員……。1日ごとに、「最優秀賞」、「最優秀新人賞(男女1名づつ)」「創作賞」「優秀校(複数)」といった賞を……一人で決めてしまったという……。ほんとう、あらためて、重要なことをやらせてもらいました。

新人デビューフェスティバルとは

 この形式のコンペテイション? は東京のこの地区の高校演劇の独自の催しなのかな。20年前に埼玉県の高校演劇部員だった僕は経験した事のないやつ。
 目的はその地区の「新人」、主に一年生のデビュー舞台用の大会として、20分の短編の作品を、午前と午後で、休みなし、一気にやる。それが、2021年6月19日と、20日にと。

 コロナの影響もあり、午前午後入れ替え制で、午前には6校、午後には5校が上演した。午前組午後組は、上演した後とする前、客席に居て、演じるときに舞台に出て上演する。
 テクニカルは最小。照明はオンオフと簡易な操作のみ。音響はラジカセ+スピーカー。美術は高校にある机などを借り、あとは手持ち。

 テクニカルの事前チェックは、なんと全体の上演前に「トライアルタイム」ということで各校2分……2分! 場当たりの時間が与えられる。2分! ……すげえなあ。全体のトライアルタイムが終わったら、短編演劇がノンストップで上演されることに。

 それで、午前の部、午後の部と上演が終わったら、少しの片づけタイムの後に講評と、生徒審査の結果発表するという、なんとも凝縮した密度の濃いイベントだった。
 参加した部員の人たちもさることながら、運営の顧問の先生方の奮闘には本当頭が下がる。聞けば、昨年はコロナのせいで出来なかったのだという。

 そして今年も、コロナの中ということで厳重なオペレーションのもとやられる。
 特に大きかったのは、俳優も「マスクの着用」が必須だったこと。これは本当に苦渋の決断だっただろうけれど、それでも、開催出来てよかったと思う。

一人審査員はとても怖い

 そんななか、まあ今回も、各校の感想などを書かせてもらおうかなあと。そう、なんというか、本当に怖い事に、何回も言うけど一人審査員だったんですよ。これはすごく、怖い事です。つまり僕の講評に対して、相互チェックというか、監査の人がいないんだよなあと。自分で自分を監査しなくちゃいけない。
 複数人の審査というのは、もちろん価値観の多様性の確保っていうのもあるけど、同じくらい、いざとなったら「その講評、おかしいんじゃないですか?」という事を指摘するためにいるのではないかなあと思った。権威を分散させないと、もし力が歪んだ時、その歪みを指摘できないのではないか。

 今回の場合、地区の「祭り」の要素でもあり、審査員確保の予算の関係もあるのかもしれないけど、本当、一人審査は、僕自身が強く自制せんとなと思う。
 強大な力を持っている。オーバーなと思われるかもですが、演劇部が様々な奇跡を積み重ねて持ってきた公演に対して、最優秀を決めるという権限。
これは、こわいことだ。

 そして自分でも怖いのは、多分講評の時間、俺相当、のってるというか、熱を込めて話してしまった。高揚していた。自分自身で自分を評するなら「自分に酔っていた」ような語り口、しゃべり口だったのではないかと反省している。
 正直、とても気持ちよかった。これは、とても怖い事だ。……やー、絶対そうだった。絶対、山本は自分に酔った講評をしてた。気をつけなければいけない。絶対に気をつけなければ。誰からも反論や、異なる意見が出にくい中で、持論を一方的に述べることができてしまう空間で、気持ちよくいてしまうのは、本当に怖い事だ。気をつけよう。

 というわけで、自分が語ったことを世間にもジャッジしてもらうためにも、そして、コロナの中、演劇を初めてやったという人が、どういう演劇をしていたのか。ここに、演劇があって、唯一の「他者」であった僕がそれを見、ここに居ましたよ、という事を込みで、メモをもとに講評した内容を書きます。

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午前の部①【都立淵江】『友達の作り方』

 生徒創作。カラオケ屋に集まった「そんなに仲が良いわけでもない」5人。実は生徒の一人が全て奢りで遊んでいるというのだが……というお話。

 キャラの強めの6人のキャラが、集まったカラオケ屋でひたすら個性むき出しに展開する、というコメディ。
 特に笑いをかっさらっていたのはずっとメシの事ばかり考えている男子が、ケンタッキーのバーレル抱えながら常になんか食っているのは、単純すぎるほど単純なんだけど面白かったなあ。

 話のログライン(1行あらすじ)をまとめれば、「奢ることでで友達をつくろうとするやばい生徒の話」になるんだけど、その中心線がどっか行ってしまうくらい、一人一人の個性が強い。ただ講評で言ったのは「一人一人が一人で面白いことをやっている」ように見えたという事。個の力はある。けれど、それらが一人で、おかしいことをやっているように見える。
 1+1の面白さになってしまっていて、掛け算の面白さになってなかったんじゃないかなあ。
 個々の面白さは申し分ない。それに対するリアクションであるとか、「この頭のおかしさと、この頭のおかしさが結びついたらどうなるか」みたいな工夫があれば、より頭がおかしくなれたんじゃないかな。

 もっと言えば、お話し全体に、その頭のおかしさ……キャラの個性を絡ませられることができれば、より意図をもった「作品」になったとおもったりなんだり。
 や、いかんせん上演時間が「20分」なので、キャラを開いていることに費やしてしまいがちで、しかも楽しく演じられていたりして。笑いも大きかった。
 そこに、なぜこの6人のキャラが必要だったか、なぜこの6人を、この高校の6人が演じなければならなかったか、演じないではいられなかったかという「演出」が入ったらいいなあとおもったりして。
 それでも個々それぞれ、よかったなあ、一人一人、発していたもの。自分の面白さはこれです! が伝わってきたんだよなあ。

· 俳優としては、鉢巻きした歌うたってる女生徒を演じた人が、とにかく冒頭から観客を引き付けて、劇を「笑っていい空気」に持っていくことができてとてもよかったです。
 朝イチで、全体を通したトップバッターで、まさにこの人が今日全体の大会の口火を切る強いエネルギーをもっていてよかったんだよなあ。

午前の部②【順天】『ペペペッぱー』

 こちらも生徒創作。「どんな人でも助けてしまう」女の子を好きになってしまった男子生徒が、魔王と出会ってなんかいろいろするが……という話。

 で、ペンギンやら忍者が出たりして、最終的にOLが勇者で女の子が天使で、魔王の呪文が「ペペペっぱー」で、総勢15名がカオスになり、最後は男の子が目を覚ましデビューフェスティバルの台本どうしようかなーというね。先に続いて登場人物全員頭がおかしいという、とても素晴らしい事だなあと思った。

 これは実に構成が優れていて、最初はわりとリアル目に学生の立ち話から物語はスタートするのだが、話題の中で「何でも助けてしまう女の子、こんな人まで助けてしまう。さてどんな人?」みたいな大喜利的構成であると。
で、おばあさん→ペンギン(!?)→忍者ときて、その後に魔王が現れるという。おもしろい登場人物をどう出そうかという時に、とてもいい階段で、計算された登場のさせかただなあと思った。
 その「変な人出てくる展開」で、序盤から出ていた女の子が天使で、魔王と戦う、みたいなひっくり返しもとても見やすく素晴らしい。

 全編笑いの舞台なんだけれど、とても安心して見られるのは「助ける女の子を好きな男の子」を縦軸に、その男子がリアクターとしてとてもいい受け方をしていたから。一人一人面白いという事を、その男子のリアクションを込みで、時に変なリアクションで人物の魅力をより引き立てているのもいい。

 ただ、右肩上がりで変なことが起き続けているので、少しでもネタの強度が弱かったり、説明や情報を伝えるシーンになると、ふっと面白さが途切れてしまう。
 あと、とにかく呼吸というんでしょうか。面白さの呼吸、間合いが、冗長なところは、たとえ面白い言葉やシチュエーションでも、今一つだったり。

 そのウケたところ、反応の良いところと、そうでもなかったところをよく検証していくと、自分たちの面白さを、ネタではなく、身体と発話、演劇、速度で、どう伝えられるかがより考えられるんじゃないかなあと思いました。
 なによりお客さんの前でつかんだ生の手ごたえが、今後の財産になる。

 俳優としては一人一人、ちゃんと狙いに行ってる感じがありとてもいい。それをしっかり受けて、リアクションし、話の軸になったよしお役が全体を支えていてとてもよかったなあと思ったりしました。
 なにより強い構成が作れたのがよかった。この高校が1時間ものでも、どういう作品が作れるのか期待したいところです

午前の部③【日大第一】『ちょっとひといきあまやどり』

 こちらは既成台本とのこと。馴染みの客となれなれしいマスターのいる喫茶店に、雨宿りに来た少女が入ってくるが、少女は何か悩みを抱えていて……というお話。

 登場人物の少女は「母親が再婚して新しい父親に会う」ということに、もやもやした悩みを抱えている。それが、偶然入った、妙にあたたかな空間の喫茶店の人々と、「コーヒーは美味しいけど、味は今一つなパンケーキ」に触れて、前向きになるという変化なんだけれど。
 変化、その変化が20分でどう描けるか

 そもそも、自分の悩みを見ず知らずの人にどこまで口にできるだろう。
主人公の少女が悩みを吐露してしまうところに、「20分で演じないといけないから、口にさせてしまっている」というようにも見えてしまった。ともすれば劇の 都合で、登場人物が動かされてしまう感じにも。

 それはなぜかと言えば、人は容易に変化しない、変化できなさというのを、私たちが普段から実感しているからではないかなあ。だからこそ、ドラマという嘘の空間では、変化させたいというのもわかる。でも、ドラマの中にも、実在はしないだけで、人間がいる。私たちと同じ感覚の人間がそこにいる。

 その人間に、20分という実時間を伴う劇で、どこまで変化をさせえるか。それ以前に、全くの他人に、自分の話をしえるかどうか。むつかしいんじゃないかなあ。自分の家庭事情を話させるという事すらも。
 しかしそこに、奇跡を起こすとしたら、どこまでできるか。僕の感覚だったら、せめて「母が……」の一言くらいまでだったら、口にさせることはできると思う。そしてそれ以上の情報は、観客に想像させてもいいと思った。

 劇の登場人物だからと言って、何でもかんでも話をさせていいかどうか。劇の都合で、劇だから、演劇だから、フィクションだからという理由で、劇中人物の内面を明かしていいというわけではないんじゃないかなと思った。「観客に伝えるため」という理由で、登場人物に情報を口にさせたら、その人は「人」ではなく「情報」になってしまう。

 観客のために、と、情報を伝えても、観客はその情報で感動したり、納得したりするわけではない。
 劇にとって「情報」を伝える事は最優先ではない。そうした情報を持った俳優の演じる「人間」を見せることが、この種のドラマで優先される事なんじゃないかなあ。

 だからこそ、20分という実時間が流れる中で、出来うる「人物の変化」は、どこまで可能か。何をすれば、どこまで変われることができるか。情報を見せることができるか。
 ではこれが1時間なら。1時間という空間なら、どこまでできるかどうか。

 俳優はみんな誠実に稽古していたなあ。いい空気、優しい空間を作ろうと努力していた。
 けれどそこでもあえて言うなら、最初から「優しい空間」を作ろうとしすぎでなかったなあ。優しい空間を作ろうとするのではなく、結果、優しい空間になった、という風に作ってもよかったのではないかなと思った次第。

午前の部④【都立橘】『幕をあげる』

 こちらは顧問創作。アイドル同好会(部ではない)の初ライブが、"コロコロウイルス"の影響を加味した学校の事情でできなくなってしまい……という話。

 序盤、パンティを持った男子が女生徒を追いかけて「説明させてください!」と、超情熱をこめていうシーンがあり、これが本当に心に刺さった。
もうこの一言、この一つのシーンで、この男子のことが、全く分からないけど、なんかわかったのだ。わからないけど、超わかる。わかるんだよ……理屈ではなく……。

 上記のシーンは「アイドル同好会」の日常(?)のヒトコマ。アイドル同好会の男子が、好きなアイドルの気持ちを理解するために、パンティを穿いてみようとしていたというシーンだ。ギャグとして作られたシーンではある。でも、なんだろうなあ。すごく、泣けもするのよ。この切実さ。
 脚本では、劇全体では、本当にやや下ネタな、そしてアイドルを好きなオタクの男子の、ことによればやや揶揄するようなシーンではある。それを、俳優の力で、俳優の情熱で、劇全体の意図を超えて、一人の切実な男オタクを描くシーンになっていたと思う。この俳優さんを、この日の男性の最優秀新人賞に推しました。

 劇としては、アイドルオタクの奇妙な情熱を冒頭で描きつつ、その一方でアイドル同好会に所属する女生徒の一人の祖母が、蔓延するウイルスでいいお別れをすることもできないまま葬式を迎えてしまった話がクロスする。やがて、アイドル同好会のライブが中止の通達がやってくる。
 ……と、全体的に明らかに、2021年の中の演劇部のメタファーとして「アイドル同好会」という設定が作られている。大人の事情により、あらゆるイベントが不条理にも見えるやり方で一方的に中止される中、登場人物たちが受け入れがたい通告の中で議論をする。

 しかしそこで、劇の中身が人物から――「人間」から、「コロナ禍におけるイベント開催の是非論」に主軸が移ってしまった。強い熱量で登場人物たちからら語られる現状とまよい、とまどい、苦しみは、伝わってくる。
 しかしそれは、情報と、状況としてだ。講評ではあえて「議論のために登場人物が殺されてしまった」と強い言葉で評してしまった。
 劇が、切実な、伝えたい、ぶつけたい、やむにやまれぬ情熱により、議論が主役になってしまっている。そのために、前半で出てきた劇中の魅力的なキャラクター達が、議論の言葉を発するスピーカーになってしまう。

 その情熱、その議論の切実さはあるものの、では登場人物がとった行動や議論に、反対の意見をもつもの、共感をしない人には、この劇は届くのかどうか。この状況を共有しうるこの演劇部員の集まりや、私には強い共感をもち、怒りも悲しみもあらためて思い浮かぶ。高校生のおかれている現状が言葉として、議論として、そして熱のある生徒の体から伝わる。そしてこの脚本が顧問創作であるという事も込みで考えると、見ていて僕の体はとても熱くなった。
 でも。だ。だけども。だ。
 一方、外部の「他者」としてこれを見たとき、劇としてこうした議論のための言葉に乗っ取られてしまうと劇としては死んでしまうのではないかなと思った。
 登場人物が、登場人物でなくその言葉が発話されてしまう。さらに、「演劇部のメタファー」として使われた「アイドル同好会」という設定もはたしてどうか。男女混合のアイドル研究部は、ステージを踏むという事に対してどういうスタンスなのか。そもそも「アイドル同好会」……ドルオタそのものに踏み込まず、公演をする団体という一側面を利用しているようにも思えた。
 男女混合のアイドル同好会とはどういう団体か。おそらく演劇部のもつ種類の情熱とはまた違うもののはずだ。それを、丁寧に掘り下げていたとは言い難い設定ではあったと思う。

 アイドルの気持ちに少しでも近づこうと、男子がパンティを穿こうとする。「説明させてください!」「違うんです!」「そういう気持ちではないんです!!」という強い情熱。そうした個性を持つキャラが、突然の公演中止に対して、何を語りうるだろうか。
 アイドルにあこがれ、同化したいとまで考える情熱のオタクたち。
 その人たちにとって、コロナによってアイドルに逢えないということ、公演がなされないということは、どういうことなのだろうか。

 それらのキャラ固有の体、固有の精神から出てくる言葉を、議論の言葉よりも救い上げる必要があったと思いました。俳優はそれを体現しえたんじゃないかなあ。

 なんだろうなあ。これも僕が、日向坂46をコロナの中で推すようになったから、そう思えるようになったのかなあ。や、パンティは穿かないけどね。

午前の部⑤【都立小松川】『我ら放課後たられば議会!(仮)』

 こちらもユニークな生徒創作。「たられば議会」という謎の生徒組織に拉致? されてしまった男子生徒。レバーを引くと「たらればの世界」……なりたかった夢を体現できる話。

 謎の秘密サークル、という雰囲気やナンセンスさがとても雰囲気として面白い。舞台中央にレバーがあって、それを引くと「一人一人やりたかった夢」になれるというのもなかなかヘンで面白い設定だ。20分間の新人紹介用劇としても、レバーでワンシチュエーションいけるのでとても便利な設定でもある。

 登場人物たちはそのレバーを使って、おのおの成りたかったものになっていくのだが「姫」とか「独裁者」とか、あ、そっち? みたいな謎設定に行き、それを大いに楽しんでいるのが伝わってきてみてて心地よい。
 ただその一方、「この議会の組織はそもそもなんなのか」「主人公のみた夢落ちなのか」「そもそもレバーは、魔法の力でそうなるのか、あるいは集団セラピーとして劇中人物が理想の夢になったふりしているのか」、いまひとつわからない。もしかしたら設定しえてないのかも。

 せっかくのオリジナルであるレバー周りの設定を詰めると、これはより作品になると思った。現状では、やってみたいシチュエーションコントの連続にただ見えてしまう。

 それに、レバーを戻し現実にするのも、自分自身で戻すのが適切なのか。そのレバーは誰かに引かれて引き戻される、という風にしないと、自分で自制心をもって設定からもどってしまう、と言うように見えてしまう。「独裁者」や「姫」をやり続けようとする方が登場人物の理に適うから、それを自分で引き戻せてしまうのはもったいない。

 こうした面白い設定を、面白い、というだけで止めるのではなく、深く掘るところに、劇の鉱脈があると思う。

 さらに言えば、なぜ、その設定なのか。その設定で何を表現することができるのか。その設定を遣う事で、普段の人間では言えないことや、できないことができるとしてら、何をさせたいか……をより考えると、よりよい「作品」に仕上がるのではないかなあと思った次第です。

午前の部⑥【潤徳女子】『おにぎり殺人事件』

 こちら生徒創作。おにぎり(具)が、何者かに刺され、殺人事件がおこる、という話。おにぎり(具)が、刺されたり、転がったり、たらこは卵の集合体だから事件解決する、みたいな、そんな話。

 すごい。みごとに、何の意味もない(誉め言葉)。
 笑ったなあ。なんかアイドルオーディションのように具たちがセンター争い? をしてたら、なんか刺されたり、連続殺人だったりして、ミステリーサスペンスの世界になっていくのよ。

 ……今回、全20公演を通じて、傾向と言いますか、「なにかのドラマのフォーマットのパロディを借りる」みたいな構造が結構多いなーと感じたのだった。「特撮」とかね。
 こう、ドラマのフォーマット、つまり「お約束をやってますよ感」を借りると、「普段言えないようなことを照れることなく言える」「普段できはできない動きができる」という効果があるのかなあと思った。

 つまりそれだけ、普段の高校生は、自制と自粛を自分でやってるといいますか。変な事は言わないようにするとか。そもそも大声を出さないとか。
……劇中、「シャケ」は、いわいる傲慢でうぬぼれの強く、他者を見下しつつも努力する実力者キャラなんだけど、現実にそういう人ってあんまり見たことない。
 なんだろうな。「おにぎりの具」という精神的着ぐるみを切ると、自由に、表情豊かに、ばかばかしい動きや言葉をやっといえるんだろうなあと。それだけ、現世の高校生は、「変」でいることができないんだと思った。おにぎりの具になった高校生たちは、何の意味もないけど、いように生き生きしている。

 その自由さ、生き生きとしたものを見ることができて、本当によかったなあと思った。が、いっぽうこの意味のなさ、ナンセンスさは、「20分」だからこそかもしれない。ある種の、ワンシチュエーション、ワン設定の面白の展開の限界の時間なのかなあと。

 このおにぎりの設定のまま1時間展開するには、たぶんどこかで「意味」……というか「意図」というか。ほしくなってしまったなあ。
 なんでおにぎりなのか、おにぎりのオーディションとは……? という設定そのものの深堀りし、なぜこれをやったのかの演出意図で構成しなければいかんのかもしれない。
 や、でも掘ろうとしてみると深いかも。
 そもそもおにぎりのオーディションて、「食われるための」オーディションであり、しかもそれが女性が演じられ、アイドルのセンター争いにも見えるって、これって、女性性の搾取、みたいに見立てにもできたりするんではないかい、とか……!

 俳優の実力としても、なんだろうなあ、あっけらかんとした感じと「何言ってんだかわかんないけどなんかもう、おもしろい」みたいな抜け感があり、なかなか実力者揃いなのではないかなあと。
 一人一人妙に印象に残る俳優もいて、特にツナマヨ演じた人はその佇まいが面白かったなあ。公式では設定されてないけど、最優秀新人賞の女性の部の次点という事に勝手にしました。なんか……へんなのよ。へん。へんなのあなたたち。
 交換不可能な佇まいが全員にあって、特に代表してって意味で称賛したいなあ。

 この実力を使って、この高校がどう一時間物の「作品」、つまり、どうしても「意味」や「意図」がないと埋まらないサイズの作品を作るとなると、どうなるのかなあと言うのを、とても期待してしまった次第です。

 これがとりあえず、初日の午前の部……。全体の1/4です。
 のこりはまた後程……

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