見出し画像

ある日の高校演劇審査員日記。2020年の3

2020年10月10日

東京都高等学校演劇コンクール2020・多摩北地区B日程3日目
⑨創価『ああ、やっぱり理解できない』。

 こちら、演劇部作になっている。演技の天才と美術の二人の天才が手を組み、一つの舞台を作り上げるというお話。

 この劇の何が困難かと言ったら、「天才」を舞台上に出現させなければいけないんだよなあと見てて思った。僕の懸念はさておき、このチームのもつ明るさと肩の抜けた感じで、劇は楽しく進行していく。

 そうそう、大会3日目は、台風の影響で全体講評はなしになり、上演終わった直後に我々が空き室に移動して講評するという形を取った。舞台終わった直後のこんがらがる中で、審査員の面倒くさい話を聞いてしまう事になるとは、なんだか申し訳なかったなあ。

 そこで言ったのは「天才」さが、客席の方に届いていないと指摘した。
劇中で、登場人物が自他ともに「天才」だと認め、幼馴染の女性が「天才!」と語り、観客に「天才なんですよ!」と語り掛ける。

 それがなあ。教室の真ん中で、クラスの数名が「天才だ!」って盛り上がってる輪に入れず、その外側の、窓際に座って漫画描いてる僕のような人間には、伝わらなかったんだよなあ、という例えで説明したんだけれど。

 すごく、劇の中だけで、そういうことになっている。
 実際の客席と舞台の間は、空間としてはそれほど離れていないのに、でも遠いところにいる「他者」に、舞台上の感じが伝わらない。
 劇では、天才の二人が、「やっぱり理解できない」とお互い言いながら楽しくしているところを、幼馴染の女性が楽しくも暖かく見つめている。
その天才同士の理解しえなさ、天才を見つめる親しい人の理解できなさ、伝わらなさ、でもそれを包み込む温かさのようなものを伝えようとする努力を感じた舞台だった。
 その前提である部分を、どう伝えるかどうか。
 さらにその前提として、「人」は、「私」は、どうすれば伝えることができるんだろうか。

 そもそもわたしたちは、「私」を、対面している物理的な距離のない相手にすら、十分に伝えきることができているだろうか。むしろ、私が認知していない私の部分ばかりが伝わっているんじゃなかろうか。

 劇中に出てきた「演技の天才」や「美術の天才」を、どう伝えるか。フィクションの中の世界だから、「これが天才の演技という事にします」「これが天才の作った美術作品です」と劇中の人物が言えばそうなるかというと、多分、そうはならない。

 では、どうしたらいいか……。うーむ。むつかしいなあ。それはきっと、「天才」というものがこの世に存在しないからではないかなあ。天才、という言葉で、いわいる天才は縛れないのではないか。おそらく、こういう時に描くべきは、その人の「天才さ」よりも、「人」なんだろうなあと思う。人を見せ、伝えて、それを観客の頭の中で勝手に「天才」と変換してもらえればいいんじゃないかな。

 舞台に本物のお金が出てきても、それは嘘のお金に見える。おいしそうなご飯は、作り物っぽく見えて、時にまずそうにも見える。
 でも逆に、完全な偽札も本物のお金に見えるし、マイムで飯を食べても、異様に美味しいご飯にとして表現することも可能だ。
 この、ウソがホントになるし、ホントがウソになる変な空間。伝えたいことはそのままでは伝わらなくて、伝えたくない本当はバレて、こっちの思い通りになり難いこの場所で、どう伝えるかだよなあ。
 天才なあ。どう舞台上に出したらいい物かなあ。僕もわからないなあ。

 劇中、後方の方で、いわいる劇の本筋ではない登場人物たちが、同時進行で、たぶんアドリブで雑談しているというシーンが何か所かあった。演出意図としては「自然な感じで、仲間がワイワイしている」感じを出したかったのだと思う。
 おそらく俳優も実際に舞台上で楽しく会話していたと思う。でも、少なくとも僕には、この人たちの自然なようには見えなかった。
 現実に、生身の俳優が、本当に楽しく自然にアドリブで会話してても、ものすごく嘘のように見えてしまう。それは先ほども述べた舞台の持つ不条理な機能だろうなと思った。本当であっても、本当にそこにいても、嘘に見える。それは「俳優がそこにいて楽しくいた」のであって「人間がそこにいて楽しくいた」のではなかったからだと思う。
 楽しく、自然にそこにいる人間を、舞台上で演じることはむつかしい。けれどそれは、例えば生身の肉体を持たない文楽人形でも、生々しさをもって出現させうることができる。

 この虚実のむつかしさ、近くて遠くにいる他者に届けるこの感じを、今後演劇にいかしていただければーなと思った次第。

⑩翔陽『正義の見方?』
 こちらも既成脚本。テンション、クール、悩んでる、な3人の女子生徒が、誘拐事件に巻き込まれる……みたいなノリのお話。

 開始1分で、これは期待できるなあ! と思ったのは、最初の第一声くらいから、「こっち側」の感じがしたのだった。あ、バカだ。バカがいる! と。
 それで、講評でも言ったのですが、あとの59分は、うーんと思ったんですけれども。これは単に、脚本のチョイスが悪いのであって……おそらく「できそう」「楽しそう」基準で選んでしまったのかなあと思ったのだった。

 俳優3人から、最初から何か、エネルギーの総量みたいなものを感じたのです。こっち側だなあと感じさせる何か。こっち側とはなにかというと、「表現をせざるを得ない、だめな人たち」という……匂いというんですかね。一瞬で「あ、バカだ」とバレる感じというか。

 勢い、「脚本が悪い」などといってしまったが、そのバカな感じのドライヴと、この脚本の勢いみたいなものは確かに合っていて、でも、そのエネルギーも今のところ、この3人は武器を一つずつしかもっていない。武器が一つなので、話が展開すると弱くなってしまう。

 展開とはなにかというと、話が進めば、登場人物は多面的な面を見せる。喜び、哀しみ、怒り、そうしたリアクションに、この3人は一つの武器だけで突破しようとしてしまう。そうなると、例えば笑い以外の情感を見せたいとか、実は機転の利く一面があるとか、深い信頼や友情とか、そういう部分に最初の演じ方だけでは効いてこないのだなあ。

 この3人は、他の人が持ちえない、「エネルギーの総量が単純に多い」というのを感じた。極端な話、講評でも口走ったけれど、いい脚本と、あといい……外部の稀人というか、演出家的な変な人がいたら、来年の都大会くらいなら行けそうだなあと思った。
 才能がある、とは一言も言わないし、そんなことをジャッジする立場にないけれど。表現をしないではいられない、こっち側の匂いがある。間違う事をそんなに気にしなさそうなこと、面倒くさいこと言われてもフーンで済まして次に行きそうな感じ。
 要するに、わるい奴らっぽかったのだ。その、わるい奴らが、真剣にやってみたい脚本を選んだら、きっとすごい劇になる。

 脚本のチョイスでポイントになるのは、「できそう」な脚本を選ぶんじゃなくて「これをやらないで、誰がやるってんだい!」とテンションの高さになってしまう基準があるといい。脚本が脚本通りできなくたって全然かまわないし、何なら、やりたいシーンだけやってもいいと思う。人数が何だ。男女比が何だ。上演時間が何だ。
 もっとも「やりたいシーンだけやって、トータルで何をしたかったか」という演出が加わらないと作品としては評価はできないとは思うんだけど……まあいい、そんなことは後だ! とにかく、「誰がやるってんでい!」的スピリットが先に来るべきと思う。

 これは他の上演高にも思ったけど「できそうなもの」を演じても、何にもならない。「できそうな脚本」「やれそうな脚本」ではなく、「やるしかない」「これやりたい、やらせてくれ」というものでなければ、演劇をやる意味もないと思うのだった。

 まった、やる気が一番かよーみたいな風に思われるとシャクなので、もっと言えば、やる気で選んでもだめだと思う。
 「やりたい」は前提というか、それが一番ではなくて、「これ……うちらがやらなくて誰がやるんだよ」みたいな、絶望交じりのチョイスが、最も優れたチョイスの仕方なんじゃないかなあ。
 そんな脚本、どこにあるのかと言えば、どこにもない。
 どこにもないから、人類は三万年経っても新作を作り続ける。
 まあ、多くの人類は不勉強だから新作作るけれど、少しでもちゃんとしている人は、そこで古きを訪ねて、いい演目を探すのだけれどもね。

 やりたいだけ、やる気だけでは何でダメなのかというと、「やりたい」とはあこがれて、既にある何かを見たり感じたりしてそう思うから、「やりたいこと」なんていうのは頑張っても二番手にしかならないから。
 二番手のものは、きっと芸術において、何の意味もないものではないかしら。「やりたい」ではなく「私が私としているために、やらざるを得ない」、その仕方のなさ、しないではいられなさから作られると、それは「作品」として評価されうるものができるんじゃないかなと思うのだ。

 話が作品からずれましたが、この三人なら何かやってくれそうな、何かかましてやる感じが伝わったので好感が持てました。ほんとう、なんかね、暇な演出家とかが座付きでつけば……俺とかね。うーん、きっといろいろできると思うんだよなあ。

⑪片倉『Three Overlapping Tones~好きだと叫んで』
 この地区最後の演目。生徒による創作劇。
 学園、バンド、挫折、でも最後にもう一度立ち上がる、そんなすべてが詰まった作品。

 バンドの芝居って、やっぱりどこか、こういう僕のような人間でも、テンションが少し上がる。僕には音楽経験はないし、バンドのライブに足しげく通うわけでもないけれど。舞台上に楽器があって、実際に音が出ると、なんかやっぱりいいよなあと思う。

 登場人物は、バンドしたい女子生徒、引っ込み思案で音楽で自分を変えたい女子生徒、かつて音楽やってた先生の三人。その三人が学園祭で音楽をやろうとする。この人物構成の時点でけっこうわくわくするけれど、全体的におとなしい印象があったのは、やはり「間違えないようにする」感じがここにもあって。

 たとえば劇中でキーボードを演奏するシーンなんかも、ものすごく慎重に、体を硬くさせながら演奏の演技をしていて。「おおー普通」というリアクションが後である程度なのだから、もっと楽に……なんとなれば「下手ですね」くらいでもいいのだ。音は、間違えとかが分かりやすい分、間違えなくさせがちだけれど、演劇としては「その人が楽器にどう触れているのかどうか」が問題になるだから、間違える、間違えない、ではなく、その人物が楽器とどう接しているのかが見せればいい。

 もちろん実際に上手く弾ければカッコいいけれど、音を外さない事をこだわるのは違う。これは全体に言えることで、脚本を間違えない事は、演劇にとって最優先のことではない。

 間違えないようにしよう、という所から、すべての演技が小さく見えてしまう。観客よりエネルギーが少なく見えてしまう。舞台に立つという事は、観客より、エネルギーが強くあふれていることが必要なのではないか。
 では、出演した彼らのエネルギーをそいでいるものは何かなあと思ったのだった。どんな人でも、舞台に立とう、と思った時点で、エネルギーにあふれているものだと思う。何かを練習して力をため、大勢の他者が見ているところに、自分たちの姿をさらす。それが、弱く見えるとは。弱くさせている何者かが、舞台に、世界にいるのではないか。

 脚本は、構成がとてもしっかりしていて、信頼のおけるお話運びになっている。音楽モノであるから、自然と「音楽を辞めさせる大人」のロジックにどう戦うか、抗うかになっていてくし、そのロジックにあまり大人味を感じなくはあったけれど、一点、一か所ね。

「うるせえ!(中略)お前ら、やる気やる気っていうけど、こっちはお前らと違うから、なんでもやる気出していられないんだよ。他にもやんなきゃいけないこと山ほどあって、それを全部本気でやってたらたまんないんだよ(中略)大体、やる気出したら全部解決なんて、そんなことないからな? どんだけ本気でやったって、ダメなときはダメだし、失敗したら意味ないんだ。そういう事で失敗して、挫折したことないから、お前ら簡単にやる気出せなんて言えるんだろ」(『Three Overlapping Tones~好きだと叫んで』より引用)

 この一連のセリフを、劇中では「先生」役のキャラが言う。
 でもこれ、高校生の本音のようにも聞こえるんだよなあ。
 すぐにこのセリフは、劇中の生徒たちに否定され、先生は改心して禁止されたバンドを強行するわけだけれど。たぶん、面倒くさくなるくらい、高校生は常日頃、やる気を強要されてるんじゃないかなあと、ふと思った。
 失敗したら意味ないと思っている世界で、やる気を強要されるということ。それを、あえて「先生」というキャラに仮託して、すぐに生徒役のキャラに反論させて、打ち消しているところに、現代の高校生の困難さがある気がする。一瞬たりとも、悪くあれない、の感じというか。

 また、むつかしいなあと思ったのは、主人公の生徒が音楽やりたい感じが、セリフには出ているけれど、セリフ以外で出てないところがあり。
 これは俳優の責任というわけではなく、この脚本を創作しようとした時に、俳優に音楽をやりたい感じを共有しえなかったところがあるんじゃないかなあと思った。
 これが創作劇のむつかしいところで、その役をやってもらう時に、どうその人が存在できるかどうかという事と、脚本で表現したいことに、どうしても溝ができやすい。
 自由に書く一方で、自由ではあれない。そこに演じる人がいるからで。その演じ手とどうトーンを合わせるか。話し合うか。そうした話し合いや、トーンのすり合わせをしたという事は、きっと上演の成果以上に、将来にとって重要なスキルを学んだという事になるんじゃないかなあと思ったりしました。

・・・・・・・・・・・

 日が空きましたが、私が今回担当した高校演劇の審査した多摩北地区B日程の各校の細かなところのレポートは以上です。
 この地区からは拓殖大学第一『七人の部長』と都立松が谷の『ひよりぼうず』を中央大会に推薦しまして、辞退がなければこの二つが次の大会に行きます。
 もう一人の審査員の千田恵子さんと話したけど、かなりスムーズにこの二校は決まった感じ。拓大第一はすぐに二人が同意し、次いで松が谷という感じで、特に松が谷は強く推そうと思っていたので、かなり早く賛同いただいた感じだった。前日の控室で熱く語っていたというところもあったのかなあ。

 奨励賞として、成蹊『恋歌』と八王子『終わらないお茶会~』、穎明館『ガラスの靴を~』の三つをチョイス。こちらも、三日目の上演が終わり講評に向かうまでの間にすんなり決まった感じ。
 成蹊高校は、もしかしたら、僕が審査員じゃなければ松が谷にとって代わってたかもしれないなあ。
 八王子は、たの作品と比較して作品の完成度の高さと、しっかりと稽古していることからくる俳優の安定感から。黎明館は、一貫して俳優たちの楽しく、笑わせようと全員が同じ方向で舞台を仕立てていたところを僕は評価しました。
 これら奨励賞に値したのは、いずれも「間違えないようにしよう」から自由だった作品たちという所だと思う。

 地区発表会をトータルで見て、「演出」という考え方があるところは強いなあと思いました。
 演技指導とか、上手くやる、とかそういうのではなく。
 脚本に書かれていることを、間違えないようにするのではなく。
 書かれていないところにどう想像を膨らませるか。
 どう現在とリンクさせるか。
 どう本人に関わるか。
 ……この「演出」という考え方は……僕だってわからないところ多いですよ。むつかしい。
 でも、「うまい/へた」とかそういう事ではなくて「演出としてこうやりたい」という方向があるところは、失敗がたくさんあったとしても、言語ではないところに効くなあと思いました。

 ただ……それをどう学ぶかって、それ、わかんないよなあ。僕もわからない。
 それでも「間違えないようにやる、ではないようにしよう!」というだけでも、全然違う。
 要するに、バカの人になろうということ。やっちゃいけないと思い込んでいる事から、リミッターを外してみようと。

 例えば、そもそも脚本が何で一つじゃなければいかんのか。3冊同時にやったっていいじゃないか。そもそも、舞台に本人がいないといけないのか。リモート演劇というものがコロナの中にあった。本人が学校や家に居て、舞台上にプロジェクターでもよかったんじゃないか。
 や、大会運営から一度「ん?」って言われるかもしれない。でもそこに「こういう演出です」という返しがあれば、きっと大丈夫。

 演出という、頭のおかしい、ばかのひとのポジションが、居場所が、演劇部にあるかどうか。メンバーのなかで、バカの人が出現できる環境かどうか。

 もちろん「大会なのでそれはダメ」「学校の部活動なのだからこれはいけなて」とかいろいろあると思う。でも、「演出」があれば、「ならばこの方法はどうですか」と代替え案も出せる。
 ただやりたいだけ、やる気があるだけではなくて、こうしないでは、いられないという事を、考えとして持ち、それを他者に伝え言語化していく事。うーん……いや、むずいよなあ。

 むずいけど、でも現実に高校生が、それができていたところがあった。例えば今回の松が谷高校は「演出」があった。7割失敗してたけど、3割成功していて、さらにその中の1パーセントのきらめく瞬間が僕に強く刺さって、感動した。

 それは一人の資質ある生徒の天性のもの……と言いきっちゃえば楽だけれど。今、たとえそういうのがなくても、本当外部からの何らかの刺激……ライターを点火させる火打石から出る、ごくわずかな火花で、火はつく。
 その火花……うーん抽象的な例えだなあ。それを、生徒の中から自発的にでもいいけど、外部のほんのちょっとした、ささやかな火花位の刺激……一回、ワークショップに参加するとかでもいいし、同年代の、すっごい高校の舞台を見るとかでもいいのかなあ。
 そしてそこの火が付くかどうかは、「間違えないように」……「失敗したら何の意味もない」という冷気が入り込まないところにかかっていると思う。
 どうすれば、間違えても大丈夫と、口だけではなく本心から思えるかどうか。失敗しても大丈夫な感じ……自尊心かなあ……。

 高校生が、自尊心を高くキープできる。そんな環境があるのかな。
 いま、自尊心が過剰にあれる人って、「ばかの人」にしか存在しえないのかなあとふと思った。というか「普通の人は自尊心が少ない」なのかなあと。

 例えば……べつにディスるわけではなくて、高校の顧問の先生がふと「ウチの子たちは下手なので練習しないと……」と口にする。謙遜でもあると思う。
 でも、そんなことはないと思った。それは、そうした先生の「下手だ」「もっと練習しよう」という視線が、高校生の演技を下手なようにさせているのではないか。

 いや、謙遜なんだろうなあ。もっと良くしたい。もっとよく向上心を持ってほしいと期待する気持ちが、「下手なんだからもっと練習しよう」という気持ちになってしまうのかもしれない。また、この程度で満足してはいけないよという親心だと思う。

 この辺の距離感なあ。僕もまだ数えるほどしか高校生と接していないし、また四六時中いるわけでもない。自尊心がどうとか、そういうレベルじゃない人もいるのかもしれない。
 でもなあ、おそらく演劇や芸術は、自尊心が少ない人には、ものすごくつらいものになってしまう。

 むしろ李徴だと思うのだった。あれです『山月記』の。
 臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持つ李徴が虎になる、その虎の出現しうる場が演劇なんじゃないか。その虎の姿かたち、ふるまい、口から語る詩に喜び、決して虎自身が、そんなに幸せではないあの感じが、演劇なんじゃないかなあとか思ってるけど、うーん偏ってるかな。

 そして舞台上で虎を見ると……李徴を見ると……テンションが上がってしまうんよなあ俺は。
 教育は、そうした「虎」にならないように施こされるものかもしれないが、演劇は、虎だ……虎になれと……虎の仮面をかぶって、戦えと、そういうものかもしれない。違うかもしれない。

 えーと……そんな感じです。いや本当……ほとう……。コロナの中、観客を入れた状態で演劇を上演できる体制にしたのは、すごい努力あってのことです。関係者のみなさん本当にお疲れさまでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?