私の人生。

「将来の夢は学校の先生になることです」小学校の卒業式、私はみんなの前でこう誓った。
 
 おはよう。おやすみ。また明日。ありきたりの言葉であって、当たり前の言葉だけど、私はこの言葉が好きだった。すごく仲の良い友達がいるわけでもなく、いつも良いように使われるだけの存在だった。つらくても、苦しくても1人で戦って泣いて解決させる。これは小学生の頃の私の対処法。ずっと、ずっと、これで解決できたのに、ある機械を境えに私はこの対処ができなくなってしまったのだ。
 中学校に入学し、いつもと変わらぬ平凡な日々を過ごしていたがいじめが始まっていた。鈍感な私はそれに気がつくことが出来ず、気がついた時にはもう、ヒートアップしていた。普通に歌を歌うだけで、「白雪姫歌ってね?」歌わないと「白雪姫歌ってないよ」最初は私が白雪姫と呼ばれていることに気が付かなかった。それでもいつしか私の行動全てに当てはまっていることに気が付いた。初めての環境に、初めましてのみんな。怖い担任。1人で抱える以外の手段など私にはない。ただ歩いているだけで足を出され転ばせようとしてきたり、おはようすらまともに言えない生活だった。今思うととても辛い日々だったのに私は我慢することが出来ていた。
 中学2年となり、クラスがバラバラになったことでそのいじめは消滅した。とても楽しくて、みんな仲がよくて、本当に楽しい毎日だった。これからもずっとこんな日々が続くよう願っていた。でも、そう簡単には続かなかった。次は部活でのいじめが始まった。入部当初から部長を目指していた私は、朝練も誰よりも早く行き練習前の工程を全て1人でこなしていた。練習時間は誰よりも練習をした。家でもたくさん研究をして頑張った。この頑張りが実り、先輩方から未来の部長期待してるよ。こう声をかけられるようになった。私のことを信じてくれ、努力を認めてくれることが本当に嬉しかった。それなのにいつからか、何も声をかけられなくなったのだ。私のひとつ上の代の先輩が、部活を辞めたいと言っていることを知った。私は辞めてほしくなかった。その先輩に憧れて、同じポジションに立候補し、毎日頑張っていた。だから、一緒に大会に出たかった。その先輩だけじゃなく、私は今いるみんな、1人かけることなく、大会に出たかった。わたしの気持ちはただそれだけだった。先輩に声をかけ、相談をされ、それに応え、なんとか支える日々が始まった。先輩と大会に出れるならと頑張った。今思えばこの相談を受けることさえつらかった。辞めたい。死にたい。いても意味ない。わたしがいない方がみんな楽。毎日届くこのメッセージにどう返信するかを模索する日々。本当に頑張った。私はただ頑張っただけなのに、グルだとか、もうあいつの仲間なんだとか言われ、先輩から避けられるようになった。そのせいで私は声をかけられることがなくなっていたのだ。
 時は流れ夏になった。大会に先輩と参加することはできた。でも、同学年の唯一の同じポジションを任された子は大会直前に辞めてしまった。気が付いた頃にはいなかった。先輩の方しか見えていなかった私は気がつくことができなかった。仕方がないでは済まされない。ずっと心に残っている失敗だ。
 大会では初戦敗退。代替わりとなった。もちろん私は役職などもらうことはできなかった。それでも毎日愚痴ひとつ言わずに頑張ってきた。
 先輩のいなくなった部活。わたしの仲の良い友達がセクションリーダーに任命された。その子はわたしを頼りにしてくれた。今日どんなことやったら良いかな。今日のコメントなんて言おうかな。そんなのその時決めること。私はそう思いながらも、考えを振り絞ってアドバイスをした。その子はわたしのアドバイス通りに部活を進めた。私は嬉しくなかった。荒手のいじめに感じていた。どれだけ頑張ってもなることができなかった私を苦しめにきている。そう思うことしかできなかった。そんなこんなで2年は終わった。これしか覚えていないのも全て流行病のせいだ。
 中3に上がった私は何を思っただろう。最後の大会中止の知らせ。泣いている親をみても仕方がないとしか感じることができなかった。友達と喧嘩別れした。それも考えてることが理解できない。性格が合わないっていう理由。私はわからなくなってごめんなさい一つ言わずに終わった。その子と会わなくていい。この考えがわたしを占領していた。
 学校が始まってすぐ指導室に呼び出された。友達とのことだった。友達は不登校になっていた。先生は言った。あなたのせいだって。仲直りして学校来てくれるようにして。って、言われた。今思うとこんな大切な時期にこんなことを背負わされていたなんてと感じる。なんとかその子が学校に来てくれるようになった。そうなるよう努力した。ここまで頑張ってきたわたしでも心が折れたことがある。それが誹謗中傷だ。
 流行病による緊急事態宣言中、私はラジオに出会った。「起立、気をつけて、礼、叫べ」この掛け声から始まり、「また明日」で終わる番組だった。放送の意図を考えたり、その日のスタッフ構成を考え送るお便りは毎日のように読まれた。読まれない日が珍しかった。楽しくて、嬉しくて、全国放送ということへの怖さなど一切なかった。怖くなかったからこそどんなことでも言えた。今日こんなことがあった。これが嫌だった。本当に些細なことでもつぶやけた。心配いらないぞ、大丈夫、掛けてもらったことばを一生忘れることはない。
 ラジオというたったひとつの光がわたしの生きる方向を照らしてくれていた。それなのに一気に真っ暗な世界へと変わった。あなたの一言で揉め事が起きてるの。辞めてくれない。知らない人からのメッセージだった。そういうつもりはありませんでした。すみません。今後気をつけます。これがわたしの最大限出せた言葉だった。だが、次の日攻撃は始まった。叩くためのアカウント。個別に行ったやりとりが全国に晒されている。鳴り止まないメッセージ。私はどうすることもできなくなった。泣きたくても泣けない。食べたくても食べられない。起きたくても起き上がれない。人を頼るしかない。そう思い、パーソナリティの芸人さんにDMを送った。助けてください。普通は返事をくださらない。なのに返信してくれた。事態を理解してくれた。スタッフの方に伝え毎日連絡をとってくれた。世界にはこんな優しい人がいるのかと思うほど優しかった。私に向けた内容を放送もしてくれた。それでもあの日以来ラジオを聴くことも、ことばを発信することもできなくなった。泣いて疲れて寝る。これがわたしの当たり前に変わったのだ。
 誹謗中傷のことを結局パーソナリティの人にだけ共有し、他の人は何も知らなかった。
 本格的に進路を決める時期となり私は部活を続ける決断をした。志望校も部活で絞った。結局親に勧められた学校へ出願することになる。そこの体験入部はつまらなかった。馴染める気なんてしなかった。本当に行きたいと思っていた高校の体験入部は本当に楽しかった。ここでならもっとやれると思った。ただ距離が遠く、顧問の先生に入部させることはできないと言われてしまった。だから、仕方がなく選んだのだ。その時親と約束をした。自分の意思で決めた進路って言いなさい。親に決められたって言わないこと。本当に意味がわからない。決められたのに自分の意思と言わなければいけない。それでもその頃の自分はただただ親に従った。
 そのうち不登校となり、保健室に通ったり、授業をサボったりして過ごした。毎週受ける授業、休む授業を担任に伝えて、私だけそれが許されていた。こんな優遇してくれる学校があるだろうか。本当に周りの人に恵まれていた。
 高校受験は成功し、中学も無事卒業することができた。卒業式の日、担任の先生に私は言った。高校では皆勤賞取ってきます。結局この約束を守ることはできなかった。
 高校に入学し待っていたのは孤独と我慢が織り混ざった世界だった。部活動とあるひとつの授業だけがわたしの楽しみになった。毎日泣きながら自転車を漕ぎ、仮面をかぶって学校に入る。短期留学だと自分に言い聞かせ通っていた。そんな日々を助けてくれたのはラジオだった。久しぶりに聴いたラジオはおかえり。待ってたよ。と言ってくれているかのような暖かさがあった。1人になってもひとりぼっちでも、自分で考えて頑張った。1人で抱えて頑張った。そのはずだったのにいつしか、ここから落ちたい。私なんていなければ。そう思うようになっていた。1人で抱えられなくなったのはその時からだろう。
 ここから先何があったかはわからない。
 高校の卒業式の日私は夢を決めた。小学校の先生なんかじゃない。私にしかできないこと、私らしく生きることを誓った。

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