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最大の敵であり味方でもあるのは自分自身。
という姿勢は崩さないでおこう。「わくらば(病葉)」と「まほろば」は違うものだぜ。←ブラックジョークになりかけて失神したみたいなジョークやん、いやただの言葉遊び。
前文と後文、接続すべき間にある文章が抜けているせいで意味がつながっていない。。。。
興味深いという点では特にネガティブな感覚について。
ネガティブが悪いわけではない。でも温床の餌になるくらいならさっさとその井戸から出て、井戸端会議を馬の耳に念仏で過ごしやすい場所をみつけて、永年おさらばできればいいとは思う。フェードアウト。
ただつながった縁というのはよくも悪くもむつかしい。
そこに孤独、孤立という問題点があるとすれば、きっと純粋というか、やわい部分になる、のだろう。さびしいし、こわいからいてほしい。ただ素直に表現できないのは、認めることに不満があるから?
社会的動物であることを背景にそういうものを悪用される可能性も無きにしもあらず。
あなたのため、という善意のすり替えとか、数の圧力とか。しかし彼らが住む場所はどんな状況だろうか。たとえば、※以下ポエム
砂上の城ゆえに海から逃れることはできない。不安がいつまでもつきまとう。
築き上げたプライドのために依然状況は変わらない。現実を見れば城を崩さなければならない。しかし困難である。夢に溺れるしかなかった、砂を砂糖と刷り込んで仲間を増やそう。そうだ、我々は社会的動物だから。
城、むしろタロットの「塔」なのかもしれない。

自己犠牲がすぎるとそれで得をする人がいる。加藤諦三さんの言葉を自分なりに、私見で言ってみたんだけど。結局は、自分という存在を他者のみによって満たそうとする。忘我するという行為によって自己を見失うほど、モノの概念に近付くので、(モノとしての)損得勘定で打算的な利己の精神が引き寄せられてくるのかもしれない。男性性と女性性の出会い(そんな出会いは嫌だ)のようなもの?
これは酷いとは思うけど、調和としては正しいのでは、とか。
極端には極端を以て、というのは密度とか、濃度が高ければ高いほど、均衡を保つのに同じ容量をもって希釈させるというはたらきのような。
それも立場が「搾取する側」と「搾取される側」など、不動であればあるほど、その流れは滞り、自然として循環しずらいほど崩壊するときのインパクトが強烈になるのかもしれない(それでも崩壊させるだけの力があるのが自然とかいうものの正体?)。
自然ではない自分。不自然さは、本来の自分から遠ざかるほど見えなくなっていく。その本来を良くも悪くも気づかせるのが自然(?)
逆に言えば、その事件によって「もっと自分を労わって!」と言われている、と解釈するのが学びというか、因果応報というか・・・

そうなれば、もともとそういう、過労環境になりやすい要因がそれっている場所というのは、「みんな頑張っているのだから、自分も頑張らなくてはならない」といった共感が支配にとっては好都合となるんだろうが、これはどっちにとってもよろしくないのだろう。しかも規模が大きいほどネガティブに作用した場合、同調圧力になりやすく逃れにくい。逃れようとしても「夢」で捕らえてくる可能性も否定できない。文化芸術とか。
それが自由のため、などといって本能に焚きつけたすり替えとか。情報が予め操作されている場合もある。あるいは恐怖、あるいは快楽によって。でもそこに本当の自分はいない。自分に責任をもつことができない(忘れている)から、否定できない感情という、未昇華な部分を他者に投影するしかない。自分を否定し続ければ他者から自分の存在意義を奪うしかない。これは他人だけではなくて、極端な概念・思想から、自分を見つけ出そうとする、という衝動のような。
やさしいと薄情は紙一重。エネルギーバンパイアよろしくエネルギーを奪われた方は衰弱し、思考能力が低下し、そこで逃げなければ見せかけの善意によって丸め込まれるか。羊の皮を被った狼。
結果彼らに迎合し染まることで自分も誰かから生きるエネルギーを奪う。これは同調によって集合体となるので、一見共感性がある、つまり、一見仲間のように見える。

それにしても昔(何年か前)夢でみた景色はよかった。ああいう世界が世界の端っこにでもあれば、自分が目指すべき場所なんだろう。あくまでも個人という意味で。

自分を見失うことがなければ、環境が多少悪かったとしても思想の転換etcで済むこともある?
精神だけに頼っていると、現実は成り立たない。心の居場所だけもとめても現実の環境がそれを妨げるのであれば、環境を変える必要に迫られているともいえる。むしろ変えるための目的、その主語が大きく曖昧になるほど、自己が尊大になる可能性もあり、同じ連鎖を繰り返してしまうのかもしれない。
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