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パラドクス善性のために口ひらくイエスと手を出す人の違いは

念のために言うと私はクリスチャンではないです。クリスマス(イブ)なので最近思ったことを短歌にしてみました。パラドクスへ、という概念への問いかけです。争いは絶えませんね。なんにせよ物質の利益に偏りすぎると感情が麻痺(あるいは損害)して、本来の自分(現実)が見えにくくなり余計に苦しいのだと思います。
たとえば着飾っていないと自分が落ちぶれてしまうという、思い込みならまだ可愛いのかもしれない。でも認めたくないので安いものに、すぐ手が届くものにすがりつくというのは依存かもしれない。安易に手が届くものはどれだけ量が満たされようとも心が安らぐことはない。質より量、というのに似ている気がする。一つ一つがただの夢であり、本当の自分をみずに他のものに惑わされているうちに自身が消費されてしまう。
月に映った自分の影を改めて見つめ直したいこのごろです。そのほうがわかりやすいなと個人的に。

あまり抽象的表現を信頼しないのはそれが幅広い受容にもなると同時に需要にもなるから。つまり誰かの恣意的な利益にもなりうるので。とかなんとかいって自分も抽象をバリバリ使う派なんですが。そもそも利益が絡まないことなんてあるんだろうか。そういう意味でもこれは私見。

ただ故意に行ったことは業になるのではと密かに想像しています。試練はほぼ必然的では?因があるので果になる。陰陽の法則みたいに惹きあうのかもしれない。むしろ業から因果になるのか・・・。

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