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プリンセス

1、
 タマラはアフリカのなんとか族の酋長の娘。いつもびっくりするような民族衣装を着て、彫刻の入った木製の杖をつきながら街を歩いてる。見た目年齢だけど、もう五十歳近いはず。もしかしたら超えてるかも。薄く色のついた大きなサングラスをいつもかけてて、唇だけがすごく赤く、歯だけがすごく白い。

 彼女は美容師。あたしが住んでるノーリッチという街にあるマグダレン・ストリートに『プリンセス』という店を持ってる。酋長の娘だから、その名前にしたのだそう。タマラは、自分の血筋のことを、すごく誇らしく思ってる。お店は週に三日、月水金だけ営業してるという。あたしは何度もその前を通りかかったけど、お客が入ってるのを見たことがない。あたしの知るかぎり、タマラに髪を編んでもらったのはあたしだけ。しかもそのときだって、中途半端でやめてしまった。せっかく三日がかりだったのに。初日の一番最初はていねいにやってくれたんだけど、時間が経つごとにだんだんいい加減になっていった。そのおかげで、三つ編みの太さを追っていくと、どこのエクステンションを最初に編み込んで、どこで投げ出したかがよく判る。

 彼女いわく、昔スパイス・ガールズの誰かの髪を編んだことがあるっていうけど、きっと、それをずっと語りぐさにしなくちゃいけないくらい、お店がはやってないんだ。まあ、あんな仕事のしかたをしてたらそれもしょうがないか、と納得のいく話。

 タマラは、すごく不気味なしゃべり方をする。向き合って話してると、なんだか呪いをかけられてるような気持ちになる。まるで、地の底から響いてくるような恐ろしい声をしてるから、というのがひとつ。もうひとつの理由は、じっと目を見つめながら、すっごくゆっくりと話すから。

「わたしー。このあいだー。あーなーたーのーこーとー見ーたーわーよー。ファーファーファー」言ってみれば、こんな感じ。

 彼女は、十年くらい前に英語を習ってたときの成績表と作文を大事にとっていて、自慢そうにあたしに見せてくれる。

「私の人生に影響を与えたもの」という題名の作文で「よく書けています」という評価。たぶん彼女が人生で得た、最大の評価なんだろう。作文の内容は、ざっと読んだけど憶えてない。

 お客さんの代わりにいつもお店にいるのは、ダレルとジョン。あとふたりいるんだけど、名前はちゃんと知らない。道路工事現場にいる人が着てる黄色い蛍光のジャケットを着た人がひとり。多分、本当に道路工事の人なんだと思う。あと、ぼろぼろの格好をした白髪のおじいさんがひとり。彼のはげ具合が、あたしはけっこう好き。どうやらタマラには、おじいさんたちを惹きつけるなにかがあるみたい。いちど、それがなんだかジョンに訊いてみたら「若い女の子には絶対に分からないよ」と言われた。

 ダレルは詩人で、普段はノーリッチにあるアート・センターで詩を教えてる。ちゃんと詩集を出したことはないみたいだけど、アメリカやイギリスで、ちらほらと少しずつ、雑誌やアンソロジーには載ったりするらしい。詩のほかにも絵を描いてて、プリンセスにも、タマラを描いた絵が画鋲でとめて飾られてある。

 彼はもう五十歳はたぶん超えてて、関根勤に顔がちょっと似てる。唇だけを微妙に動かしながら喋るせいで、あたしにはいまいち英語が聞き取りづらい。

 ジョンは、昔はノーリッチにある語学学校で英語を教えてたっていうけど、今はなにをやってるのか知らない。聞き間違いじゃなければ、無職で年金暮らしと言ってた気がする。でっぷりとしてて、いつもよれよれのスーツを着てる。みんながよく分からない英語で話すのに、ジョンの英語だけはすごく分かりやすい。だからあたしは最初彼とよく話してたんだけど、みんなはジョンの英語を「気取ってる」って言う。いつも自分が教えてた生徒や学校の話をしてて、道路工事の人の隣には座ろうとしない。あと、タマラが忙しそうにしてると、お店の中を覗いて素通りして行くこともある。彼はタマラのお店に集まってくる人たちにずっと「僕は日本語ができるんだ」と言ってたみたいだけど、あたしが仲間に加わったせいで、そのメッキがすっかり剥がれてしまった。

 プリンセスに集まる人たちの平均年齢は高い。詳しく調べたわけじゃないけど、四五歳は堅い線だとあたしは思う。二三歳のあたしが加わって、ちょっとは下がったかも知れないけど。でもまあ、あたしもそうしょっちゅう行くわけじゃない。なにしろ、ちょっと怖いから。

 タマラ、ダレル、ジョン。この三人は、とても妙な関係。

 まず、タマラとダレルはお互いに認める親友同士で、ほんとによく一緒にいる。アート・センターのバーでも、プリンセスでも、いつもすっごく楽しそうにしながらふたりで喋ってる。

 それが気に入らないのがジョン。彼はプリンセスの面々の誰からも好かれていない。悪い人じゃないのはみんな知ってるのだけど。聞いた話だと、酔っぱらってダレルを殴ったことがあるらしい。ずっとダレルに嫉妬してるんだって。

 彼はタマラのことが好きで好きで仕方がない。だから、いつもタマラに付きまとってる。彼女のフラットのすぐ下にまで追いかけてって、何回もパトカーを呼ばれた。ノーリッチ警察署には、タマラ担当の警察官までいるのだそう。

みんなジョンを怖がってる。だから、できるだけニコニコして、刺激しないようにしてる。「中年の狂気」という言葉が、彼の話になるとよく出てくる。たぶんみんなは、ジョンは本当はタマラが好きなわけじゃなくて、寂しがってるだけだって思ってる。あたしもそう思う。とか、あたしは軽々しく思うけど、ジョンくらいの歳になると──たぶん六十は過ぎてる──きっと、あたしなんかよりもっともっと寂しくなるのかも知れない。


2、
 今日は月曜日で、ダレルがアート・センターで教えてる。あたしは大学が終わって自転車に飛び乗ると、シティ・センターのほうじゃなくて、トイザらスがあるほうに向かう。トイザらスの手前を右に曲がって、ベネディクト・ストリートという道に入るとすぐ左手にある教会みたいな建物が、アート・センター。いつも、グレープス・ヒルの猛烈な下り坂でついた勢いでどこまで進めるかが、あたしの勝負。今日はそのまま信号を渡れそうだったんだけど、黄色信号に突っ込んできた自動車のせいで、そこまで。記録更新はならず。ちなみに最高記録は、道路を渡り終わる寸前で片足ついたのが最高。今日は、あと三メートルだった。惜しい。

 一回足をついたらなんだか歩きたくなって、そこからは自転車を押すことにした。あたしはベネディクト・ストリートがとても好き。変なお店がけっこうあるから。特に、中古レコードやコスプレ衣装やセックス・グッズをごっちゃにして売ってる『PURPLE』というお店はあたしの好み。使いもしないのに、そこでビニール製のナース服を買った。胸に大きな赤い十字架が入ってて、お気に入り。

 アート・センターの前の鉄柵に、自転車を繋ぎ止める。時計を見たら、三時四十分。ダレルの授業が終わるのが四時だから、もうちょっとある。あたしは『PURPLE』に行こうか迷ったけど、もっと時間があるときにしたかったから、一足先にバーに入ってることにした。

 カウンターについたら、今日はユキさんが働いてた。ユキさんは日本人で、ノーリッチの男の人と今年の頭に結婚して、ここに住み着いた人。ご両親にはすごく反対されたそうで、最初は心の狭いご両親だなあと思ったけど、彼氏を見てあたしも納得。ただし、ご両親が彼の外見を見て反対したかどうかは不明。とはいえ、仲良くなってしまえば彼氏もいい人──見た目以外──で、今ではよく一緒にお酒を飲んだり、家に招かれたり招いたりの仲。ちなみに、彼氏の名前はパトリック。名前だけは聖人みたい。

「こんにちはー、ユキさん」
「あー、ジュンちゃんいらっしゃーい。なんか久しぶりくない?」
「かもー。あたしビール。フォスターズね」

 あたしは、別にフォスターズが好きなわけじゃないんだけど、まだ英語が不自由だったころにいちばん上手く発音できたのがフォスターズで、そればかり飲んでた。今でもずっとフォスターズなのは、なんだか惰性というわけ。

 まだまだ新婚のユキさんをからかいながらちょうど一杯飲み終わるころに、ダレルが降りてきた。

「ハロー、ダレル」とあたしはスツールの上から手を振る。

 ダレルはにこにこ笑いながら端っこのテーブルに座って、自分にもビールを買ってくるようにあたしに言った。あたしはユキさんにもう一杯頼むと、それを持ってダレルの隣に座った。

「授業終わったー?」
「終わったから来たんだよ」
「あはは。そりゃそうかぁ。楽しかった?」
「まあ、いつもどおりかな」

 それからしばらく、あたしたちはろくろく話もしないでそれぞれ飲んだ。まあ、特に用事があって会うわけじゃないんだから、これはいつものこと。あたしは買ったばっかのGQを読んでた。特集ページのモデルの女の子がすっごい可愛かったんだけど、どこを探しても名前が載ってなかった。あたしは、取りあえずページに紙ナプキンをちぎったのを挟んでおくことにした。ダレルはずっと天井を見ながらにやにやしてた。

「てめえはいつもそうだ!」と、バーのどっかで誰かが怒鳴った。あたしが声の出所を探そうときょろきょろしてたら、入り口の青いドアをくぐってタマラが入ってくるのが見えて、あたしは声の主を探すのをやめた。

「ハーイ、タマラー!」あたしが手を振ると、天井を見てたダレルが青いドアのほうを振り向いて、誰にも判らないくらい小さく右手をあげた。その仕草がなんだか可愛らしかったから、あたしは笑ってしまった。

 タマラは「ひーさーしーぶーりーねー」と歯をギラギラ見せて笑いながらあたしとダレルのテーブルに来ると、テーブルに杖を立てかけて、ビールを買いに行った。

 タマラがビールを持って戻って来てから、あたしたち三人は乾杯した。でも、だからといって乾杯するほどのなにかがあるわけじゃなかった。ただ乾杯した。たぶん、乾杯するためのなにかを探したら、乾杯なんてする気がしなくなっちゃうだろう。

 結局、タマラとダレルはいつもとまったく同じ話題でいつもとまったく同じ笑い方をして、いつもと同じように酔っぱらって、いつもと同じようにハグしてた。彼らを見てると、単純な時間の流れの中を生きてるというのは、すごいことだなあと、いつも思う。彼らを見てると、昔、おばあちゃんの家の近くで海にもぐったときに見た、貝や魚を思い出すことがある。なんだか、共通点も理由もなにもなくて、ただ仲がいいように見えるから。

「ねえ。なんでダレルとタマラってそんなに仲いいの?」あたしは酔った勢いもあって訊いてみた。それを聞いたダレルはニコニコ笑いながら「タマラがなにも知らないからさ」と言った。

「じゃあタマラは?」とあたしは、今度はタマラのほうを向いた。タマラは歯をむき出してにったーと笑いながら「ダレルはなんでも知ってるかーらーよー」と言った。

「俺たちは夫婦みたいなもんだ」とダレルが言った。「バランスとれてるのさ。それに、お互いのことにはほとんど干渉しないから、一緒にいやすい」それを聞いたタマラが爆笑しながら「イエース、イエース!」と大声をあげた。

「じゃあ、ほんとに結婚すればいいのに」とあたしは言った。

「それはだーめー」とタマラ。ダレルは笑いながら「そんなことしたらバランス悪くなっちまう。共通のものがなにもないからいいんだ」と言った。そしてにやにやしながらこう付け足した。

「老いぼれには老いぼれなりに、都合のいい関係ってのがあるのさ」


3、
 ダレルとはいちばんよく話すけど、彼の昔の話はほとんどしない。いつも話すのは、彼が好きな作家の話や詩人の話ばかり。あたしは学校の勉強に必要な参考書とかは読むけど、それ以外はあんまり、というかぜんぜん本なんて読まないから、ダレルがなにを言ってるのか、ほとんど分からない。でも、あたしが聞いてるのをダレルは嬉しそうにしてるし、楽しそうなダレルを見てると楽しいから、ダレルの話は楽しい。

 このあいだは、ダレルの詩の話をした。彼と知り合ってずいぶんたつし、彼が詩人だっていうのは知ってたけど、詩の話はそれまでしたことがなかった。たぶん、ダレルが自作のぺらぺらした詩集をアート・センターに持ってこなかったら、まだあたしたちは詩の話なんてしてないと思う。

 詩集は『女たち』という名前で、黄緑色の表紙だった。ダレルはそんなに女好きに見えないから、ちょっと意外だった。ダレルは、自分はタイトルをつけるのが苦手だから、好きな作家の小説からパクったんだと言った。でも、いろんな女の人と生活してきたのは、どうやら本当みたいだった。

「俺は、詩と酒と女以外、なにも書くことがないのさ。おまけに詩だって勉強したわけじゃない。詩を書いてるけど、詩の世界になんて入っていくほど、書くことも実力もないよ」と彼は言う。「俺が書けるのはX軸のことじゃなくて、Y軸のことばっかりさ。ネタが無くなったらもう書けない。だから何人もの女と暮らしたんだけど、本当は詩よりも女のほうが好きだったんだろうな。そして、見てのとおりの歳。そろそろ書くことも、ネタを補充することもできなくなる」ダレルはそう言うと、上品なのかそうじゃないのかよく判らない笑い方をしてから、半分くらい残ってたビールを飲み干した。あたしには、彼が言ってるのがどういうことか、いまいちピンと来なかったのだけど、まあとにかく、彼はそれでいいんだろうと思った。

 ダレルはその日、詩の話ができたのがよほど嬉しかったのか、酔っ払うとすごく上機嫌になって、ぺらぺら詩集の中から自分の詩を読んでくれた。


『オルウェイズ』

 木曜の夜は
 いつものパブで一杯やってた。
 いつものビール
 いつもの煙草
 いつもと同じ考えごと
 いつもの俺

 だが、
 ひとつだけ
 いつもと違うことがあった。
 その夜俺は、
 そのパブにいたなかで
 いちばんいい女の隣だった。
 俺はいつもより少しいい気分だった。

 だが、その女は、
 そのへんで見かけるいい女と比べると
 あんまりいい女じゃなかった。
 俺は確かに彼女の隣で嬉しかったが、
 はたして嬉しくていいのか考えた。

 そして

 嬉しくてもいいか、
 という気分になった。
 いくら考えたところで
 結局嬉しいんだから、
 しょうがない。

 

『酒』

 酒は人を裏切らないと言うやつがいるが
 俺は信じない。
 なぜなら
 酒は人を裏切るからだ。


 そこまで読んで、ダレルはビールをもう一杯買いに行った。あたしは、詩の中で気になった言葉をいくつか頭の中で転がしてた。

 ダレルはすぐに戻ってきたけど、もう詩を読むのはやめたみたいで、ぺらぺら詩集はテーブルの上に閉じたままになってた。あたしたちはいつもみたいに黙ったまま飲んで、ときどき、ほんとうにどうでもいいようなことをちょっとだけ喋った。

 ビールの泡がぷつぷつと昇っていくのがとても綺麗で、グラスの端っこのほうでは、グラスの丸みのせいでもっと綺麗に見えた。そして、じっと見てれば見てるほど、なんだか不思議なものみたいに見えた。どれくらい見てたか分からないけど、あたしが目を上げたらダレルは相変わらず一人で楽しそうにニコニコしてた。そして、あたしが彼を見てるのに気づいて、もっとにっこりしてこう言った。

「ジュン、俺は歳をとったんだ」
「ダレルが?」
「そう、俺が。俺も若かったんだ。ジュンと同じくらいにな」
「そっかー。あたしと同じくらいのとき、あったんだね。どんなだった?」「今と同じさ」ダレルは溜息混じりにそう言う。
「そんなわけないじゃん」あたしは笑いながら言い返した。
「皺がなかったかな。ちょっとしか。でも、いちばん違うのは」ダレルはそう言うとちょっと険しい顔をしてから、またすぐにっこりして続けた。「俺の外見じゃなくて、俺が詩人になりたかったことだ」
「だって、ダレルって今詩人なんじゃないの?」
「ぜんぜん。こんなんじゃない、俺がなりたかったのは」

 ダレルはそう言うと、ビールをぐびぐび飲んだ。一パイントのグラスが、あっと言う間に空っぽになった。でもダレルは、次の一杯を買いに行こうとしなかった。

「ジュン、今夜ヒマか?」
 あたしはなにも予定がなかったから、ヒマだと答えた。
「そうか。じゃあちょっとうちに来てみるか?」
 あたしはなにも予定がなかったから、行くと答えた。

 さっさと革ジャンを着てバーを出て行くダレルを、あたしは残ったビールをぜんぶ飲んでから追いかけた。詩集がテーブルの上に置き去りになってて、あたしはそれを自分のリュックにしまった。

 アート・センターの入り口を出てベネディクト・ストリートに出ると、もうお店はほとんど閉まってて、開いてるのはパブだけだった。灯りが消えるといつも、街が広くなったような気がして、どっかから聞こえてくる誰かの笑い声や大声も、すごくまっすぐ聞こえてくる。広くなった街を歩くといつも、酔っぱらうと踊るようにしながら歩いた昔の彼氏を思い出す。日本で、新しい彼女を作ったって聞いた。

 あたしは、ちょっと酔っぱらってたし、自転車を持ってくのがめんどくさくなって、アート・センターの前につないだままにしてくことにした。

 ダレルのフラットは、アート・センターのすぐ近所だった。歩いてたら、拍子抜けするくらいすぐ着いた。古い石造りの建物で、ストリートに面してる部分はちゃんと綺麗なのに、横の壁はまっ黒だった。

「ねえ。なんで横は黒いの?」と、あたしは訊いた。ダレルは、玄関ポーチの鍵穴をガチャガチャやる手を止めて、あたしの方を向いた。

「それな。昔、みんなが暖炉使ってた頃のなごりなんだってさ。煙とすすのせいで、その頃は建物ぜんぶまっ黒だったんだってよ。それを、何十年だか前に掃除したらしいんだけど、手を抜いたんだろうな。正面だけ洗ったんだ」

「へー」

 あたしが満足して空を見てたら「おいで」とダレルが玄関ポーチのドアを開いたまま押さえながら呼んだ。あたしは彼について、フラットの中に入った。フラットの中は、なんだか普通の家みたいで、あたしが住んでるとことはずいぶん違った。壁とかはぜんぶ白くて、カーペットは薄いブルーだった。あたしたちはギシギシ鳴る階段を上がって二階に上った。二階には部屋がひとつしかなくて、そこがダレルの部屋だった。ダレルは鍵を回してドアを開くと「どうぞ」とだけ言って入って行って、灯りをつけた。

 部屋は思ったよりも広くて、深い赤のカーペットが敷いてあった。いちばん奥のほうに壁にくっつけるみたいに机が置いてあって、パソコンとプリンターが乗せてあった。机の横には、廊下のカーペットと同じような色をしたシーツのベッドがあった。部屋はけっこう片付いてたけど、あちこちに本が散らばってた。ドアの横にある本棚には、びっしりと本が並んでた。

「適当に、ベッドにでも座っててくれよ」とダレルが言ったから、あたしはベッドに座った。そうすると、ちょうど目の前にテレビがきた。

「あんまり明るいと落ち着かないんだ」ダレルはそう言うと、机の横に立ってる背の高いスタンドのスイッチをひねって、部屋の電気を消した。天井の白色灯が消えてスタンドの弱い光だけになると、部屋はまるで違って見えた。特に、部屋の隅のほうはすごく暗くなった。あたしは楽しくなって部屋中を見回した。壁のあちこちに汚れがついてるのが分かった。天井を見たら、スタンドの傘の形に丸く照らされてて、なんだか懐中電灯で照らしてるみたいだった。

 ダレルは机のところに行って椅子をこっちに向けて座ると、煙草を一本巻いて火をつけた。薄暗い灯りの中で見るダレルはなんだかいつもと違って見えた。皺がひとつひとつすごく目立って見えて、あたしはさっき「歳をとったんだ」って言ってたダレルを思い出した。

「ジュン」ダレルが煙草の煙を吐き出しながら言った。「ビデオ観るか?」
「なんの?」
「俺がいちばん好きなビデオだ。俺をいちばんダメにした作家のね」
「なんていうビデオ?」
「バーフライ。知らないだろ?」聞いたことのない映画だった。
「おもしろい?」
「俺は好きだ」
「じゃあ観る」

 あたしがそう答えると、ダレルは楽しそうに本棚のところに行って、まん中くらいの段からビデオテープを一本持ってきた。

「誰出てるの?」
「ミッキー・ローク」

 ダレルは答えながらテープをケースから出して、デッキに入れた。そしてテレビをつけて再生ボタンを押すと、あたしの隣に椅子を持ってきて座った。

「しばらく他の映画の予告編なんだ」

 彼はもう一本煙草を巻きながらそう言うと、続けて「チャールズ・ブコウスキーは知ってるか?」とあたしに訊いた。あたしは知らないと答えた。

「ロシアの人?」あたしが訊く。

「いや、アメリカ人。この映画の主人公なんだ。映画の中じゃあヘンリーって名前だけどな。いつもヘンリーって名前で、自伝小説を書くんだよ、ブコウスキーは」

「ブコウスキーはどうやってダレルをダメにしたの?」

「し、始まる」

 あたしはテレビの画面を見た。

 アメリカの裏路地っぽいとこにあるバーで、ミッキー・ロークがぐでんぐでんに酔っぱらいながら飲んで、喧嘩してた。あたしは、ミッキー・ロークが意外にかっこいいからびっくりした。

 ミッキー・ロークはホテル暮らしをしてて、バーに来た女の人と付き合うことになった。「あんないい女は初めてだ」みたいにミッキー・ロークは言ってたけど、彼女はおばさんだったし、肌も汚かった。

 ダレルのほうを見たら、すごく真剣に映画を観ながら、ずっと煙草を巻いては吸ってた。煙と彼の顔が、テレビの光の色につぎつぎと染まって、その向こうに、暗い部屋の隅っこが見えた。赤いカーペットが部屋の隅に向かって黒くなっていくのが綺麗で、あたしはなんだか目が離せなくなった。テレビからは、ずっと映画の音がしていた。

「このシーンがいいんだ」と、ダレルが突然言ったから、あたしはテレビを見た。ミッキー・ロークは彼女の部屋にいて、彼女の隣の部屋からは男と女の大喧嘩の声が聞こえてきていた。女のほうが殺されそうになってて、ミッキー・ロークはあわてて廊下に出て、隣のドアをぶち破った。あたしはほっとしたのだけど、中にいた年寄り夫婦はミッキー・ロークに「ほっといてくれ!」「そうよ!」と逆ギレ。あたしの左目の端っこのほうで、ダレルがいつもより大量の煙を吐き出すのが分かった。

「セ・ラ・ヴィ」とダレルがつぶやいた。

 あたしは、ぼーっと映画を観ていた。ダレルは、ときどきあたしの顔をちらちらと見ながら映画を観ていた。途中で一時停止して、ダレルがトイレに行って、キッチンの冷蔵庫からビールを持ってきた。あたしは、彼がビールを取ってる間にトイレに行きたくなったから行った。ふたりで缶を開けて乾杯して、再生ボタンを押した。

 ミッキー・ロークは詩を書いてて、その詩に目をつけた出版社の女の人が、彼の詩を出版しようとしてた。でも結局ミッキーはそれを断っちゃって、また汚い路地裏の暮らしに戻って行った。あたしはなんでだろうと思ってダレルのほうを見た。ダレルは真剣にテレビを観ながら、ゆっくりとうなづいた。あたしのほうは、ちらりとも見なかった。


 映画が終わって、ダレルはテレビを消してから巻き戻しボタンを押した。彼は無言で、あたしも何も言わなかった。部屋には、ビデオデッキがテープを巻き戻す、シャーっていう音だけがしてた。その音にすっかり慣れた頃にガチャッと音がして蒔き戻しが終わり、あたしはぎょっとした。ダレルが「どうだった?」とあたしに訊いた。

「おもしろかった」とあたしは答えた。「でも、なんで詩を出さなかったの?」
「なんでだと思う?」ダレルが笑う。
「わかんない」
「ほんとは出したかったのさ」
「じゃあ出せばいいのに」
「いや、出せないね」彼はそう言って、煙草を一口吸って、吐き出しながら「出せないね」ともう一回言った。なんで出せないか、説明しようとはしなかった。

「もう一本飲むか?」と、ダレルが訊いた。
「今何時?」
「まだ十時だ」
「じゃあ飲む」

 あたしが答えると、ダレルはもう一本ずつビールを持ってきた。あたしたちはもう一回乾杯して、また無言で飲んだ。

 ビールがもう少しでなくなりそうなときに、ダレルが「なあ」とあたしに話しかけてきた。

「なに?」とあたしが聞き返したら、ダレルはしばらく眉をひそめながら黙ったあとに、こう言った。

「頭、触っていいか?」

「いいよ」とあたしは答えた。ダレルは臆病そうに手を伸ばすと、あたしの後頭部を指でひっかくみたいに触ってから、手のひらで触れた。ゆっくりとダレルの手があたしの頭をなでた。あたしは、どんな顔をしていいのか分からなくなって、部屋の中をきょろきょろしたり、ビールで唇を濡らしたりしてた。

「人に触るのは久しぶりなんだ」とダレルが言った。でも、ダレルがタマラとハグしてるのを、あたしは見たことがある。
「タマラとハグしてたじゃん」
「違うよ」とダレルが言う。「そういうことじゃないんだ」
「じゃあどういうこと?」
「俺がもしヘンリーだったら、俺も詩が出せない。出したくても」そして、頭をなでる手の動きを止めて「そういうことだ」と言った。
「わかんない」
「そのうち分かる。今は考えなくていい」ダレルはあたしの頭から手を離さないようにしながら体をよじって、もう片方の手でビールの缶を取って、飲んだ。
「女ってのは、なんでも知ってるのか、それともなにも知らないのか、まったくどっちなのかね」彼はビールをぜんぶ飲み干して、缶を握りつぶした。そしてそれを床の上に投げ出すと、手を、あたしがビールを持ってる手にかぶせた。缶で冷えてた手があたしの体温ですぐに温まって、あたしの手よりもあったかくなった。頭をなでてる手が、少しだけ彼のほうに引き寄せられるのを感じた。
「どうしたの?」とあたしが訊いたら、ダレルは咳をしてから両手を離した。
「ああ」もう一回咳をして、続ける。「煙草が吸いたい」そう言うとポケットから葉っぱと紙が入ったゆがんだ缶のケースを取りだして、一本巻いた。
「ジュン。今日はもうお開きにしよう」彼は、ベッドの上に置いた灰皿で煙草をもみ消して立ち上がると、椅子を元あった場所まで戻した。あたしは缶に残ったビールを一気に飲もうとしたのだけど、手に持った感じよりもいっぱい残ってて、吐きそうになった。それでもなんとか無事に飲みこんで「そうしよっか」と立ち上がった。

 ふたりで上着を着て、またフラットの外に戻った。そのときになって初めて、あたしは自転車を置いてきたことを思い出した。でも、なんだか取りに戻るのがめんどくさかったから、バスかタクシーで帰ることに決めた。

「ねえ。あたし自転車置いてきちゃった。ミドーからバス乗る」
 ダレルは「送ってくよ」と言った。

 なんだか、来るときよりも外が暗くなったように感じた。空を見上げたらすごく黒くて、なんだか、風がどこから吹いてくるのか分かるような気持ちになった。顔を戻したら、ダレルはちょっと行ったところまでもう歩いてて、あたしが追いついてくるのを待ってるところだった。

 あたしたちは、誰もいないベネディクト・ストリートを並んで歩いた。
「今日はありがとう。楽しかったよ」と、ダレルが言った。
「ううん、あたしのほうこそありがとう。ビールと映画」
「あの映画は、人に観せたい映画だ。ジュンにも、観せられてよかったよ」
「そっかー。あたし、なんかそういうのあるかなあ」あたしは考えてみたんだけど、なにも思いつかなかった。
「なくてもいいのさ、そんなもの。それより、海外で暮らすっていうのはどんな感じなんだ?」
「楽しいよ。でも、ときどき寂しいよ」
「ホーム・シックか?」
「どうだろう。そうかも」
「分からないのか?」
「あんまり」あたしは笑いながら答えた。
「そうか」

 ベネディクト・ストリートはゆっくりと上りながらシティ・センターのほうに続いてる。ミドーまでは、まだまだけっこうあった。

「ねえ、ダレル。もうこのへんでいいよ。道分かるし」
「ああ、大丈夫」ダレルが言う。「毎晩この辺は散歩してるんだ。散歩がてら送るよ、ミドーまで」

「でもあたし、マーケット・プレイスからタクシー乗る」あたしはなんだか申し訳なくなって、そう言った。
「そうか。じゃあマーケット・プレイスまで」

 あたしたちは、またしばらく無言になった。

「俺もタマラもジョンもノーリッチしか知らん」と、デューク・ストリートを渡るあたりでダレルが話し出した。「まあ、他にもあちこち住んだが、もうずっと、死ぬまでここにいるんだろう。俺たちにとっては、日本も、オーストラリアも、フランスでさえも、あってもなくても変わらない。ノーリッチだってデカすぎる。ベネディクト・ストリートと、マグダレン・ストリートでしか、俺たちは生きていないんだ」
「そうなの?」
「そうさ。毎日その二本のストリートを行ったり来たり、行ったり来たり。もう、その生活に、なんの不満も感じない。俺は歳をとったんだ」

 あたしたちは右に曲がって、エクスチェンジ・ストリートを歩く。そして、坂道を上りきってから、誰もいないマーケット・プレイスに出た。テスコの前に、タクシーが二台停まっていた。

「あれ乗るね」とあたしが言うと、ダレルはにっこり笑って「今日は楽しかったよ」と右手を差し出した。
「また遊んでね」あたしは彼と握手してからそう言って、タクシーに乗り込んだ。
「デンマーク・ストア」あたしがそう言うと、タクシーはゆっくり走り出した。振り返ったら、ダレルはもう引き返してるところだった。あたしは、手を振ろうと思って用意してたのを引っこめた。


4、
 大学の帰りに食べ物を買おうと思って、アングリア・スクエアの冷凍食品屋さんに行った。アングリア・スクエアはその名のとおり四角い広場みたいになってて、そこを取り囲むようにして、いろんなお店がある。あんまり留学生が使うような場所じゃないんだけど、近いからよく行く。

 いつものとおり、お気に入りの冷凍マカロニ・パスタと冷凍チキン・ナゲットと冷凍オニオン・リングを買って、となりのお店でミネラル・ウォーターを買った。まっすぐ帰るのももったいなかったから、スクエアのベンチに座って、買ったばかりのミネラル・ウォーターを飲んだ。空はよく晴れてて、深い深い青だった。その空を見てたら、なんだかどっかに出かけたくなった。あたしは立ち上がると自転車に乗って、マウスホールド・ヒースに行くことにした。

 マウスホールド・ヒースはあたしのフラットの近くにある森で、まん中あたりが開けてる。そのあたりで寝転がると、空しか視界に入らないっていう場所があって、あたしはそこがすごく気に入ってる。今日はそこで日が暮れるまでごろごろしながら、CDでも聴いてたい気分。

 あたしは途中で一回フラットに寄って、冷凍庫に食べ物をしまうと、CDの棚から適当に何枚か引っぱり出してリュックに入れた。そして、フラットの玄関に立てかけておいた自転車に乗って、森のほうに走った。

 近づくにつれてだんだん家が少なくなる。ていうか、木にさえぎられて見えなくなる。砂利道に入るころにはもう建物なんてぜんぜん見えなくて、ほんの五分くらい走っただけなのに、まるで違う世界に来たみたいな感じになる。砂利道を百メートルくらいのぼると右側にすごく広い芝生があって、あたしはそこのベンチに自転車を繋いでおくことにする。そして、芝生を突っ切って、反対側に広がる森の中に入っていく。

 芝生が終わって森に入ると、とつぜん薄暗くなる。今日みたいに晴れてる日には、空気が薄い緑色に見えて、木の幹はまっ黒に見えて、とてもきれい。あたしは、小さい谷みたいになってる斜面を降りて、反対側に向かう。谷のいちばん底から上を見上げると、ずっと上のほうで木がたくさん葉をしげらせてて、まるで地底にでもいるみたいな気分になる。あたしはそのへんに落ちてる丸太に腰掛けると、リュックからミネラル・ウォーターを出してちょっとだけ飲んだ。そして、今度は登り。

 登りといってもそんなにキツくなくて、距離も短い。途中で、谷のほうに身を乗り出すみたいに生えてる木に座ると、まるで宙に浮いてるみたいですごく楽しい。そうやって、木に抱きついて過ごしたい気分のときもあって、そのときは、ここにくるようにしてる。でも、今日は空が見てたいから、止まらないで登る。

 登りきると、そこはまた別の砂利道になってて、さらに奥のほうへと伸びてる。あたしは足もとでわざと砂利を鳴らしながら、走るみたいにして歩く。ちょっと歩くと、あたしの背丈くらいのヒースがたくさん茂ってる野原に出る。そこを歩くとたいていトゲをひっかけて、足や腕に小さい傷ができる。でも、そこを抜ければすぐに目的地だ。

 歩いてる間じゅう、あたしは昨日ダレルが教えてくれた詩人の名前を思い出そうとしてた。ロシア人みたいな名前だったけど、アメリカ人。いったいなんだったっけ、と考えてるうちに、あたしはヒースの茂みを抜けてた。いちばん大好きな場所。

 地面は明るい色の土で、ところどころ芝生よりちょっと足が長い草に覆われてる。ぱっと見た感じだと平らなんだけど、意外にでこぼこしてる。あたしは適当に座りやすそうなところを見つけると、リュックを置いて、その横に座りこんだ。座ると急に気持ちが落ち着いて、風がどっちから吹いてくるのかが分かった。目をつぶって、左のほっぺたにあたる風の感触を楽しんだ。体の中でなにかがざわざわしてて、あたしは深呼吸した。深呼吸したらなんだかほっとして、そのときになって初めて、どっかからパシャパシャと音がしてるのに気づいた。

 目を開けてみたのだけど、周りには誰もいなかった。きっと、音は沼から聞こえてくるんだと思った。あたしが座ってるとこのすぐ近くに沼があって、ここからも見えてる。あたしはリュックを持って立ち上がると、沼のそばまで行ってみた。

 沼をのぞきこんでみて、あたしはびっくりした。水が黒かったから。ていうか、あんなにオタマジャクシが泳いでるのを見たのは初めてだったから。きっと一万匹くらい泳いでたと思う。そのせいで水面がぜんぶまっ黒に見えて、そのオタマジャクシが泳ぐ音が、あたりに満ちてた。あたしはリュックからカメラを出して、写真を何枚か撮った。そして目をつぶった。遠くの木の上を風が渡っていく音と、オタマジャクシの音しか聞こえなかった。胸に手をあててみたら、心臓が動いてた。胸に手をあてたまま目を開けて、空を見上げてみたら、空はまるで青いドームみたいにまん丸に、あたしの上をすっぽり覆ってた。大きい雲が流れてて、あたしはそのとき産まれて初めて、雲がすこし紫色をしてるのを知った。そしたら、雲を見てるのが楽しくなって、あたしは沼のすぐ横にひろがる草の上に寝転がって、ずっと雲を見てた。ゆっくり動く薄い紫色と、風とオタマジャクシの音。そして、その場所にはあたししかいなくて、バスで十分くらい行ったシティ・センターでは、人があくせく動いたり、車がクラクションを鳴らしたりしてる。タマラはきっとプリンセスにいて、ダレルはお酒でも飲んでるんだろう。

 しばらくそうやってたら眠くなってきて、なんだか太陽が邪魔になってしまったから、ハンカチをリュックから出して、顔の上にかぶせた。




5、
 水曜日。本当は夜の八時まで学校だったんだけど、その日は休講になった。あたしはなんだか休みを貰ったみたいで嬉しくて、学校から帰る途中でプリンセスに寄ってみた。

 お店にはタマラしかいなくて、ソファに座って雑誌を読んでるところだった。あたしがガラス戸をノックしたら、雑誌から顔を上げて、嬉しそうに歯をむき出して笑いながら立ち上がると、内側からドアを開けてくれた。あたしが入ってくと、彼女はハグしながら「いらっしゃーいー」と言った。もう夕方五時くらいだったから、あたしは、誰もいないのはなんだか不思議だと思った。誰も来なかったのか訊いてみようと思ったんだけど、タマラは奥のほうでなにかゴソゴソやってた。あたしは大きい声を出すのがめんどくさくて、ソファでテレビを観ながらぼんやりしてた。

 しばらくあちこちのチャンネルを回しながら面白い番組を探してたら、タマラがやってきた。

「ねえ、今日送ってって欲しいーのー」と彼女が言った。
「送るって、どこまで?」
「うーちーまーでーよー」

 あたしはちょっと迷ったのだけど、なんだか困ってるみたいだったから、送ってってあげることにした。あたしが「いいよ」と言うと、タマラは帰る準備をし始めた。あたしはまたテレビを観ながら、彼女が準備し終わるのを待って、一緒にお店を閉めた。

 あたしたちはアングリア・スクエアのところから裏道を抜けて、細い坂道を上がった。自転車を押してるせいで、ちょっと腕がしびれた。登り切るとこんどは大きい、いつもあたしが学校に行くのに通る道路に合流した。タマラのフラットは、その道をまっすぐ行った、トイザらスの手前にあった。

「ねえタマラ。なんで送ってって欲しかったの?」
「最近ねぇ、ちょっと不安なのよ。いろいろあって」と、彼女は言った。なんだか本当に不安そうな顔をしたから、あたしはそれ以上訊かなかった。

 彼女のフラットの前で、寄ってくか訊かれたけど、あたしは帰ることにした。

 金曜日は行かなかったのだけど、月曜日に、またあたしはプリンセスに行った。その日のタマラはなんだかすごく思い詰めてて、ぱっと見てイライラしてた。お店にはまた誰もいなくて、あたしは「ダレルでも来ないかなあ」と思ってたんだけど、来ないうちにタマラがお店を閉め始めた。

「悪いけど、今日も送ってちょうだい」彼女がいつもより早口で言った。あたしは、また送ってあげることにした。

 フラットの前で、また誘われたけど、また断った。

 帰り道、あたしはなんだかダレルに会いたくなった。そのまま引き返して、ダレルのフラットに行ってみようかとも思ったのだけど、途中でタマラのフラットの前を通るのになんだか気が引けて、結局まっすぐ帰った。

 月曜日、あたしはまたプリンセスに行ってみた。でも、ダレルはまたいなかった。タマラはまた一人で、また、あたしに送ってくれとせがんだ。あたしは、彼女に「自転車貸してあげる。ずっと使ってていいから」と言って、無理矢理お店を出て、アングリア・スクエアの前からバスに乗って帰った。そして、それからプリンセスには行かないようにした。


6、
 タマラに自転車をあげてしまってから、あたしはずっとバスを使ってる。うちの前から二一番か二二番のバスに乗って、キャッスル・ミドーで二五番か二六番か二七番に乗り換えれば、学校に着く。自転車で走るのも好きだけど、バスも嫌いじゃない。のんびりと窓の外を見てるのは、楽しい。

 水曜日、あたしは八時過ぎに大学を出て、シティ・センターでちょっと買い物をしてからうちのほうに戻るバスに乗った。バスは、ノーリッチ・カセドラルの前を通るのだけど、このくらいの時間になるとライト・アップされて、いつもより綺麗に見える。あたしはバスの右側の席に座って、カセドラルの塔を見上げながら、マグダレン・ストリートに入った。カセドラルは、すぐに他の建物の陰に見えなくなってしまって、あたしは授業で出された課題のプリントをリュックから出した。それをずっと読んでたら、アングリア・スクエアでバスが停まって、買い物帰りの人たちがいっぱい乗ってきた。降りる人もいっぱいいて、バスはしばらく動き出しそうもなかった。

 そのとき、バスの中の人がいっせいに右側を見た。女の人と男の人が怒鳴りあう声がしたからだ。あたしもそっちのほうを見てみたのだけど、最初は、声がどこから聞こえてくるのか分からなかった。

 声がだんだん近づいてくる。そして、タマラの姿が見えた。声と一緒にだんだん近づいてくる。後ろから走るようにしながら追っかけてくるのはジョンだった。タマラは、そのジョンのほうをときどき振り返りながら怒鳴っていた。

「あんたよ! あんたがやったのよ! 知ってるんだからね、あたしは!」
「違う違う! 聞いてくれ、さっきから言ってるだろう!」
「うるさい! うるさい!」タマラがヒステリックに何度も怒鳴る。あたしは、なんだか放っておけなくなって、バスを降りることにした。

 並んでる人を押しのけるみたいにしてタラップから降りようとしたら、誰かが「いてえ!」と叫ぶのが聞こえた。あたしは、そっちは向かずに「すみません!」とだけ答えて、大慌てでバスを飛び降りた。タマラとジョンは早足で、もうバスの横なんてとっくに通り過ぎてた。まだなにか大声で言い合いしてたけど、なにを言ってるのかまでは、分からなかった。あたしは、道路の反対側を走りながら、ふたりに近づいた。だんだん、声がはっきり聞こえるようになってきた。あたしは、もっとはっきり聞き取ろうと、耳を傾けながら走った。

「あんたが殺したんだ! あたしゃ知ってるんだよ! あんただ!」タマラは、半泣きになって叫んでるようだった。
「違うよタマラ、僕じゃない! 確かに喧嘩はしたが、僕じゃない! やったのはあのパブにいた他のやつだ! みんな知ってる!」

 殺した? 誰かが死んだんだ。ダレルが死んだ? あたしは、もしかしたらダレルがそのへんを追っかけてきてるんじゃないかと思って、後ろを振り向いた。でも、ダレルは見あたらなくて、通行人たちがタマラとジョンのほうをあっけにとられて見てるだけだった。また前を向いたら、タマラがあたしのほうを向いて立ち止まってるのが見えた。ジョンはようやくタマラに追いつき、彼女の両肩をつかんで「僕じゃない! 違う!」と叫んでた。

「ジューーーーン! ジョンがダレルを殺したんだよ、ジューーーーーン!」

 タマラの大声が、お店が閉まり始めたマグダレン・ストリートに響き渡った。あたしの名前を聞いたジョンが、タマラの視線を追ってあたしを見つけた。そして「違うんだ、タマラは誤解してる! 殺したのは僕じゃない! 僕じゃない!」と怒鳴った。

 タマラの肩をつかんだままあたしのほうを向いていたジョンを、彼女が両手で突き飛ばした。ジョンは石の舗道にしりもちをつくみたいに倒れた。タマラは、持ってた杖でジョンを殴り始めた。

「嘘つき! 嘘つき! あんただ! あんたがダレルを殺したんだ!」

 ジョンは短く叫び声をあげながら、必死に両手を顔の前にかざして杖をつかみ取ろうとしていた。だけど、そうすればするほどタマラは逆上して、もっと強くジョンを殴りつけた。

「いいいいいやあああああああ!」
 あたしは、気づいたときには叫んでた。
「いやああああああ!」

 自分でも、なにが怖いのか分からなかったけど、なんだか、ストリートぜんぶが怖かった。あたしはタマラとジョンを道路の反対側に置き去りにして、自分のフラットのほうに全力で走り出してた。プリンセスの前を通り過ぎるときも、お店のほうを向くことができなかった。後ろではまだ、タマラとジョンが喧嘩してるのかもしれなかったけど、なんだか、別世界のことみたいに思えた。ふたりとも、知らない人。

 途中で息が切れたけど、それでも走るのはやめられなかった。ようやく、いつも晩ご飯を買う中華料理屋さんが見えて、あたしは、やっと現実に戻ってきたような気がした。中を覗きこんだらいつものおばちゃんが忙しそうに働いてた。あたしは、なんだか彼女と話したくなって、お店に入った。

「こんにちは」あたしが話しかけると、おばちゃんは働く手を止めて「いらっしゃい」と言った。

「中華ちまきひとつ」注文すると、おばちゃんはガラスケースの中からひとつ取りだして、あたしに手渡してくれた。あたしはお金を払って「ありがとう」と言うと店を出た。

 お店の横の信号を渡りながら、ちまきを一口かじった。そしたらなんだか涙が溢れてきて、あたしは食べるような気分じゃなくなって、下を向きながらフラットのほうに曲がった。涙がどんどん出た。そのまま帰ろうかと思ったけど、あたしはオタマジャクシの沼に行きたくなった。

 谷を降りて、登って、砂利道を歩いて、ヒースの茂みを抜けた。沼のほとりに行って中を覗きながらしゃがみこむと、オタマジャクシがいっぱい泳いでた。黒い水面に、あたしの顔がうつってた。オタマジャクシが泳ぐせいで小さい波が立ってて、ちょっと歪んでた。でも、あたしが泣いてるのは分かった。あたしは、なんだか久しぶりに自分の顔を見た気がした。

 そういえば、前に沼に行ったのはダレルに会った後だった。あの日、あたしは「なんとかスキー」の名前が思い出せなくて、ここでずっと考えてた。そう思ったら、なんだかダレルのことで頭がいっぱいになった。真剣な顔で煙を吹き出しながらビデオを観てたダレルと、その向こうに見えた赤いカーペットを、やたら鮮明に思い出した。あたしはこないだ寝転がったのと同じ場所に寝転がって、目を閉じた。あのときと同じように、オタマジャクシが泳ぐ音と、風が木を渡っていく音が聞こえた。胸に手をあてたら、あの日よりも鼓動が速かった。あたしは、リュックからハンカチを出して、涙を拭いて、鼻をぬぐった。

 リュックにハンカチを戻したら、黄緑色の紙が見えた。そういえば、ダレルの詩集を入れっぱなしにしてあったのを思い出した。あたしは詩集を引っぱり出すと、あの日彼が読んでくれた詩を探した。『オルウェイズ』

 木曜の夜は
 いつものパブで一杯やってた。
 いつものビール
 いつもの煙草
 いつもと同じ考えごと
 いつもの俺

 小さく声に出して読んだら、なんだかダレルがあの夜に一緒に歩きながら言ってたことを思い出した。

「俺たちにとっては、日本も、オーストラリアも、フランスでさえも、あってもなくても変わらない。ノーリッチだってデカすぎる。ベネディクト・ストリートと、マグダレン・ストリートでしか、俺たちは生きていないんだ」

 あたしは、なんだか悲しくなってきた。ダレルのことも、タマラのことも、ジョンのことも、あんまりよく知らなかった。でも、なんでこんなに悲しくなったんだろうと思った。

 もう涙は止まってたけど、気分はさっきと変わらなかった。あたしは寝そべったまま、詩集をパラパラめくった。そして、ひとつの詩に目が留まった。『ストリート』という詩。

 俺は
 地球が丸いって知ってる。
 いくつも
 大陸があるのを知ってる。
 五十億人くらい
 人が生きてるのも知ってる。

 でも、

 俺は
 このストリートしか知らない。


 あたしは、そこだけ何回も読んだ。そして、ミッキー・ロークを思い出した。
 路地裏のパブで喧嘩してたミッキー・ローク。
 詩を出版しなかったミッキー・ローク。
 カップルの車にいやがらせしたミッキー・ローク。

 あたしはもう一回泣いた。そして、涙が止まるのを待ってから、フラットに帰った。詩集はリュックに戻さないで、手に持ったまま帰った。

 部屋に戻ってからは、なんだかご飯を食べる気も、勉強をする気も起きなかった。ベッドルームを暗くしたまま、横になってずっと布団に抱きついてた。後頭部を触ってたダレルの手の感触が、すごくくっきりと思い出せた。あたしは後頭部に手を置いて、自分の頭をなでたり引っかいたりした。あたしは、自分はどんな世界に生きてるんだろうと、ぼんやり考えた。でも、自分がいったいどんな世界を知らないのか、あんまり分からなかった。そして、考えれば考えるほど、ビデオを観ていたダレルの横顔と、イライラしながらいつもより早口で喋るタマラばかり思い出した。

その夜あたしは、タマラが編んでくれたエクステンションをぜんぶほどいた。


7、
 あれからすっかり、あたしはプリンセスに寄らなくなった。行ったらそこにダレルの死体があるような気もしたし、ダレルが笑ってるような気もした。でも、そのどっちを見るのもなんとなく怖かったから。

 だけど、今日はひさしぶりに顔を出してみた。明日、あたしは日本に帰らなくちゃいけないから。タマラはあたしの顔を見てびっくりもしなかったし、ひさしぶりだとも言わなかったし、いきなり来た理由も訊かなかった。ただ嬉しそうにして、一年前と同じ顔で笑いながら、一年前と同じ言いかたで「ジューン!」と言った。あたしはお店にくるまでずっとなんて言えばいいのか考えてたから、拍子抜けしてしまった。ダレルは、タマラとはお互いになにも干渉しないから一緒にいやすいんだと言ってた。あたしはなんか、その気持ちが分かったような気になった。ダレルのことを考えたら、目が自然とタマラの絵のほうに向いた。一年前に画鋲でとめられてた絵は、どっかから拾って来たっぽい木の額に飾られてた。絵の二倍くらい額が大きくて、なんだかおかしかった。

「明日、日本に帰るの」と、あたしは言った。
「そうなのー? げーんーきーでーねー」と、彼女は言った。それから例の笑顔でにったーと笑うと、タマラのまっ赤な唇とまっ白い歯が周りの風景をぜんぶ打ち消してしまったみたいに感じた。

 あたしはタマラとハグして、いつもの調子でバイバイした。彼女は「また遊びにきてね」とも「手紙ちょうだいね」とも言わなかった。なんだか、あたしまでこのストリートの住人の仲間入りをしてしまったようで、ちょっとくすぐったかった。ずっと感じてた胸のつかえが取れたような気分で空を見上げたら、風がどこから吹いてくるのか分かるような気がした。

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