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もってる男 神保町移転ものがたり その3

「社長が来ないんですけど」

 京王線笹塚の十号通り商店街を抜け、よもやこんなところに会社があるのか?と北も南の東も西も二階建ての住宅に埋め尽くされ不安になった頃にたどり着く本の雑誌社のオフィスで浜田が叫んだのは引っ越し当日の朝だった。

 いまだ机の周りの詰め込み作業が終わらず段ボールにやたらめったらものを投げ込んでいた編集の松村が「なにー?!」と叫んで返す。

「社長、ぎっくり腰になっちゃったんですって!」

 本の雑誌の歴史を振り返る上で、こんな便利なものがあるのかと我ながら感に堪えないのだが、「炎の営業日誌」には克明にその日の様子が綴られていたので、すこし長くなるがここに引用しようと思う。

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2002年6月2日(土)

 ワールド・ベースボール・クラシックでイチローは決勝戦で劇的タイムリーヒットを放ち、復興支援チャリティーマッチではキング・カズこと三浦知良はゴールを決め、ワールドカップ女子決勝戦では延長後半に同点ゴールを澤穂希が決めた。スーパースターのスーパースターたる所以は、大事なところで想像を超える結果を残す、いわゆる"もってる"人間なのであるけれど、本の雑誌社にもまさに"もってる"スーパースターがいたのである。

 それは19年間慣れ親しんだ街・笹塚から神保町へ本の雑誌社が引越す当日の朝のことであった。
 スーパースターは、自宅の駐車場で車に積んであった荷物、そう、それは前の晩に笹塚のドラッグストアで買い溜めした「バスマジックリン」12本だったのだが、それを持ち上げた瞬間、文字通り腰が「ぎっくり」と悲鳴を上げたのであった。

 「あわわわわ」と腰を抑え座り込んだスーパースターはそのまま立ち上がることが出来ず、運良く手元にあった携帯電話を取り出すと、すぐそこの自宅で掃除機をかけている妻の携帯を鳴らした。

「ぎ、ぎっくり腰になっちゃって。動けないんだけれど」

 大慌てで出てきた妻の前には、19年振りの引っ越しの朝にぎっくり腰になった"もってる"男、スーパースター浜本茂が倒れていたのである。

 ……というわけで、朝9時集合で始まった本の雑誌社の引っ越しは、会社史上初の社長不在の引っ越しとなったのである。いたほうがよかったのか、いないほうがよかったのかは、社員それぞれに訊いていただきたい。

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 浜本茂、当時何歳だったのだろうか。今が60過ぎのはずなので、52歳くらいだろうか。いやこれは老化の問題ではなく、人間性の問題だろう。この日以外も、例えば町田市民文学館 ことばらんどで開催された「本の雑誌厄よけ展」のメインイベントとして行われた「公開編集会議」でも、当日になって「インフルエンザになってしまったのでお休みします」とまさかの編集長欠席の報告をしてきたほどで、他にも同様の例は枚挙暇がなく、この日の引越し当日のぎっくり腰も、社員たちは「ああ、またね」とどこか予測していた事態として軽く受け止めたのだった。

 それにしてもこの日が来るまでが大変だった。引っ越しなんて部屋さえ決まれば終わったも同然と考えていたのがもちろんそんなことはなく、まず何より笹塚の事務所より3分の2の床面積になってしまうため、荷物を減らさねばならない。

 20年居た笹塚のビルには必要かもしれないがいつ必要になるかわからないものというのが山のように堆積されていた。各社の歴代文庫解説目録、書籍総目録、辞書百科事典の類、ありとあらゆる出版関係の資料、もはやそれらを持っていくことは困難であるのはひと目でわかった。

「全部処分します!」

 もはや完全ショート気味の引越部部長の事務の浜田が高らかに宣言すると、ハイエナのように浜本が、「これはうちに持って帰ろう」と大量の本を車に詰め込み、それと肩をぶつけながら助っ人の学生がガリンペイロのように宝物を探す。確か助っ人の天野くんは、講談社文芸文庫を大量に発掘し、一攫千金(もちろん売らずに蔵書として)を得たのであったか。残った古書は、西荻窪の音羽館さんに引き取っていただき、そうして少しずつ引っ越し先に入る量に荷物を減らしていったのだった。

 引っ越しと同時にもうひとつ大きな仕事が私には課せられていた。

 それは引越し先である神保町に君臨する泣く子も黙るというか本好きならば入店と同時に黙ってしまう東京堂書店さんで引っ越しと同時に開催していただく「本の雑誌が神保町にやってきたフェア」の準備に大わらわだったのだ。

 そもそもの発端は神保町に引っ越しが決まってすぐ、東京堂書店の河合さんに報告にいったときのことだった。

「おすぎ! それならうちでどかーんと本の雑誌のフェアやろう!!」

 なぜに河合さんが私のことを「おすぎ」と呼ぶかというと、実はこの河合さん、かつては東京駅の八重洲ブックセンターに勤めており、その頃私はその八重洲ブックセンターでアルバイトしていたのである。

 河合さんとは所属するフロアが異なっていたので、直接仕事を教わることがなかったのだけれど、ある日終電を乗り過ごした私がなりゆきで河合さんともども社員の人の家に泊まることとなり、そこで麻雀をしたことから目をかけていただくようになったのだ。そうして私がバイトをやめ、紆余曲折あり医学書の出版社経由で本の雑誌社に入社したのだけれど、その間ずっとずっと面倒を見ていただいていたのである。

 その河合さんが、「これは本の雑誌の一大事!」と思い、すぐにお店の棚を何本も開けてフェアをしてくれるというのだ。しかも何を売ってもいい、バーコードのついてない古いバックナンバーでもなんでも持ってこい!というのである。ちょうど社内はただいまお宝発掘の状況で、売れるかどうかはわからないけれど、売れたらありがたいものは山のようにあった。

 それらをひとまとめにして東京堂書店さんに納品し、6月1日より「本の雑誌が神保町にやってきたフェア」がスタートしたのである。ちなみにこのフェアは大好評のおかげで期間延長となり、このフェアの売上で心配ごとだった引っ越し代のほとんどがカバーできたというありがたいありがたいフェアなのだった。

 もはやこのときから9年の月日が流れ、記憶も不確かなので、またもや「炎の営業日誌」より引用しようと思う。

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6月3日(日)

 昨日は引越し屋さんが荷物を運び込むまでで日が暮れてしまい、その時点でもはや段ボールを開ける気力もなくなり、事務の浜田は初めて神保町へ自転車で来たもんだから明るいうちに帰りたいと言い出し、大して汗もかいていない単行本編集の宮里潤は明るいうちから酒が飲みたいと訴えだし、仕方なくその時点で引越し作業終了し、神保町といえばランチョンということで、潤ちゃんとふたり、生ビールで乾杯したのであった。

 そして今日。考えてみれば休日出勤なのであるけれど、もはや休日も平日もなんだかわからず、とにかく新オフィス入り口にうず高く積まれた段ボール約100箱を開けなければ来週から仕事ができないではないかと、勤勉な営業部員2名(私と浜田)そして優秀な助っ人・鈴木センパイ3名は朝10時にオフィスの入り口に立つと、上着を脱ぎ捨て、頭にタオルを撒いて、浜田の罵声を浴びながら段ボールを開封、整理整頓の2時間1本勝負に突入したのである。

 出てくるのは基本的に本、本、本。私たちは本が好きでこの世界に入ったわけだけれど、正直にここに告白する。もう本は嫌いです。だって重いし、重いし、重いし、重いし。どうして私たちがぎっくり腰にならず、バスマジックリン野郎がぎっくり腰になったのか神のみぞ知る。というか本日も当然ながら"もってる男"スーパースターの浜本は来ない。

 しかし勤勉で単純肉体労働の得意な私たち3名は、開封作業2時間後には段ボール92箱全てを開封し(スーパースターの荷物だけはそのままにした)両手を天に突き上げると「終了!」と雄叫びをあげたのだった。

 なぜかその瞬間に編集部の松村と経理の小林と元助っ人で現在古本弁護士となったオーツカ青年がやって来たのは謎だ。謎といえば、3時半になって編集の宮里潤はやってくるなり、こちょこちょと机を拭いて「さあ、そろそろ引越し祝いに行きますか」と口元でコップを傾ける仕草をするのであった。

 16時半。ハッピーアワーと書かれた居酒屋に飛び込むと私たちは狂ったように生ビールとレモンサワーとホイスを流し込み、スーパースター浜本茂について語り明かしたのである。

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 すっかり忘れていたのだが、この日曜日、神保町の「大衆酒場 けいちゃん」で私と浜田と助っ人アルバイトの鈴木くんと3人で飲んだらしい。浜田はそのときのことを克明に覚えており、「とにかくあの酒は美味しかった」と遠くを見つめるのだった。

 そうして事務の浜田は事あるごとに「二度と引っ越しはしたくない」と言っているのだが、実は私、引っ越しが楽しかったのである。引っ越しこそが青春なのではないかとすら思っている。できればもう一度、引っ越ししたい。もちろん神保町内で。

(つづく?)

※ヘッダー写真は引っ越しの際に社員全員に椎名さんがくれたチベットのお守り。

本の雑誌社 杉江由次
本の雑誌社たったひとりの営業部員。著書に「『本の雑誌』炎の営業日誌」(無明舎出版)、『サッカーデイズ』(小学館文庫)、共著に『フットボールサミット第5回 拝啓、浦和レッズ様」(カンゼン)等がある。

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