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本屋大賞ができるまで(仮)

「炎の営業日誌」で突然はじまった「本屋大賞ができるまで」の話をこちらにまとめて掲載して参ります。はたしていつまで続くのかわかりませんが…。(本の雑誌社 杉江由次)

第1章 それは飲み会から始まった

第1話 朝の電話が世界を変える

 午後は本屋大賞実行委員会の中野さんと内田さんがやってきて、20周年に向けての打ち合わせ。思い返せば20年前、この二人(+志藤さん)と新宿の陶玄房で飲んでいたところから本屋大賞は始まったのだった。

あのとき(2003年1月下旬)はこの「WEB本の雑誌」でPOP王の連載を始めるにあたって運営の博報堂の中野さん(43歳)とシステムのユーピー(当時はBDI)の志藤さん(30歳)にPOP王こと三省堂書店・内田さん(33歳)を紹介する飲み会だったのだが、いつしかすっかり打ち解け、数週間前に受賞作なしで終わった直木賞(第128回)の話題となり、だったら自分たち(書店員)が選ぶ賞を作ればいいんじゃないの?なんて話になり、当時普及し始めたインターネットやプログラムを組めば投票も集計も簡単にできますよなんて現実的な話も出て、その夜は大いに盛り上がり、終電間際にお開きになったのだった。
 そんな酒場の戯言などきれいさっぱり忘れていた僕の携帯に翌朝中野さんが電話してきて、「昨日の話、ちょっと具体的にできないか検討してみませんか」と言ってきたのだ。それが本屋大賞の始まりだった。
 あれから20年。すべてが「まさか」の連続だったといっても過言ではない。

第2話 実行委員会を立ち上げろ

 中野さんから電話をもらったその日、出社してきてすぐの浜本(43歳)に前夜の飲み会の内容を含め、「書店員さんが選ぶ賞みたいなものを作ろうと思うんですが」と報告した。
 当時は笹塚にあった本の雑誌社は2フロアから1フロアに縮小し、編集部も営業部も狭いフロアに机を並べていたのだが、編集部は各自がパーテンションで仕切り、迷路のような感じのその最奥に浜本の机があった。
 ぼくは本の雑誌社入社6年目の31歳だった。浜本は目黒さんから発行人の座を受け継ぎ2年目。うず高く書類が積まれたその中に座る浜本の反応は鈍く、特になんの言葉も返ってこなかった。
 今考えれば会社に来てすぐ興奮した部下が雲をつかむような話をしてきたところでどう対応していいのかわからなかったのかもしれないが、当時のぼくは「どうしてこんな面白そうなことが始まるかもしれないのにこの人は興奮しないんだろうか」と憤りを感じつつ自分の机に戻った。「まあいいや。これは会社と関係なく個人で取り組むプロジェクトにすればいいんだ」と思ったのだった。
 中野さんからは「まずは実行委員会みたいなものを作りましょう。杉江さんはこういうことに興味をもってくれる書店員さんに声をかけてくれませんか」と言われていたのだが、そうなると一週間前にあった飲み会の顔ぶれが思い浮かんだ。
 それは名古屋の丸善から御茶ノ水の丸善へ異動してくる藤坂さん(44歳)を歓迎する飲み会で、藤坂さんから「そっちの面白い書店員さん集めて紹介してよ」という無茶振りに当時日販から楽天ブックスに出向していた古幡さん(27歳)が幹事をし開催した飲み会だった。
 ちなみに古幡さんとぼくが出会ったのは、その少し前、飯田橋にあった深夜プラス1の店長浅沼さんを囲む飲み会で、そこに東京創元社の矢口さんが古幡さんを連れてきたのだ。元気の良い女性で、楽天ブックスに自身の言葉で本を紹介しているコーナーが作られており、それを毎日更新していた。毎日更新しているということは、毎日本を読んでいるということであり、要するに本が大好きな人だった。
 その古幡さんが声をかけ、御茶ノ水の駅前の居酒屋「福の家」に集まったのは25名を超える書店員・出版社の人間で、顔ぶれは多彩だった。あの頃、カリスマ書店員と呼ばれ注目を集めていた往来堂書店の安藤哲也さん(このときにはすでにbk1か別のところで活躍されていたような気がする)、「本の雑誌」でもおなじみだった茶木則雄さんはときわ書房で書店員に復帰した頃だったか。さらには都内各所の大型書店の文芸担当者が顔を並べていた。
 当時、まだそれほどお店を越えての書店員さんの横のつながりがなかったもので、いつも個別に会っている人たちが一つの机で向き合って、酒を飲んでいるのがとても不思議に思えたものだ。
 飲み会では今後互いに新刊や売れ筋などの情報交換をしていこうとメーリングリストの開設が提案され、それはそこに同席していた新潮社でネット書店担当だった大西さんが作成することになった。
 中野さんからまずなによりも一度ちょっと改めて話しましょうと言われていたので、ぼくはすぐに古幡さんに連絡を入れた。「これこれこうでこんなことを考えているんですが」と言うと古幡さんはすぐに興味を示してくれた。そして一週間後、当時田町にあった博報堂で待ち合わせすることになったのだった。

第3話 ぼくは出版業界の坂本龍馬になる!

 約束の時間が近づいても博報堂のある田町のグランパークタワーに古幡さんはやってこなかった。博報堂を訪れるのは初めてのことで、ぼくはえらく緊張し、ドキドキしていた。
 このグランパークタワーの一階には流水書房田町店があり、ここの店長さんは高津淳のペンネームで業界紙などで本屋エッセイを執筆し、『明けても暮れても本屋のホンネ』(トゥーヴァージンズ)を出版する名物書店員だった。
 ひとりでエントランスに立っているのが耐えきれず、外に出てきょろきょろしてしていると古幡さんから携帯に電話が届いた。
 迷っているという。田町駅芝浦口から徒歩5分程度のところなのだが、どうしてここで迷うのだろうか。古幡さんも浮き足立っているということだろうか。浮き足立つのは私も一緒なのだが、遅刻して博報堂の人たちを腹立てるのは非常にまずいので、古幡さんを走って迎えに行き、どうにか約束の時間ギリギリで博報堂の中に入って行った。
 黒歴史というのはそのときには「黒」になるなんてまったく考えていない。何気なく発した言葉やとった行動が、後から考えると恥ずかしいものとなり、黒歴史と呼ばれるのである。
 指定されたフロアに向かうエレベーターのなかでぼくが放った一言は、今では恥ずかしいかぎりの黒歴史だ。消しゴムでその発言と記憶を真っ白に消してしまいたいし、ここで書き記すのも穴があったら飛び込んでしまいたいほど恥ずかしい。ぼくは乗り込んだエレベータの中で古幡さんにこう言ったのだった。
「ぼくは出版界の坂本龍馬になりますよ」
 なんでそんなことを当然言い出してしまったのかというと、当時ぼくは今更ながら読み出した司馬遼太郎の著作にどっぷりハマっていたのだ。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『峠』『世に棲む日日』『花神』と幕末ものを続けて読んでいたところだった。
 一番憧れたのは「おもしろきこともなき世をおもしろく」と辞世の句を詠んだ高杉晋作だったのだが、このシチュエーションは高杉晋作ではない。敵対していた薩長に同盟をむすばせた龍馬ように、書店や版元や取次の垣根を超えた販促を作る...そんなことから思わず恥ずかしい宣言をしてしまったのだ。
 ところがそれを聞いた古幡さんもやはりどうかしていた。古幡さんはどんどん数字が増えていく回数表示を見つめながら、「私たちが何年後かに『プロジェクトX』に出るときは、このエレベーターのシーンが必ず入りますね。『杉江は言った。オレは出版界の坂本龍馬になる』とね」と返したのだった。
 黒歴史を背負ったふたりだったが、自分たちがこれから大それたことをしようとしているという確信だけはあった。
 緊張して博報堂のあるフロアーに着くと、そこには中野さんが待っており、すぐにもうひとり人がやってきた。それが嶋浩一郎さん(34歳)だった。
 嶋さんは今では博報堂ケトルの代表として活躍し、著作も多数ある有名クリエイティブディレクターだが、当時は博報堂が出している「広告」の編集長で、売り出し中の社員だった。俯き加減でもごもごとまるで独り言のように話しつつも、博識で説得力があり、議論の問題点がどこにあるか見極め解決策を考えるのがとても上手な人だった。
 ちなみに本の雑誌社と博報堂の結びつきは、その3年前に開設したホームページ「WEB本の雑誌」に始まる。当時、徐々にネットのコンテンツが普及し始めた中で、出版関係で何かネット展開できるものはないか考えていた博報堂(中野さんなど)が、地方小出版流通センターの川上さんに相談に行ったところ、「本の雑誌」と組めばいいのではとアドバイスを受け、本の雑誌社にやってきたのだった。
 ぼくはその頃入社3年目で営業で本屋さんを廻るので精一杯であり、そこで目黒さんや浜本とどんな打ち合わせがあったのかわからない。ただこの日記を書くようにという厳命がくだされ、それ以来これを綴っているわけだが、要するに「WEB本の雑誌」はコンテンツは本の雑誌社が提供し、運営を博報堂がするという関係が続いているのだった。そしてその「WEB本の雑誌」の初期の方向性にアドバイスをしていたのが嶋浩一郎さんだった。
 緊張するぼくと古幡さんは会議室に通され、誰の耳も気にする必要もないはずなのに、みんなが小さな声で話をした。それは言わばキックオフミーティングのその前の、プレ会議というか第0回の本屋大賞実行委員会の打ち合わせということになるのだが、そこで決まったことは以下のことだった。
「我々はあくまで裏方、サポートである。余計な口出しはせず、書店員さんの必要とするものを作る」
 そうしてはじめてみんなが顔を合わせる準備が整ったのだった。海のものとも山のものともわからない、その時には本屋大賞なんて名称はもちろんなく、何をするのかすらもまったく決まっていない会議が開かれようとしていた。


中野雄一(博報堂)の回想

 あの頃の自分は出版プロモーションの仕事について15年くらいたってて、だんだん既存の本の売り方に限界を感じ始めてました。もう、告知すれば本が売れる時代ではなくなってきてて。だんだん自分が出版界に貢献している実感が薄れてきている危機感もありました。まだSNSは拡がっていなかったですしね。
 それで、「WEB本の雑誌」の運営に関わったりいろいろするなかで、この業界は実は書店員さんの持つポテンシャリティがすごいし、もっともっと活かせるんじゃないかと気が付き始めたんです。こんなに、店員さんが商品に対して愛着があったり、自由裁量がある業種はなかなかないと思いました。
 なにか良い方法はないのかと思って、当時bk1の安藤さんとも親しくしてたので、話を聞いてもらったり、全米図書賞など調べてみたり、そうしたなかで、一つの本をいろんな書店員さんたちのPOPで取り囲むことができたら、それを見るだけで楽しいし、絶対買う気になると。現場ひとりひとりの力を全部集めたらとんでもないパワーになるのでは?と思いはじめてました。そんなことができないかと、杉江さん、内田さん、志藤さんに飲み会の席で話したんでした。
 そうしたら、杉江さんから「実は書店員たちで決めるような賞ができたらね、なんて話があるんですよ」とその場で言われて、それまでぼんやりと考えていたこととピッタリイメージが重なった。
 普通はそういうのって酒飲み話で終わっちゃうんだけど、なぜかこれだけは「これは絶対できるるし、自分たちがやらなくても、いずれ誰かがやりそうだな、だったらさっさと始めよう」と思って翌日杉江さんに電話しました。
 その後、目黒(考二)さんにも相談したら、「君たちこれはぜったいやったほうがいいよ」と、言ってくれたのがとても励みになりました。あの、憧れの目黒さんが認めてくれるなら間違がってないんだろうなと。


古幡瑞穂(当時:楽天ブックス、現在:日本出版販売マーケティング本部アドバイザー)の回想

 もともと、これまで年末の大きな山になっていた「このミス」が少し数字を下げてきていたということに危惧を持っていて、そこに来てあの「横山秀夫直木賞決別」に繋がる"直木賞受賞作なし"という事があって、「数字づくりを人任せにしたままでよいのか」という思いを持っていました。
 そもそも「このミス」が業界人たちの会で作られたものだという話も聞いていたので、じゃあ次の売上は次の世代でつくっていこうよ。今の技術を使えば出来る事が広がる!といったことをモヤモヤ胸に抱えていました。
 ただ、そうなると問題となるのは受け皿。単品の発掘を点でやっててもしょうがない、どうしたら出来るんだろうと考えていたときに杉江さんから電話がかかってきて、「博報堂に行きましょう!」と。
 博報堂!? え、あの電通とか博報堂とかの博報堂!? かっけー!! いくいく、絶対いく。なんか面白そうだから行く。という正直、単なるミーハー気分で、きっとキラキラしたお姉さんとか島耕作みたいな人とかいっぱいいるんだろうな♪
 って考えながらの0回目ミーティング。島は島でも耕作っぽくない嶋さんとか、それまでの広告代理店イメージを壊してくれる、本好きとワクワクのカタマリみたいな人たちに出会えて「とにかくワクワクするから、絶対やってやる!」って思ったのが第0回でした。
 いい話どこにもなくてすみません。

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