橋本倫史『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』試し読み(節子鮮魚店)
鮮魚を肴にちょっと一杯 節子鮮魚店・金城誠さん
"県民の台所"と呼ばれる第一牧志公設市場は、建て替え工事に向けて、2019年7月1日から仮設市場で営業中だ。この仮設市場の目の前に、1軒の鮮魚店がある。金城節子さんが創業した「節子鮮魚店」だ。
鮮魚店を始めたのは、なかば必然だった。
金城節子さんは昭和12年、那覇市垣花に生まれた。垣花は“那覇軍港”として米軍基地が置かれているが、戦前には水産試験場や製氷工場が建ち並ぶ漁業が盛んな町でもあり、節子さんの家族も漁業をなりわいとしていた。4名きょうだいの次女にあたる節子さんは、小学校高学年のうちから働きに出て、やがて牧志公設市場の鮮魚店に勤めだす。「モーシー」の通り名で知られる親方は厳しく、怒ると包丁が飛ぶこともあった。そんな親方に気に入られ、二十歳そこそこで店を継ぎ、「節子鮮魚店」をオープンする。
慌ただしい日々の中で、節子さんは近くのかまぼこ店「ジランバ屋」で働く清三さんと出会う。清三さんの出身地は、沖縄本島北部にある本もと部ぶ 町ちょう崎本部。修学旅行で那覇を訪れたとき、那覇で暮らしていく決心をした清三さんは、宿から抜け出し、「ジランバ屋」で働くようになった。ふたりはほどなくして結婚し、1963年に長男の誠さんが生まれた。
「僕が小さい頃は、公設市場はまだ古い建物でしたね」。節子さんの長男で、2代目店主の誠さん( 56歳)はそう振り返る。「和気藹々として、こどもたちは皆で遊んでました。卵屋さんを通りかかると、口を開けなさいと言われて、うずらの卵を割って塩をポンと入れてくれたり。
『マー坊、うたを歌いなさい』と言われて、何か歌うと1セントもらえたり。隣近所とは家族同然の付き合いで、仕事が忙しいと『私がおっぱいあげておくさ』って、隣の子におっぱいあげたりしてたみたいです」
節子さんのお店は夜遅くまで客が途切れなかった。幼い日の誠さんは、早く帰りたくなって「今日はもう終わり!」と客を追い返そうとしたこともある。父を早くに亡くし、母ひとり子ひとりで育ったこともあり、誠さんは反抗期らしい反抗期を迎えることもなかった。
誠さんが生まれた頃、牧志公設市場は揺れていた。
牧志公設市場は、戦後間もない頃に誕生した闇市を起源に持つ。この闇市を整備して1950年に牧志公設市場がオープンしたのだが、これは私有地の上に建てられたものだった。また、市場はセメント瓦葺きだったこともあり、次第に「より近代的で衛生的な市場を」という声が高まってゆく。こうして最初の建て替え問題が浮上した。
工事が必要になったのは牧志公設市場だけではなかった。市場の隣にガーブ川が流れており、川沿いには露天商が並んでいたが、川は頻繁に氾濫を繰り返し、改修工事の必要性が長らく叫ばれていた。改修工事に手をつけるには、露天商の移転先を確保する必要がある。ガーブ川に板を渡して営業していた「水上店舗」は、現在の仮設市場がある場所に。ガーブ川のほとり、現在のパラソル通り一帯で商いをしていた「花屋通り会」は、新栄通り(現在のサンライズなは商店街)の道路の真ん中を間借りする形で、移転することになった。
改修工事を経て、ガーブ川が暗渠となり、その上に近代的なビルが完成する。このビルも水上店舗と名づけられ、川に板を渡して商売をしていた人たちはここに入居することになった。ただ、花屋通り会は移転先が見つからなかった。いつまでも仮設店舗で営業させるわけにもいかず、那覇市当局は入り組んだパズルを一挙に解決させようと、牧志公設市場を改築し、1階に花屋通り会を、地下に0 0 0 市場事業者を入居させるプランを打ち立てた。
市場事業者はこれに猛反発した。市の言い分は「本土のデパートを見ても、食料品は地下で売られている」だったが、既得権を無視していると市場事業者は反論した。また、市場の地主から土地の返還を求められていたこともあり、新しい市場をどこに建設するかも悩ましい問題だった。100メートルほど西、現在仮設市場がある場所に移転するプランも立てられたが、場所が変わると客が離れるのではないかと不安視する市場事業者は多かった。
解決の糸口が見いだせない状況の中で、当時の那覇市長・西銘順治1966年、地主のひとりと覚書を交わす。その内容は、市場は別の場所に移転させ、現在の敷地の借地権は放棄する、というものだった。議会の承認や市場事業者への説明もないまま、独断的に移転を進めようとする市長の姿勢に、保守と革新という政治的な対立も混じり、市場事業者は移転賛成派と反対派に分断されてしまった。移転に反対する市場事業者は、市議会に乱入するなど強い抵抗を見せたが、1967年に新しい市場の建設工事が着工された。
その翌年、西銘順治は行政主席選挙への出馬を表明し、市長を退く。その後におこなわれた那覇市長選では、移転反対を公約に掲げた沖縄大衆党の候補・平良吉松が当選し、移転問題はいよいよ混迷を極めた。選択を迫られた「節子鮮魚店」を含む一部事業者は移転を承諾。こうして1969年11月8日、第二牧志公設市場がオープンした。
「オープンしたときは市場に万国旗が掲げられて、スピーカーから音楽が流れて、すごく賑やかでしたよ」と誠さんは振り返る。第二牧志公設市場が完成したあとも、移転に反対し元の場所で営業を続ける事業者もあったが、1969年10月19日、不審火により元の公設市場は大半が焼失してしまう。以前からボヤ騒ぎが相次ぎ、交代で不寝番をして警戒に当たっていたが、運動会が開催される日の昼間に火災が発生した。紆余曲折を経て、元の公設市場も建て替え工事が施され、1972年10月3日、第一0 0 牧志公設市場としてリニューアルオープンを果たす。こうしてふたつの市場が並存することになったが、買い物客は馴染みのある第一牧志公設市場に流れ、第二牧志公設市場は空き小間が増えてゆく。その運営維持は那覇市にとって負担となり、2001年春、第二牧志公設市場は32年の歴史に幕を下ろした。建物の老朽化も閉場の理由とされたが、第一牧志公設市場が47年経ってようやく建て替え工事を迎えたのに比べると、短命に終わったと言える。
第二牧志公設市場が閉場したあと、「節子鮮魚店」はいちど、第一牧志公設市場に入居している。ただ、隣にある空き小間も含めて広々営業できていたのに比べると、ぎっしり小間が埋まっている第一牧志公設市場は手狭に感じられ、現在の場所に移転した。
「ここに移った頃はまだ卸が中心でしたけど、泊とまりいゆまち(那覇・泊漁港に隣接する魚市場。「いゆ」は魚を、「まち」は市場を意味する。2005年オープン)ができてから、料理屋さんはそっちで仕入れをするようになって。どうしようかと思っていたときに、同級生がうちの店に集まって飲む機会があって、牡蠣を出したらすごく喜んでくれたんですよね。それで『立ち食い牡蠣』と看板を出してみると、お客さんが集まるようになって、中でワインでも飲みながら食べたいねと言われてお酒も仕入れるようになったんです。そこからお客さんに言われるままに、七輪で魚を焼けるようにしたり、天ぷらを出すようにしたりして、こんな店になりました」
節子さんは2006年に亡くなった。晩年は認知症を患っていたが、最期まで包丁さばきは衰えなかった。誠さんが切り盛りするようになって、母が扱わなかったイラブチャーも出すようになった。観光客が増えて、「南国らしい青い魚を食べてみたい」とリクエストする客が増えたのだ。誠さんも母の影響でイラブチャーを食わず嫌いしていたけれど、食べてみると案外うまく、今では刺身の盛り合わせに入れることもある。
軒先の発泡スチロールに氷が満たされ、缶ビールや缶チューハイが冷やされている。飲み物は自分で取り、会計時に空き缶を数えて計算する。一番人気はさしみセットで、好きなお酒に刺身の盛り合わせ、それに生牡蠣がついて1300円だ(物価高騰の影響で、現在は1500円)。
「第二牧志公設市場の跡地は“にぎわい広場〟になって、ガジュマルの樹や児童館もあって、すごくゆったりした場所だったんです。お母さんたちがうちの店に集まって、広場でこどもを遊ばせながらビールを飲んでいた。うちから広場が見渡せるから、こどもの姿が見えて安心だし、こどもたちもちょっと寂しくなったら店に入ってきて、刺身をツマんでまた遊びに行く。ゆるやかな時間が流れてたんですよ」
だが、半世紀ぶりとなる第一牧志公設市場の建て替えが決まり、目の前にプレハブの仮設市場がやってきたことで、風景は一変した。
「仮設市場がオープンして、よく『お客さんが増えたでしょう』と聞かれるんですけど、売り上げは変わらないんですよ」と誠さんは笑う。「反対に、仮設市場の工事中は騒音がうるさくてお客さんが減ると思っていたら、そこも変わらなかった。ただ、前のゆったりした風景が好きだったから、また元通りになるといいんですけどね」
第一牧志公設市場は、2022年の春にリニューアルオープンを予定しており、仮設市場は3年間限定の建物だ。ただ、新しい市場が完成したあとに仮設市場がどうなるのか、現時点ではまだ何も決まっていない。
(「琉球新報」2019年9月28日掲載)
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