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嫉妬

 読書をしていると、「できれば、10代の頃に読みたかった……」と思える文章に出会うことがある。
 例えば、次の文章。

「嫉妬というのは他者から欲望を学習する機会なのです。嫉妬の相手をライバルとして見なし、勝ってみたいと人は思いますが、これは欲望を他者から学習した結果なのです。欲望とは基本的に最初は他者の欲望であり、主体は欲望に関しては空っぽです。空っぽの主体は、自分の欲望の体系を構成していかなければなりません。」
山内志朗『小さな倫理学入門』慶應義塾大学出版会、P11)

 こういう指摘は、人並みに嫉妬心を持っていた10代にこそ響くはずで、もはや嫉妬心が枯れかかっている今となっては、うんうんと頷くだけで終わってしまう。

 嫉妬の旺盛さは、自身への期待度と比例する、と勝手に考えている。自分の能力や将来性に、未知数の期待を抱けるからこそ、「あの人より、私の方がうまくやれるはずだ」「もっと注目されていい」と思える。
 私は先程、「嫉妬心が枯れかかっている」と書いた。これはつまり、自分自身への期待度が薄まっていることを意味する。今更、自分の能力に未知数の可能性を見出すことなどできず、大体の限界値も把握し始めている段階だ。無制限に嫉妬する、そんな気力はもはや残っていない。

「あの人に負けたくない、と思える人は、欲望を学習する源泉を数多く有している人であり、豊かな欲望の体系を持っています。「負けず嫌いな人」というのはたくさんの他者を嫉妬できる人のことなのです。「欲望に関する真面目な勉強家」と言い換えることができます。これを資本主義の時代における欲望のあり方と狭く捉えてはいけないと思います。」
山内志朗『小さな倫理学入門』慶應義塾大学出版会、P12)

 執筆者の山内志朗は、世間一般で考えられているよりも「嫉妬」というものを前向きに捉えているように見える。
 他者に対する「嫉妬心」を、自身の成長の原動力に昇華できる人が、どれだけいるだろう。多くの場合、できるだけ自身の現状をキープしたまま、特定の他者より評価されることを望む傾向がある。
 現代の辛さは、自身の比較対象となる他者の数が、インターネットやSNSの普及によって、無限に拡大した点だ。「負けず嫌い」を貫こうとすれば、身が持たない。
 こういう社会で傷つかずに生きようと思えば、早急に「私は平凡な人間ですから……」と諦念の境地に達するのが一番だ。だがこれはこれで、何とも寂しい気持ちになるのは、私だけだろうか。



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