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前庭

 本の見所は、本編だけではない。その他の文章にも、引けを取らない魅力がある。
 まえがき、あとがき、はじめに、おわりに。文庫版の解説。翻訳書であれば、訳者解説や、別の専門家による解説文が収録される。
 ときどき、本編だけ読んで、解説等は読まない、という人を見かけて、唖然とすることがある。一冊の本の中に、自分が本編を通して感じたこと、汲み取ったことを、一旦客観視できるパートが用意されているのは、シンプルにありがたいことだ。

 直近に読んだ本の中に、一つ、面白い「まえがき」を発見した。次に、一部引用してみる。

「以前からぼくの友だちは、きみの本にはかならずまえがきがついているんだね、といっておかしがる。たしかに、ぼくはまえがきがふたつ、それどころか三つもついた本も出してきた。まえがきとなると、ぼくは勤勉なのだ。もしもそれが悪い趣味だとしても、やめられないだろう。第一に、悪い趣味ほどやめられないものだし、第二に、ぼくはまえがきが悪い趣味だなんて、これっぽっちも思っていないからだ。」
エーリヒ・ケストナー著、池田香代子訳『ぼくが子どもだったころ』岩波書店、P9)

 この「まえがき」のタイトルは、「まえがきのない本なんて」。
 たまに、「ちょっと長めのまえがき」と題して、「まえがき、長めになっちゃいました。ごめんね」と断りを入れているものは見かけるが、「まえがき」そのものについて語る「まえがき」は、これまで見たことがなかった。
 友人に指摘されるぐらいだ。余程「まえがき」が特徴的なんだろうと思い、ケストナーの別の著書『飛ぶ教室』に目を通してみる。……こいつはすごい。見ると本当に「まえがき」が、その一、その二に分かれているではないか! 「まえがきのない本なんて」という「まえがき」を書くだけのことはある。
 『飛ぶ教室』については、一度読んでいるはずなのだが、「まえがき」が2パートに分かれていることに、驚いた記憶がない。ケストナーには申し訳ないが、あまり「まえがき」には意識を向けていなかったのだと思う。

「本にとって、まえがきはとても大切だし、いいものだ。ちょうど、家には前庭が大切なように。もちろん、ごくせまい前庭すらない家だってあるし、ごくせまいまえがき、おっと失礼、まちがえた、ごく短いまえがきすらない本もある。けれど、前庭つきの、いやちがう、まえがきつきの本のほうが、ぼくは好きだ。お客がいきなりドアを開けて家に入ってくるのは、好みではないのだ。そんなことは、お客にも家にもよくない。ドアにだって。」
エーリヒ・ケストナー著、池田香代子訳『ぼくが子どもだったころ』岩波書店、P9〜10)

 本にとっての「まえがき」を、家における「前庭」と捉える視点は、とても共感できる。いきなり本編がスタートするよりも、旅行の前日のように、出発前の余韻を楽しむ時間が欲しい。
 ケストナーの熱弁に触れたことで、今後は一層「まえがき」に注目することになりそうだ。



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