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増点主義
人付き合いには、二つの始まり方がある、と考えることがある。
一つは、「この人、いい人そう」と好印象から始まる場合。もう一つは、「この人、とっつきにくいな」とネガティヴな印象から始まる場合である。
どちらの方が、長く付き合っていく上で都合がいいだろう、と考えたとき、私は進んで後者の方を選びたくなる。
現実の私は、「この人、いい人そう」と思われることの方が比較的多いのだが、それはなかなか辛いものであると日々感じてきた。
どういう点が辛いのか。それは、「この人、いい人そう」という印象に応えるために、常に行動を律しなければならなくなる点だ。
この好印象は、脆く崩れやすい。ちょっとしたミスや失言で、跡形もなく崩れさってしまう。
この脆さと面倒さを考えれば、普段は付き合いずらいと思われていても、時折「あっ、この人にもいいとこあるじゃん」と感じてもらえるぐらいがいい。
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先日あるエッセイ集を読んでいたところ、上記の私の主張と同様のことを、より分かりやすい用語で論じている文章に出会った。
折角なので、次に該当箇所を引用してみたい。
「日本人は大体人がいいから、知らぬ人とあうと忽ち信用して、高い点数をつけてしまい、段々つき合って行くうちに、その人の欠点に少しずつ気がつき、あんな人とは思わなかったと減点していくといったところがあるらしく思える。
ところが、中国人はよくその人の周囲や評判を調べぬいた後でしか相手に点数を与えない。従って、あとであんな人とは思わなかったなどということにならないようだ。あんな人とは思わなかったというようなことになったら、自分の不明を責める。」
(富士正晴著、荻原魚雷編『新編 不参加ぐらし』中公文庫、P195)
著者の富士正晴は、前者の日本人の型を「減点主義」、後者の中国人の型を「増点主義」と呼んで、自分は専ら後者の型で人付き合いをしていると語っている。
「日本人であれば〜」「中国人ならば〜」という論の立て方には疑問があるものの、人付き合いの有り様を「減点主義」「増点主義」という用語で説明したのは分かりやすい。
「一緒に一杯のんでいるうちに忽ち胸襟をひらいて、一夜にして親友づき合いをするようになるというようなことは嫌いであるし、また、そのような態度になる人には、だらしないどころか、何かたくらんでいる底意を感じてしまう。大体これまでの体験ではそれが当たっているような気がする。」
(富士正晴著、荻原魚雷編『新編 不参加ぐらし』中公文庫、P196)
知り合ったばかりの人間が、こんなに心を開いて話してくれるはずがない。これには、何か裏があるはずだ。ーー富士正晴はこう考える。
最初はおぼつかず、探り探りに会話をしていく方が自然であるし、私も落ち着く。お互いに、相手の評価を見誤るリスクを減らせるし、後々になって失望し、評価を急降下させることも少なくなる。
「私も「増点主義」で行こう」。そう思うのだが、相手も同じスタンスで臨んでくれるとは限らない。自分が相手のいい所を見出して、少しずつ点数を加算している間に、相手は自分の評価点を減らしていっているかもしれない。
なかなか都合よくいかない。それが人間関係である。
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