授業の準備ぐらいしとけよ、生徒も教師もお互いに

こんばんは。

オンラインの授業も本格化してきて病み期に入ったわたがしです。

割と僕自身短気である自覚はあるのですが、ストレスといいますか疲れがたまってくると本当にふとしたことですぐにイラっとしてしまいます。

ちなみにいま病み期という文字が変換で出てこなかったことと耳がかゆくて耳掃除をしていると傷つけてしまったのか少し痛いことに腹を立てています。

悪いのはまあまあ僕なんですけどね。

こればっかりは人によりけりかとは思いますが、何に対しても他人が100パーセント悪いことなんてそうないと個人的に考えています。

だから喧嘩をする際なんてのは顕著で、誰が悪いという話に最終的になりがちなところを、お互いに悪かったね。で終わらせることができるかが勝負だと思っています。これの大きなポイントはどちらが言い出すかです。

前述の通り僕個人は相手が絶対悪ではないことがわかっています。しかし喧嘩をしているということはつまりそのタイミングの僕が無能マンに成り下がっているということです。その時の僕は数種類いて、

1.自分が悪いということに気づいてないマン

2.悪いということに気づけていても言い出せないマン

3.自分も悪いことに気づいているし言い出す余裕もあるけれど向こうが怒っている状況に何かしらのメリットを感じているマン

です。特筆すべきは3ではないでしょうか。性格の曲がっていることを自分から露呈させているこの無能マンの考えを書き出すと、怒られている状況、言うなれば相手が冷静でない状況の失言や言い間違いが今後の場面で欲しくなると当事者である僕は考えているんですね。クソですね。

でもこれを見る人の少しの人でもいいので共感してほしいのですが、本当に怒ったり怒られたりする関係の人って年齢を重ねれば重ねるほど少なくなるし関係も濃いものになるじゃないですか。その長く付き合っていくかもしれない人の弱みってどうせだったらほしいじゃないですか。使うかどうかは別にして。

この考えも文字に書き出してみると幼い印象を受けますね。良くない。今後気を付けていきたいと思います。

初めて自分の良くないところをここに書いてみたんですがやっぱり気持ちのいいものではないですね。まだ僕が影響力の無い人だったのが幸いでしょうか。

僕、SNS等で人の悪口を見るのが本当に苦手なんですよ。人の悪口ってその事象における自分の行動思考が本当に正しくないと出せないじゃないですか。ほんまにお前その時正しかったんか?って思っちゃうんですよね。いや、わかってるつもりです、そもそも正しいという言葉があやふやで定義をなしていなくてその状況や見方によって変化することは百も承知のつもりなんですよ。でもせめて悪口を言ったその場の当事者(いう側といわれる側の二人と仮定)からはどっちからも正しいと言われないといけないと思っていて、それができていないものがあまりに多すぎるんではないかと最近よく思うようになりました。

話がそれちゃいましたね。本当は今日「恐怖症」について喋ろっかなと思っていたんですけど思ったより心が疲れてる日だったみたいです。ごめんね。

明日何も書くことがなくて、元気で、「恐怖症」の話を覚えていたら書こうかなと思い今日もお開きにしたいと思います。

はじめて文字の強調をしれっとしてみました。便利ですね、慣れないですけど。まあ何に慣れているのか聞かれてしまうと何にも慣れていないのでお口チャックしときますね。

何かには成りたいと思う今日の僕なのでした。

バイバイ!

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