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喫茶あるぱか~1.薄荷

 喫茶あるぱかの宿帳は賞味期限が24時間だ。看板猫のモズクが朝の毛繕いを済ませ、気儘な散策に出掛け、寝床のキャットタワーに帰ってくるまでの間、B6サイズのリングノートは喫茶店に出入りするあまたのお客さんの筆跡をまとって、レジ横にこぢんまりと収まっている。閉店の時間が来ると、真紀ちゃんは惜しげもなく、風変わりな寄せ書きと化した今日のページを、びりりと破り取ってしまうらしかった。

「栞さん。薄荷茶ミントティーはいかがですか」
 白木の清潔なカウンター越しに、若草色のエプロンをまとった真紀ちゃんが尋ねる。わたしはにっこり微笑むだけでよかった。曇りのないガラスポットに野生育ちのアップルミントを大層詰めて、お湯を注ぐ。青臭くなりすぎないよう、温度に気をつけて。仕上げにレモングラス入り氷を浮かべたら、透き通った味の薄荷茶ミントティーの出来上がりだった。
 鼻に抜けるミントの香りは、ほんのり青みがかったグラスの色彩とも相まって、ささくれがちな気持ちを鎮める。洗い立てのリネンのように静謐な、喫茶店の空気も心地よかった。

「この間、彗星の堕ちる映画を観たんです」
 真紀ちゃんが訥々と語りだす。
「ある日天気予報の地図に彗星のマークが現れて。2ヶ月後に堕ちてきますって」
「2ヶ月後って悩ましいな。備えるには十分だけど、回避するには短すぎる」
 わたしは季節を数えた。2ヶ月後は梅雨入りの時期だ。レーダーの観測も雨雲に阻まれるかもしれない。彗星の高度は、突入角度は。計算し損なえば甚大な被害が出るだろう。
「登場人物はそれぞれ違った反応をするんです。地球を脱出しようとする人、シェルターを建設する人、自暴自棄になる人、やり残したことをやり遂げようとする人。栞さんは‥みんなで助かろうとするタイプね?」
「えっ?」
「ロケットを発射して軌道を変えようとしてみたりして。きっと希望を見出そうとする」
 わたしは頭の中のスケッチブックから迎撃ミサイルの設計図を振り払った。
「出来ることがあるなら何とかしたいと思っちゃう。多くの人が不幸になるのに、黙って見ていることはできないの。今だって‥」 
 はにかんだまま口ごもった。
「闘うジャーナリストだものね」
 わたしは薄荷茶ミントティーを改めて口に含んだ。野生の瑞々しさが凛とした品性に縁取られたような味。自然に背筋が伸びた。
 真紀ちゃんはホーローの薬罐やかんにお湯をわかしている。カウンター5席だけの控えめな店内の視線は、魔法薬でも調合するような彼女の手元に釘付けだ。メニューはあってないようなもの。薄荷茶ミントティーはあっという間に隣席の夫婦と、学生風の青年にも振る舞われた。
「真紀ちゃんは彗星が堕ちて来る日も、いつも通りお店を開くのね」
 真紀ちゃんの答えはわかりきっていた。
「きっとそうする。他に道はないんだもの」
 わたしは半ば乱暴に、宿帳に手を伸ばす。走り書きの筆跡が神経質にいきり立っている。
『彗星の迎撃と看過』

 わたしが初めてこの街はずれの喫茶店に足を踏み入れたのは、謹慎期間の初日だった。取材に一月もかけた、 市の教科書選定不正の記事を入稿した翌朝、出勤すると机がなかった 。
「電話があったよ。市長室から」
 デスクが鬱陶しそうに伝える。誰もが見ないふりをした。
 むしゃくしゃしたまま、人通りのまばらな昼の街をかつかつ歩いた。地表に鋲を打ち込むようなヒールの靴音に神経を集めると、まだ凛としたジャーナリストでいられる気がした。
 馴染のない路地に足を踏み入れたとき、悠々と棚引く書き初め半紙の品書きが目に留まった。
「薄荷茶あり〼。喫茶あるぱか」
 達筆ではないけれど味わい深い筆字だ。「茶」の字のはらいが通常の軌道より斜め下に逸れているあたりに、朝顔のような脱力した涼やかさが漂っていた。思わず引き戸を開いていた。
「薄荷茶、ください」
 小柄な若い女性がカウンターの向こうで立ち回っていた。清廉な佇まいが巫女さんのようだ、と思ったのが第一印象だ。
「はい、ただいま」
 彼女は黒目がちな瞳をしん、と見開いて、ごく控えめに口角を上げた。

 今日と同じ、自然の伸び代を贅沢に刈り取って盛り付けたような一杯だった。薄荷茶、の文字は片仮名の表記よりもずっと荒々しくて気概のある気さえした。
「美味しい。リフレッシュできるし、やる気が一新されるみたい」
「栞さんの目が覚める魔法をかけたんですよ」
 冗談なら笑って言えばいいのに、真紀ちゃんは全てを悟りきった静かな口調を崩さない。大きな黒い瞳が、わたしの小さなプライドの駄々を包容してくれるようではっとした。その日は遅くまで居座った。
『ミント味の深呼吸、明日はきっと待ち遠しい一日』
初めて宿帳に残した言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、下ページまでしっかり自己主張した筆圧とは裏腹に、空回りしていたはずだ。そんな不確かなボールペンの筆跡が、いまや地球のどこにも存在しないことが、かえって私を救うのかもしれなかった。

 もう少し、もう少し。賢いモズクは自ら引き戸を開いて、傘立てと並んで置かれたキャットタワーに帰還してきた。彼の一日分の冒険はわたしには見当もつかないけれど、丸くなって喉を鳴らす姿を見ると、さぞかし豊かな火曜日だったんだろうと思う。もう少し、ここにいたい。時間の流れが息を潜めるこの喫茶に。
 けれど、間もなくオルゴールが60bpmのカノンを奏で、店内の照明が眠るように落とされる。
「また、明日ね」
 お会計を済ませたところで、真紀ちゃんが宿帳を手に取る。躊躇う素振りもなく、ひと想いに本日の堆積がノートから切り離された。
『孟母断機』、と筋違いのような四字熟語が頭に浮かんだ。故事成語の所以は母が子を想うゆえの厳しさだったけれど、真紀ちゃんの手つきには、なんだか世俗への強烈な無関心が現れているみたいだった。あるいは一周廻って、粘りつく感情の膠を丹念に磨いて彫り出した菩薩像が真紀ちゃんなのかもしれなかった。わたしはどちらでも良いと思った。
 踏み出した四月の夜更けは、不思議な靄に包まれて暖かだった。通り過ぎる車のヘッドライトが黄みがかってぼやける。わたがしのような息を吐く。明日も朝が早い、ふりをした。
(つづく)

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