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喫茶あるぱか 3.華尼拉(ばにら)

 海色の毛糸は、指の間を渡すと、浅瀬に手をさらしているような心地良さだった。
「シルク混の糸なんですよ」
 真紀ちゃんが言うのも納得する。わたしはしばらく、編み図の記号を読み解くのに苦戦しながら、金色の鈎針かぎばりを潜水させたり浮上させたりしていた。左手に糸を絡めて、右手で鈎針を操るのだから、下手なメモ取りに勤しむ指は残されていない。その間、金城先生は運動会の話をしていた。
「来週が本番なんです。三年生にとっては、主役として参加する最後の学校行事」
 日曜日はカラッと晴れる予報だ。金城先生の二組は騎馬戦が強いがリレーはいま一つという。スピードよりもパワー系のクラスなのだと、色白細身の担任が言うと説得力に欠ける。
「先生も忙しいんでしょう?」
 真紀ちゃんが次のお客さんのメロンソーダを注ぎながら訪ねる。しゅわしゅわ、ぱちぱち、炭酸の弾ける囁きが耳に心地良い。
「それはもちろん。教師集団も、リレー実況の放送部、救護テントの保健部、点数換算の得点部、もっぱら石灰担当の白線部にわかれて、大忙しなのです」
 そんな分類を聞くと即座に記録をとりたくなるのをぐっとこらえた。
「金城先生は白線部でしょう?」
 当てずっぽうに訪ねると、弱気な先生はなにが恐縮なのか、
「おそれながら」
 と額の汗を拭いたので面白くなってしまった。
「生徒たちは勉強にも部活にも、行事にも一生懸命で。こちらが学ぶことの方が多いんです。大人になると、打ち込めるものってなかなか見つからなくて」
「だからね、先生は手慰みを探しているところなんですよ。息抜きだから、あまりまじめじゃないものがいいの」
 真紀ちゃんが口をはさむ。手慰みは不真面目じゃなくちゃならない。続けるのが義務になったり、苦しくなっては元も子もないのだけれど、先生のやる気は空回りするばかりで、ちょうどいいものが見つからないのだそうだ。
「栞さんの調子はどうですか?」
「うーん、何とか松編みを習得しつつあるところ。手順通りにはできるようになってきたけど、編地が揃わないなあ」
 図面は透かし編みのストールのものだった。完成系は長方形だから基本的かと思いきや、ひとつひとつの力加減が全体に響いて、今の時点でもすでに台形に突き進んでいるふしがある。
「ストールなんて、巻いちゃえばわからないのよ」
 と言ったのは左隣の老婦人だ。クリーム色のクラシカルなツーピースの首元には、桃色の華やかなスカーフが添えられている。
「白いワンピースの肩にさらっと巻いて、今年の夏は浜辺でも散歩したらいいわ」
「夏休みかー、僕も長期の休みが取れたらな。卓球部の夏大会の善戦次第だな」
 金城先生が背伸びしながらつぶやいたのが、やっぱり何か可笑しかった。今日のわたしは理由なくよく笑っている。日常のあちこちに散りばめられている言葉たちは、蓬莱の玉枝のようで、発せられた途端に黒ずみ始めて美をそこなっていく。そのはずなのに、今日のわたしはけらけらと、その地に落ちた病葉わくらばで落ち葉炊きでもしようというのか。
 ジャーナリストの栞が地団太を踏んで反抗しているのを心のどこかで感じながら、鈎針のダイナミックな上下動を中断するわけにもいかず、半分は身に着いて来たリズムに乗って、せっせとストールを編み進めていく。メロンソーダに乗ったアイスがゆっくりと無様に溶けて、透明だったグリーンをくすませる。
「段止めマーカーってあるの」
 真紀ちゃんが教えてくれたのはもう夕方と夜の境目くらいだった。わっか状のクリップのようなもので、編地に噛ませるとそれ以上ほどけることがない。わたしは初めての割に上出来な「12段」まで進めたことを報告して、久しぶりに指を開放した。すっかり抹茶色に落ち着いたメロンソーダも、クリーミーな味わいで悪くはなかった。海の色の連なりが12段。籐篭には名前のタグがつけられ、真紀ちゃんの背後を飾る棚に格納された。
「ここ、昔はスナックだったんですよ。日本酒とかウイスキーとか、お客さんのボトルキープをこの棚に置いていた。今は皆さんの、手慰み」
 歌うような軽やかさで真紀ちゃんが言う。同じ仕様の籐篭は真紀ちゃんの背面を埋めるように隙間なく仕舞われていた。
 わたしは宿帳に気の利いたフレーズを残そうと、これまでの会話を辿ろうとするけれど、具体的な話題は文字に起こせるほど鮮明ではなかった。かわりに、また聞きの秘密をしたためるように、こう書いた。
『むかしはスナックだったんだって』
(つづく)


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