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祖父の見た”グラマン”

それは昭和20年、終戦の少し前の出来事であった。


著者の郷里、熊本県人吉市にはかつて旧軍の人吉海軍航空隊(高原飛行場)が存在していた。教育航空隊として建設されたものだが、戦局の悪化に伴い、特攻機の中継基地としての役割を持つようになってきていた。
1945年3月18日及び5月14日、人吉基地はアメリカ軍による空襲を受ける。
軍属・民間あわせて数十人の犠牲者が出た。

私の祖父は生前、「この空襲に向かう艦載機を見た」との話をしてくれた。

それは昭和20年(3月か5月かは不明だが)のある日、家の防空壕に避難していた時の出来事である。遠くの方から飛行機のエンジン音がしてきた。金属の擦れるような甲高い、言ってしまえば金切り音のようなものが聞こえてくる。防空壕の入り口に立ち、空を睨む。川向こうの線路の上、飛行機が二機飛び去って行く。祖父は「アメリカのグラマンだ!」と直感したという。後に聞けば、「日本軍機の音はもっと詰まっているようで、あんな金切り音はしない。(音から判断すると)アメリカ軍機のほうが強そうに感じた。」という。アメリカ軍機は一度宮崎方面へと抜けていったが、反転(現在の湯前町周辺?)してもう一度飛行場の方へ行った。それっきりグラマンは戻ってこなかった。

戦後76年、自宅防空壕跡より、グラマンのいた方向を見る。
写真右側が宮崎方面。左側には人吉海軍航空隊基地。祖父の話からすると、グラマンは一度画面右側の方向へ進んだ後反転、左の飛行場方面へと戻っていった。

都会にとどまらず、地方にまで米軍機が飛来していたことには驚きであった。こののどかな田園風景に、70年前戦争があったというのは想像しづらいことだろう。

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