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『DS2』考察—DRAWBRIDGEについて

『DS2』考察——DRAWBRIDGEについて——

 2001年、アメリカで同時多発テロが起きた。アメリカでは公民権運動という象徴的な出来事があったにも関わらずいまだに人種差別がある。2020年頃から新型コロナウイルスが蔓延し世界でパンデミックが起きた。ウクライナ戦争とイスラエルの戦争は現在も毎日報道されている。2024年9月には大統領選討論会が行われ、私たちは11月のアメリカ大統領選挙を待っている——。このような世界情勢のなか、『Death Stranding 2(以下、DS2)』のトレーラー(2022年)が公開、続編制作が発表された。
 前作『Death Stranding(以下、DS1)』は2019年に発売され、2021年には累計500万本販売されたゲームタイトルである[i]。制作は、「Kojima Productions」と「メタルギア」シリーズ[ii]で知られる小島秀夫氏である。出演キャストはハリウッドで活躍する俳優や映画監督らで、独立最初のタイトルとしては異例のクオリティと販売規模であった。UCA( United City of America )組織の配送業務を行う<BRIDGES>は、謎の現象<デス・ストランディング>により分断された北米アメリカを配達人一人で横断し、アメリカ再建を目指す。フリーであった主人公サムはUCA組織に所属することとなり、遊び手にUCAの目的が与えられる。その続編となるトレーラー映像に、興味深くも、謎めいたロゴが登場した。
 <DRAWBRIDGE>。このロゴ及び名称(”跳ね橋”部隊)は、二つのトレーラーで反復される。2022年に公開されたTGAトレーラーと2024年に公開されたSoPトレーラーである。[iii]
 私は、この二つのトレーラーを視聴してからしばらく、トレーラーと小島監督作品を反芻しつつ、このロゴの意味について考えていた。けれども、納得いく考えは得られず、ただ映像・編集の妙や造形と表現の向上に息を呑み、興奮していただけであった(それでも期待以上のものだった)。思考は、抽象的なレベルで留まったままであった。ところが、先々月、ある本を読んでいる時に目に留まった一文を見つけ、調査するうちにある仮説が立てられた。「繋がり」、グローバル化、跳ね橋……。Kojima Productionsが、ただ「おもしろい」だけで感想が終わるようなものを世に出すわけがない、という信頼を私は持っている。私はこのロゴを見直した時、『MGS2』におけるテロリストの旗<サンズ・オブ・ザ・リバティー>、『MGSⅤ』における<クンゲンガ採掘場>のカセットテープや<蠅の王国>、テーマ「RACE」「VOICE」を思い出した。
 この二作は新しい挑戦であり、こういってよければ前作を破壊するものであった。例えば『MGS2』では前作『MGS1』の極限状態を利用した<S3計画:社会の思想的健全化のための淘汰 selection for societal sanity >のための<演習>が行われ、つまり遊び手がプレイすることで計画が完成されるという展開や、ゲーム形式の自己批評が行われた。『MGSⅤ』。前作『MGSPW』のポジティブなストーリーの裏で、プレイヤーが意図するとしないとにかかわらず、マザーベースは核武装することになる。<2つ目のエンディング>ではテーマカラーの黄色から赤色に変わる演出があり、続編『MGSⅤ』でマザーベースは壊滅、同時に<MSF>も崩壊し、新たに、復讐を目的とする<ダイアモンド・ドッグズ>が組織される。「メタルギア」シリーズとストーリーの繋がりはないものの、小島氏の独立後初めてのタイトルとなる『DS1』もアメリカ史と現代社会を反映した設定で、どうやら小島監督作品の一連は、テーマで繋がっているようである。[iv]
 小島秀夫氏は作品について「毎回、この作品で最後だ、と思って創っています」と述べている。続編を想定せず創ってきたために、シリーズを完結させたつもりの『MGS』からの『MGS2』や、『MGS2』の時系列上の続編『MGS4』では苦労もあったようだ。ところが『MGSPW』は明らかに続編を意識して創られていた。『DS1』はどういうつもりだったのかはわからない。『DS2』は、前作を意識した何かを意図しているのかもしれない、と私は考えている。
 そこで本稿では、<DRAWBRIDGE>の意味に迫る。
 私がたまたま、つまり何か意図と方法を持って調査しようと思って見つけたわけではない、後に示す一文と、その関連文献を調査して分かったこととを共有するため、そして、9月26日に開催される東京ゲームショウ(以下、TGS)が迫るなか(※Kojima Productions が登壇する)、このゲームを盛り上げたいと考え、本稿は急いで書かれた。
 本稿で触れられるプラグマティズム思想史やアメリカ史に私は精通しているわけではない。そのため、この大部分は魚津(2006=2020)に依拠したが、なるべく事実に即して調査・執筆を試みた。ご指摘いただきたい。
 小島氏とシナリオチームは、少なくとも、本稿で示すような概念の繋がりを念頭に置きながらストーリーを組み立てたのではないか、と私には思われる。もちろん未だ発売されていないタイトルであるし、新しい情報によって、大きく外れることもありうるだろう。この点についても沢山の指摘があるだろうし、いや、むしろそうしていただければ、これがどれだけ耐えられるものか分かるし、次はもっとおもしろいことを書こうというモチベーションになるので、是非、どんどんコメントして頂けると、喜びます。



ローティの引用か

「まだだ!まだ終わってない!」「リキッドォォォーーー!!!」

(『MGS1』より)

◆‥<DRAWBRIDGE>はローティの引用か

 目に留まったのは、Z・バウマンの著作『コミュニティ: 安全と自由の戦場』(2008)における第4章「成功者の離脱」の一文である。


 親の世代の集団的・連帯的な闘争を個人的に利用して、大恐慌を切り抜けて成功を収めた子どもの世代は、豊かな郊外住宅地に住み、「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことにした」と。

(バウマン 2008:71)

 この文脈については後述するが、<DRAWBRIDGE>の日本語訳である「跳ね橋」が引用されていることに注目してほしい。つぎは「跳ね橋」の引用元を見てみよう。

 それはあたかも、一九八〇年代あたりのある時期に、<大恐慌>を乗り越え郊外に移住した人々の子どもたちの世代が、自分たちの住む地域のうしろの跳ね橋を上げて、他の人々を自分たちの住む地域に移住させまいと決心したかのようである。[v]

(ローティ, 2000=2006:92)

 これはR・ローティの著作『アメリカ 未完のプロジェクト』の第三講義「文化左翼」の一文である。
 この二つから、バウマンとローティの両者とも、「跳ね橋」を使っていること、ライシュの「成功者の離脱」を引用していることが分かるだろう。残念ながらライシュの著作にまで調査は及ばなかったものの、これらの著作と『DS2』の関連は彼らが「跳ね橋」を使った文脈から迫ることができる。そして<DRAWBRIDGE>の意味もここから迫ってみることができる。
 まずは二人の文脈を確認しよう。
 リチャード・ローティは哲学の脱構築を説いたプラグマティストである。「なされた事柄」や「行為」などを意味するギリシア語 pragma に由来するプラグマティズムは、アメリカ思想の特徴を全体的に敷衍する哲学であり、その思想の源流はアメリカ開拓時代にあるそうだ。開拓民にとっては「どんな抽象的な思想も、それにもとづいて行動した結果がどうであるかという観点からとらえられることになる」(魚津, 2006=2020:12)。フロンティアで醸成され改良されてきたこの思想に自身の解釈を与えるローティは、「跳ね橋」を使った先の著作において、「文化<左翼>[vi]」について次のように述べる。たしかに<六〇年代>以前とずいぶん異なり、教育ある男性が女性について語る口調、教育ある白人が黒人について語る口調、アメリカ人の同性愛者の生活は(今もなお危険な状態にさらされているものの)ストーンウォール暴動以前よりも改善されており、文化<左翼>はそのカリキュラムによってこれに貢献してきたけれども、課税やNAFTAについて議論することにあまり時間をかけておらず、また「誰も失業者研究、ホームレス研究、ハウス・トレーラー駐車指定区域生活者研究のプログラムを企画していない」。というのも、彼らが立ち上がるのはサディズムとその犠牲者に対してであり、経済的な犠牲者ではないからである。「金銭の問題に集中するために侮辱の問題を無視しなければならないか、あるいはその逆であるかのよう」であり、「社会的に容認されてきたサディズムが着実に減少していったのと同じ時期に、経済的不平等と経済的不安が着実に増加していった」、とローティは指摘する(ローティ, 2000=2006:89)。
 そして、グローバル化とともに現れた経済世界主義 economic cosmopolitanism の文脈において、ライシュの「成功者の離脱」を引用しつつ、先の「跳ね橋」の喩えに続けてこう述べる。

 こういった郊外居住者たちは、世襲的カーストに属することになんの不都合も見出していないようであり、ロバート・ライシュが(『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』(The Work of Nations)という本の中で)「成功者の離脱」と述べていることを始めた。

(ローティ, 2000=2006:92)

 この後ローティは文化<左翼>の現状[vii]にたいして自身の提案を勧めていくが、それは本稿の目的から逸脱するので控える。兎に角、こうした文脈のなかで「跳ね橋」は使われた。同様にバウマンも、ライシュを引用しつつ、「コスモポリタニズム」「撤退」の文脈で、ローティの「跳ね橋」を引用する。
 ジグムント・バウマンを簡単に説明すると<液状近代 liquid modernity>や<祭りのコミュニティ>の語で有名な社会学者である。
 先に示した『コミュニティ』は、元々、一冊ごとに基本的な主題を取り上げたシリーズものの一冊であり、コミュニティ概念の多義性から、自由と安全のアンヴィヴァレントな現代社会の様態を描いている。いわば二律背反である安全と自由(しかしそのどちらも望まれる)という観点から、コミュニティの多義性をみつめることから始め、テーマは第3章「撤退の時代——大転換第二段」、第4章「成功者の離脱」、第5章「コミュナリズムの二つの源泉」、第6章「承認を受ける権利、再配分を受ける権利」、第7章「多文化主義へ」、第8章「はきだめ——ゲットー」、第9章「多文化の共生か、人間性の共有か」と移っていく。第3章以降からグローバル化、コスモポリタニズム・エリート、多文化社会がテーマと関わるようになることに注目したい。
 例えば近代革命以降、パノプティコン型のコミュニティにおいて非エリートはエリートの関与に「依存」していた。しかし一方で、関与という戦略はエリートのほうも非エリートに「依存」させる固定的な特性であった。しかし、エリートは、非エリートに関与し続けることにコストがかかることに気付き、非関与の戦略をとるようになる。

 〔第二次世界大戦〕戦中の破壊と戦後の再建の影響下にあった何十年かが過ぎ去ると、経営者にも変化が訪れ、困難で厄介な経営上の責務を捨て去る傾向が鮮明になった。その責務は以前、資本の名目上の所有者から背負わされたものであった。資本の所有者が姿を隠したそのあとを、経営者も本格的に追いかけ始めたのである。「大いなる関与 engagement 」の時代の後には、「大いなる撤退 disengagement 」の時代が到来した。高速、高加速の時代、不関与の時代、「弾力性 <フレキシビリティ>」、「人員削減<ダウンサイジング>」、「外部委託<アウトソーシング>」の時代。だれかとともにいるのは「追って通知があるまで」であったり、「満足の続く限り」(しかしけっして長くは続かない)であったりする時代。

(バウマン2008:59)

 また、次の興味深い「脱領域」性の記述も、「撤退」を説明する。

 しかし、この新しいエリートたちの居住地を、かれらの(昔ながらの物理的あるいは地誌的な意味での)「連絡先〈パーマネント・アドレス〉」と規定することはできない。かれらの世界では、電子メールのアドレスや携帯電話の番号以外に「連絡先」はない。この新しいエリートたちを居住地で定義することはできない。かれらは、完全に”領域的”な存在なのである。脱領域的な領域だけが、きっとコミュニティのない領域たりうるのである。

(バウマン, 2008:77)

 この説明は、彼ら(コスモポリタン・エリート)にとってコミュニティはもはや液状的なものであることを示している。この点は後に見る『DS2』トレーラーのある部分と符合するという点でも興味深い。後述する[viii]。

 撤退について、バウマンはさらに述べる。ローティの、文化左翼が「金銭について語ることを好まないこと」を引用した後、コスモポリタン・エリートが「公共輸送」問題からも撤退している点にも触れている。新しいエリートたちは自家用車をもち、公共輸送の惨状を気に病むこともないが、実はかれらは、親が渡ったあとの跳ね橋を吊り上げたのである。さらにかれらは忘れている。このような橋が"社会的に"作られ、守られているということ、そして、もしそうでなかったならば、かれら自身が自力で現在の場所にたどり着くことはできなかったであろうということを。(中略)実際上の意義や目的があるにもかかわらず、新しいグローバル・エリートは「公共輸送」問題から手を引いてしまった。

(バウマン, 2008: 88-89)

 以上、「跳ね橋」が撤退・液状的な特性をもつコミュニティ(繋がり)についてグローバル化とコスモポリタニズム(エリート)との関連を論じる文脈において2つの著作において使用されていることを整理してきた。ちなみにバウマンの第9章における多文化社会、ローティのプラグマティズムと多文化社会の関連については『DS2』のテーマ考察において触れる。
 先にトレーラーを視聴済みである読者には、既に両著作とトレーラーの内容との関連をなんとなくでも察していることと思われる。次でそのことを詳細に見ていこう。

 ここまでに見てきたコスモポリタニズム・エリートの撤退はUCAに象徴されているように私には思える。前作『DS1に登場するキャラクタの殆どがエリートである[ix]。フリーとして活動していた主人公サムでさえ、大統領の息子であり、能力者であり、UCA組織の<BRIDGES>に所属となり、北米大陸を一人で横断することができる。『DS2』の2024年トレーラーにおいて、<路を超えて>の表示後、北米を繋げた<BRIDGES>は「配送業務から撤退」していることが分かる。また、フラジャイルは民間組織「跳ね橋部隊<DRAWBRIDGE>」を立ち上げる。パトロンは「潤沢な資金と技術」を持ち、UCAの人間かどうかも分からず「誰も会ったことがない」ようである。かれらの目的は「カイラル通信というインフラで繋がること」のようである。時系列は未だ分からないが、彼らはメキシコに南下するようで、彼らが移動拠点にするのは、世界で初めて世界周遊を果たした船を率いたマゼランの名を冠する<DHVマゼラン号>である。また、「配送は無人機がやってくれる」ため、「カイラル通信とAPASがあれば この地上で人は移動する必要がなくなる」。もしかしたら<BRIDGES>が配送業務から撤退したのはこのためなのだろうか。5分17秒から「ゴースト」「暴力」というセリフのあと、ヒッグスは”人形”との応酬の後激しいアクション・シーンに入る。そしてフラジャイルの"謝罪"の後「あなたを騙していたわけじゃないの」にかぶせて<DRAWBRIDGE>のロゴが表示される。
 2022年のトレーラーにおいては次のことが分かる。DHVマゼラン号の全体が見え、「それ」[x]を決めたのは、UCAという国ではなく、「APACという民間会社」であることが語られ、3分51秒で「SHOULD WE HAVE CONNECTED? 我々は繋ぐべきだったのか」と表示、前作で繋いできた遊び手と、繋がりを良しとする者に、問いかける。

 二つのトレーラーのなかで、<DRAWBRIDGE>は反復されている。メキシコへの南下と<DHVマゼラン号>はグローバル化を思わせる。<BRIDGES>は配送業務から撤退しており、これまでUCAの下で働いていたサムは、今度は民間組織に所属する。その「跳ね橋部隊」の背後には、潤沢な資金と技術を持つパトロン(エリート?)がいて、誰も顔を知らない。おそらく、人と人との繋がりは、無人機がその役割を代替することになるのだろう。ヒッグスの顔は、まるで「バットマン」シリーズに登場するキャラクタ「ジョーカー」のようである。また<カイラル通信>という高速の通信インフラで繋ぐことは、<APAS>も相まって、より人との繋がりを弱いものにするのかもしれない。バウマンは「大いなる撤退」の時代の一つに、「高速、高加速」の時代を挙げている24年トレーラーの5分17秒からのシーンは社会感覚だけでなく、身体感覚にも訴えるものである。

 初めに私は、ローティの引用だろうか、という問いからはじめた。おそらく、その通りであろう。ここでは、ローティを念頭に置きつつ作られているであろう、と一応結論する[xi]。というのも、そもそも『DS2』は未だ発売されていないからである。それにそもそも『DS2』はゲームである。

 ある種運命であり、行為者でもあるもの。このことはゲームがラディカルに問題を解決しないということとも関わる。次の考察はこのことについてみるものでもある。

◆‥『DS2』は実用主義に関わるテーマか

 ここまでグローバル化とプラグマティズムとしてのローティの立場、そしてローティの指摘をコミュニティ(安全と自由)の観点から広域に扱えられるようにしたバウマンについて調べたことを整理し、トレーラーから<DRAWBRIDGE>の意味に迫ってきた。ここではプラグマティズムとその歴史から小島監督作品を簡単に振り返りつつ、『DS2』のテーマに迫る試論を展開してみる。そのためにはまずプラグマティズムについての説明が必要であろう。
 ローティが自称するようなプラグマティズムは、実用主義とも訳されることがあるが、これは誤解を生む可能性がある。確かにプラグマティズムは、真実の探求や効果、結果を重視するものの、魚津によれば、「可謬主義」を認める伝統があり、また道具主義を主張するデューイは観想と実践とを区別する二元論を否定し、宗教と詩が想像力とのかかわりにおいて本質的に同一であることを認めていたそうである。またデューイのいう「人間の問題 the problems of men 」を解決する試みに、ただちに取り組むことができるとするローティは、誇りやロマンスに立ち返るべきとも主張している。とはいえ、実用をもとめる、という考えはプラグマティストに見られる傾向であるといえる。
 このような考えはフロンティア時代に醸成されてきたと考えられている。
 マゼランを船長とする船が世界周遊を果たす世界大航海時代に、コロンブスによって”再”発見された「アメリカ大陸」は、一六〇七年のジェイムズタウン建設をはじめ、スペイン、フランス、オランダ、イギリスの諸国によって植民地化されていき、定住者たちは「明白なる天命」を信条に西部開拓を行った。
 イギリス本国で迫害され、信仰の自由を求めて、一六二〇年にアメリカ大陸に渡ってきたピルグリム・ファーザーズは、契約に基礎をおく民主的な政治団体を形成しようとした。開拓されていない自然環境や「隣人は異人」の世界に適応する必要があった「開拓民にとっては、どんな抽象的な思想も、それにもとづいて行動した結果がどうであるかという観点からとらえられることになる。」(魚津, 2006=2020:12)こうした背景からエマソンやソローで有名な超越主義者が立ち上がり、ソローのエッセイを持ち歩いていたM・ガンジーの非暴力不服従はM・L・キングらに影響を与えることになる。アメリカ大陸には先住民に加えて、イギリス人、黒人奴隷、ヒスパニック系、韓国系、中華系、日本人等多数の人種が混在する社会、「人種のるつぼ」や「サラダボウル」と喩えられる多文化社会が形成されることになる。こうした経緯からプラグマティズムは、「現代もふくめてアメリカ思想全体の特徴をいいあてている」(魚津, 2006=2020:12)。
 プラグマティズムを含め、哲学を脱構築すべきと主張するローティは、「文化左翼」を批判したうえで、彼らは行為者としてあるべきという。「文化左翼」はサディズムを減少させることに貢献してきたけれども、数字をないがしろにしたために経済的不平等や経済的不安にあまり関心を払ってこなかった。そうした問題を、とある「品のない扇動政治家」に任せてしまったし、プロレタリアートが中産階級になるどころか逆に中産階級がプロレタリアート化してしまっている、という。「文化左翼」は、理論について考える哲学を一時停止し、リンカーンやホイットマンに立ち返り、彼らが思い描いていたアメリカをどのようにすれば完成するのかを考える必要がある、とローティはいう。
 この傍観者と行為者という点は、『DS2』が現代においてゲームとして世に出されることと関係があるように思われる。「ゲームであること」は、ラディカルに問題を解決しないということを意味している。はっきりいって、ゲームは直接に問題を解決しない。その問題とは、私的問題、公的問題ともにである。ゲームや映画、小説、漫画等のエンタメが批判されるのはこれを論点にしていることから、その結論に辿り着ける。ところが、この「ゲームである」という、自明とも思えることを確認することは、先の命題を正しくも、疑わしいと思わせる。
 例えば「ゲームは問題を解決しない」という時行為の主体としてゲームを考えると正しいのであるが、ゲームをプレイすることで、言い換えると全く正しいものとはいえなくなる。それは小島秀夫監督作品をみれば明らかであろう。
 小島監督作品の特徴の一つとして傍観者と行為者を行き来する視点を持たせることといってみることができるだろう。例えばカットシーンは、それまでプレイしていた操作できる状況<プレイアブル・シーケンス>から離れ、行為者ではなくなる。遊び手は、例えば暗転する瞬間、プレイする行為者ではなくなり、主人公と彼と関わるキャラクタとの物語・アクションを眺める傍観者となる。また、オープニングから操作可能となり、次第に遊び手は主人公と「一体」になっていくが、小島監督が得意とする方法においては、エンディングにおいて遊び手は主人公と乖離するよう仕向けられる。『MGS2』の冒頭、カットシーンから始まり、ビッグシェル「基底部」に潜入した雷電[xii]が「ノード」にアクセスする過程で遊び手は、RPGの伝統のように自分の名前を決めることができる——これはこの世界そのものがゲームであることを示唆している——が、エンディングにおいてその入力した名前が刻印されたドッグタグ<兵士識別票>を握りしめ、投げ捨てる描写(カットシーン)がある。『MGSⅤ』では遊び手自身がビッグボスであることが明かされ、シリーズの円環を繋ぐ主体が遊び手自身であることが示唆される。
 小島監督作品の別の特徴として運命と自由がテーマにあることがいえるだろう。例えばカットシーンはそのストーリーについて遊び手が操作・関与することができないものとして表れる。インタラクティブ・ストーリーという語に表されるように『Detroit: Become Human』や『Life is Strange』といったゲームとは対称的に、基本的に一本道のストーリーである。『Fallout4』の序盤のある時点から遊び手は、その赴く場所に制限がないことを例にとっても対称的であることが分かる。
 こうした特徴をもつのは、小島秀夫氏が映画を好んでいることのほかに、小島秀夫監督作品がゲームという形式をとってきたことと、アメリカ史・社会を下地にしていることからであろう。『MGS2』ではサンズ・オブ・リバティーと愛国派がフィーチャーされ、遊び手のゲームプレイによって<演習>が完成された。『MGSⅤ』では、多文化社会と9.11を「復讐」という観点から、「解釈」の問題としつつも、「蠅の王国」のラストカットにて報復の連鎖が「まだ終わっていない」ことを示した。キャラクタ「ソリッド」をプレイしてきた遊び手にとっては、『MGS3』、『MGSPW』、『MGSⅤ』は過去のお話である。既に起こったことという感覚をもちつつも、その場における行為者としてプレイする。変えられるものと変えられないもの、社会を知ること、感情を覚えることを小島監督作品は見つめつづけており、それは前作「DS1」においてもそうであった。
 星野源氏は『DS1』について、NHKのテレビ番組「ゲームゲノム」において次のように語る。「いろんなことを感じるゲームなんですよ。現代社会と照らしあわせて考えることも本当にたくさんあるし対人(たいひと)っていうコミュニケーションだったり距離感だったりといったところでも、偶然にも、現実とリンクしてしまったところもあって考えるし……」。[xiii]本稿で述べていることは、この言葉が意味することの一つにすぎないと私は思う。
 『DS1』は液状的な世界観であるともいえるだろう。あの世とビーチが発見され、死後人の魂(カー)は躰(ハ―)を去り、生と死の境界は淡く、時雨が降り、触れたものの時を急速に進めて劣化させ、また時雨は「時間感覚を混乱させる」(『DS1』のドキュメント「時雨について」より)。<キャッチャー>に掴まると一面にタールが滲み出て直ぐに海と化す。BBは液体に包まれており、サムは死んでもこの世に戻ってこられる。背中に荷物(過去)を背負い、お腹に胎児(未来)を抱え、その身体(今)で歩く。届けた荷物は未来となり、歩いた跡は路となり、次に歩く人の道標となる。父親と直接会っていたことは忘れており、彼とは記憶やビーチで繋がっている。他のプレイヤーとは直接繋がることはなく、モノやインフラ、そして「いいね!」で間接的に繋がる。ゲームプレイ中、人を殺すとその躰<ハー>は48時間でネクローシスを起こして、ビーチに行った魂が戻ってくることを拒否する。その魂と触れるとヴォイド・アウトと呼ばれる大爆発を起こすため、遺体を焼却所まで運ぶよう遊び手は迫られる。死は瞬間ではなく、魂<カー>が移動するプロセスと解釈されている。
 この液状的な世界観はバウマンを思わせる。UCAのエリートたちは主人公サム一人にUCA加盟の交渉を任せ、カイラル通信と配送網というインフラで繋ぐことは「政治的に正しい」としている。高速通信により「脱領域的な」繋がりを人々は享受できるだろう。「人は移動する必要がなくな」り、「配送は無人機がやってくれる」。
 また、『MGS1』、『MGS4』ではソリッドとリキッド両者の「兄弟」対立構造があったことと、「蠅の王国」の王子は、『MGS1』、『MGS2』、『MGS4』の主人公ソリッド・スネークの兄弟で後にリキッド・スネークと呼ばれる男であり、多文化社会のアメリカにおけるツインタワーと自由の女神のラストカットが描写される『MGSⅤ』(「蠅の王国))と、『DS1』とを、バウマンのいうリキッド・モダニティで結びつけるのは考えすぎだろうか。しかし『DS2』のトレーラーでヒッグスが「兄弟!」と呼び、「ここで製造している銃火器をこの大陸中に流している」こと、「いつの時代も」「暴力」が「世界を支配する」ことを話すのは真面目なヒントではないのだろうか。

 アメリカは移民の国であるにも関わらず、アメリカとメキシコとの国境はずっと政治的な議論の場となってきた。[xiv]ローティは、グローバル化がもたらすと予想される結果に対処する方法について<左翼>から返ってくる二つの答えを挙げて、注にて、こう警告する。

これら二つの答えの対立は、一九九六年十月三-四日にコロンビア大学で開かれた「労働者のための討論集会」ではっきり示された。著名な奴隷史家、オーランド・パターソン(Orlando Patterson)は、アメリカの労働者を守るために、メキシコとの国境は早晩閉鎖されねばならないと主張した。彼は「<第三世界>の労働者についてどう思うか」と叫ぶ人々によって質問攻めにされた。黒人の学者が圧倒的多数の白人左翼の聴衆に野次られことなどめったにないが、そのときそれが起こったのである。パターソンが持ち出した論点は、アメリカ左翼が二一世紀に直面することになるもっとも深い対立を引き起こすものではないか、とわたしは思っている。

(ローティ, 2000=2006 : 191, 注8より)

 この警告は現実のものとなっている。2017年1月、ドナルド・トランプ大統領は大統領令に署名し、メキシコとの国境に追加で壁を建設するよう命令した。2024年6月の大統領選討論会(トランプ氏とバイデン氏)、2024年9月の大統領選討論会(トランプ氏とハリス氏)においても国境は議題の一つとなっていた。アメリカ国内の分断を語る時、メキシコとの国境はその一つとなっている。
 私は、『MGSⅤ』と、多文化社会における「会話」を重要視したローティとの関連をみる。というのも『MGSⅤ』のテーマは「RACE」と「VOICE」であったからである。
 『DS1』で人々は繋がった。そして『DS2』のトレーラーで問いかけられる。「われわれは繋がるべきだったのか?」

 『DS2』はゲームである。アメリカの問題をこのゲームが解決することはない。ゲームという形式である以上、ゲームを遊んでいる間遊び手は、この問題に対して傍観者であるしかないという運命のうちにある。しかし小島秀夫監督作品はこれまでもこの観点から目を逸らさないでいた。『DS2』はこの現実とどのように向き合うのだろうか。そもそも向き合うのだろうか。そして私たちはこのゲームをプレイし、何を持ち帰ることになるのだろう。このゲームは私たちにどのような現実と向き合わせようとするのだろう。

2025年、発売。


[i] https://x.com/KojiPro2015/status/1419585782096928771, 2024年9月21日閲覧
[ii] 「メタルギア」シリーズは以下、『Metal Gear Solid』を『MGS1』、『Metal Gear Solid 2: Sons of Liberty』を『MGS2』、『Metal Gear Solid 3 : Snake Eater』を『MGS3』、『Metal Gear Solid 4 : Guns of the Patriot』を『MGS4』、『Metal Gear Solid : Peace Walker』を『MGSPW』、『Metal Gear SolidⅤ: Ground Zeros』及び『Metal Gear SolidⅤ: The Phantom Pain』を『MGSⅤ』と略称する。
[iii]The Game Awardティザートレーラー(2022)State of Play アナウンストレーラー(2024)のことである。
[iv] この点について、後に『DS1』のディレクターズ・カット版で新しい情報が加えられているかもしれないけれども、残念ながら私は未だプレイしたことがない。
[v] ローティの原文を確認することはできなかったが、『Etica & Politica / Ethics & Politics Ⅻ, 2010, 1』に収録される Brian Duff の「4.Enlarging the metaphor: from family outward」(未読)を参照すると、この箇所の原文は“It is as if, sometime around 1980, the children of the people who made it through the Great Depression and into the suburbs had decided to pull up the drawbridge behind them. …… ." (Duff, 2010:222)とあり、ローティの「跳ね橋」はdrawbridgeであると思われる。
[vi] 大賀祐樹(2006)の論文はローティの「左翼」を簡潔に整理している。「ローティが左翼論にとりかかるようになったきっかけは, 現代のアメリカにおける政治的な「左翼」の衰退である。ローティの歴史分析によると, アメリカの「左翼」は19世紀~1960年頃まで伝統的に労働問題に主に取り組んできた「改良主義左翼(Reformist Left)」, 1960年代の10年間に学生運動による主に公民権運動と反戦運動に取り組んだ「新左翼(New Left)」, 1970年代以降に実際の政治の活動から離れ, 大学内で文化の理論を研究することに専念するようになった「文化左翼(Cultural Left)」の三種類に分類される。」
[vii] ローティ自身「改良主義はあまり旗色がよくない」という。例えば、大賀によれば、二大政党制のアメリカにおいては、ラディカルな立場の人々によって議会の多数を占める事や大統領を出すことは困難であるという考えを示している。
[viii] <APAS>のこと。
[ix] Azrail氏の、小島監督作品に登場するキャラクタはエリートがほとんどであるという指摘にインスパイアされた。URL: https://x.com/S_the_Azrail/status/1303732239549620225 , 2024年9月17日閲覧。
[x] 「それ」が何を指しているのかは分からない。
[xi] さらにいえば、『MGSⅤ』のカセットテープ「クンゲンガ採掘場」で語られる民族の分断——ブータとムベレ——はローティ『偶然性・アイロニー・連帯』における「ツチ族とフツ族」からインスパイアされたと考えることはできるかもしれない。「かもしれない」というのは筆者がこの本を未だ読んでいないからである。また伊藤計劃の小説『虐殺器官』を思い起こす。
[xii] このキャラの名前は、9.11のために「ライデン」から漢字の「雷電」へと変更された。但し、英語版では「Raiden」。ここでも小島監督作品とアメリカの関連を認めることができる。
[xiii] 星野氏は、このゲームが発売された2019年の後、コロナが猛威を振るいWHOが宣言し、日本国内で非常事態宣言が初めて発令された後、2020年4月に『うちで踊ろう』という楽曲を無料で配信した。この楽曲は変わってしまった人間との距離感を感覚させるものでありつつも、それを楽しもうという星野氏の想いがあったのだろう。それは『DS1』の「間接的な繋がり」からインスパイアされたものであると思う。URL: https://www.instagram.com/p/B-fFPKrBc-X/?igsh=MXJpc2FpOXQzNW5hZw==, 2024年9月11日閲覧。
[xiv] 詳しくは鈴木慈(2019, in:『国際安全保障 第46巻第4号』)を参照。

◆参考文献

<VIDEOS>
- Kojima Productions『DEATH STRANDING 2(Working Title)- TGA 2022 ティザートレーラー - [CERO] 4K』, URL: https://www.youtube.com/watch?v=nHkKVqwdG2I , 2022年12月9日公開, 2022年12月9日閲覧。
- Kojima Productions『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH – State of Play Announce Trailer | [CERO]4K』
, URL: https://www.youtube.com/watch?v=vtvQHMHXn4g , 2024年2月1日公開, 2024年2月1日閲覧

<BIBLIOGRAPHY>
- Z・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』, 奥井智之訳, 2008, 筑摩書房, Zygmunt Bauman『Community : Seeking Safety in an Insecure World』, 2001, Polity Press, Cambridge.
- R.ローティ「第三講義 文化左翼」, in: R.ローティ『アメリカ未完のプロジェクト【20世紀アメリカにおける左翼思想】 Achieving our country——Leftist Thought in Twentieth-century America——』, 小沢照彦訳, 2000=2006, 晃洋書房, 1998, Harvard College, USA
- 大賀祐樹『ローティの左翼論の源流』, in: 『社会研論集 Vol.8 2006年9月』, 指導教員 古賀勝次郎, 早稲田大学リポジトリ, URL: https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/15981/files/SyagakukenRonsyu_08_00_004_Ohga.pdf , 2024年8月31日閲覧
- 魚津郁夫『プラグマティズムの思想』, 2006=2020年, ちくま学芸文庫
- Brian Duff「4. Enlarging the metaphor: from family outward」『The Pragmatic of Parenthood』, in:『Ethics & PolitcsⅫ, 2010, 1』, Università di Trieste. Dipartimento di Filosofia, Lingue e Letterature, URL: www.units.it/etica , ISSN 1825-5167, 2024年9月7日閲覧

<GAMES>
- 『Metal Gear Solid』, 1998
- 『Metal Gear Solid 2: Sons of Liberty』, 2001
- 『Metal Gear Solid 3: Snake Eater』, 2004
- 『Metal Gear Solid 4: Guns of the Patriot』, 2008
- 『Metal Gear Solid: Peace Walker』, 2010
- 『Metal Gear Solid Ⅴ: Ground Zeros』, 2014
- 『Metal Gear Solid Ⅴ: The Phantom Pain』, 2015
- 『Death Stranding』, 2019, Kojima Productions


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