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330 とどのつまり

詩はそう浮かばない

 昨日、生まれてはじめて詩を書いてnoteに掲載した。すると神野さんが記事で紹介してくれた。ありがとうございます。

 小説に比べれば詩は短くても成立するだろうから、バンバン書けそうだが、せっかくなのでマガジンも「詩の時間」を新たに立てた。ところが、その後、まったく書けないのである。ま、昨日今日のことだけど。
 ありがたいことに、昨日は突然、詩が降ってきたのでそれを受け止め、受け損なったところは拾い集めて完成させた。
 それと同じことが起こらないかなあ、とぼんやりしていたものの、今日はその日ではないらしく、いまのところぜんぜん詩は降って来ない。ま、しょうがないよね。また、いつか。
 それより「とど」だな。
 いや、別に「とど」をそれほど強調したくはないけれど。語源をネットで調べてみると。「とどのつまり」の「とど」は、止め(とどめ)などの「とど」で、よく言われるボラが出世魚的に最後に「とど」と呼ばれることが語源というのではなく、そもそも「それが最終形態」という意味の言葉で「とど」があったのが先と考えられている。さらに海獣のトドについても、どうやら日本ではあのタイプをすべて「アシカ」と呼んでいたらしいけれど、その「最終形態」として「トド」だなあ、と呼ばれるようになったらしい。
 もちろん、人のことを見た目で「トドみたい」などと形容するのは失礼なことだろうけど、その意味としては「最終形態だ!」と賞賛している、と取れなくもない。はい、それはムリがありますけど。また発言者を擁護するつもりもないけど。

最終形態を目指してはいけない?

 そもそも、「かわいい」と呼ばれるケースの多くは「幼児」を連想させる形態だと言われている。だとすれば「かわいい」よりも「とど」の方がスゴイってことになるよね。「かわいい」はかなり失礼な表現になってしまう可能性もある(いや、現実にはその正反対だけど)。
 かわいい価値観をメインとするなら、人は最終形態を目指すのではなく、幼児を目指すべきってことになる。最終形態になってはいけないのである。少なくとも外見だけは。
 もちろん、「かわいい」には言動や性格も加味されていることは承知だ。そのおかげで、外見的には特別かわいくもないのに「かわいい」と言われている人もいる。この救済策のおかげで「かわいい」は格段に市場を拡大してしまった。一般的には「これのどこがかわいい?」となるケースでも「かわいい!」と言い切ってしまう人たちが一定数存在する。
 かわいければ何をしてもいいわけではないのだが(かわいくしていなければならない)、どこかで成長を拒絶したい気持ちがあってもいい、とは思う。みんなでトドを目指す必要はないのでは、と思ってしまう。とはいえ、かわいさを維持するのもなかなか大変だろう。
 高齢になるとみな最終形態になっているかと言われると、それは違う気もする。高齢になった人も動物も、幼児性とは違う意味でのかわいさがあるからだ。
 どことなく足りない部分、成長しきれていない部分を持っている限りはかわいさを維持できるかもしれない。
 ちなみに「トド」は「Eumetopias jubatus」が正式名。生まれて3、4年で最終形態になるそうだ。あっという間ですね。
 ここまで書いたけど、まだ詩は降って来ないので今日はここまで。

左でがんばる。


 

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