英雄を超えていけ

◎注意

このnoteには、映画「マッドマックス 怒りのデスロード」と「ワンダーウーマン」の致命的なネタバレが含まれています。

未試聴の方には閲覧をお勧めしません。


いまいち下げ方がわからないので寿限無でも置いときます。

寿限無(じゅげむ) 寿限無(じゅげむ) 五劫(ごこう)のすりきれ 海砂利(かいじゃり)水魚(すいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ) 雲来末(うんらいまつ) 風来末(ふうらいまつ) 食(く)う寝(ね)るところに 住(す)むところ やぶらこうじの ぶらこうじ パイポ パイポ パイポの シューリンガン シューリンガンの グーリンダイ グーリンダイの ポンポコピーのポンポコナの 長久命(ちょうきゅうめい)の長助(ちょうすけ) 


「マッドマックス」と「ワンダーウーマン」は面白かった。次代に残る名作だということは異論がない。

面白かったのだが、ずっともやもやしたものを抱えていた。

なぜかというと、このふたつの作品は、「自己犠牲」がストーリー終盤の重要なポイントを占めてしまったからである。


誰かのために命をかける。ロマンチックではある。

しかし、実際問題、「好きな女を命がけで救う」というチャンスはほとんどないのである。

私が自己犠牲で終わる作品が苦手なのは、その辺の乖離が気になってしまうからだと思う。

これを見て、「ああ好きな人のために命をかけるって素敵なことだな」と思ったとしても、現実にその思考は生かす機会はほぼない。

そしてそれは、無理に生かそうとしてはいけないものだと思う。その思考を強引に現実に持ってくると、二、二六事件や地下鉄サリン事件のようなテロが起こってしまう。


「マッドマックス」と「ワンダーウーマン」がジェンダー的に素晴らしい、先進的だ、という評価を得ていなければ、こんなにひっかかることもなかっただろうと思う。

なぜならこの自己犠牲によるヒロイズム、古典的な「男の夢」だと思うから。


このふたつの作品が面白いことは異論がないので、ここを踏まえてアップデートされた物語があったら見てみたいと思う。

英雄には英雄を超えてほしい。