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「真の歴史教科書のネタシリーズ3」 〜聖書を批判的に検証する

 私の人生に少なくない影響を与えて来たキリスト教の正体については、子どもの頃からずっと気になっていた。

「世界中に多くの信者のいるキリスト教は素晴らしいもの」との、社会から来る先入観は心の中に深く刻まれており、これまでは表立って批判しようと思ったことはなかったが、様々なテーマについて調べて情報を得る中で、キリスト教を全面的に批判、否定する心の準備ができたので、キリスト教の聖典である聖書(旧約聖書、新約聖書)の内容を見ていくことで、その正体を探っていく。


旧約聖書

創世記

天地創造

 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」 「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」 そのようになった。地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。タベがあり、朝があった。第三の日である。
 神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。 天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。タベがあり、朝があった。第四の日である。
 神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」 神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」 夕べがあり、朝があった。 第五の日である。
 神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」 そのようになった。神はそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、他を思うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
 神は人を自分のかたちに創造された。
 神のかたちにこれを創造し
は男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地をあらゆる生き物を治めよ。」
 神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。 それはあなたがたの食物となる。
 また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。神は、造ったすべてなものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
 こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。
神は第七の日を祝福し、これを聖別された。 その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
 これが天と地が創造された次第である。

旧約聖書

 第四の日を見ると分かるように、神は地球を中心として太陽と月を作っている。天動説の価値観だ。
 この記述が、天動説及び、地球にしか生物はいないとの考えを、科学が進歩するまでの人類に植え付けた。
 地球に人類を作り出した異星人による言葉だとしても、地球のために太陽と月を作ったとの記述は真実から程遠いのは明らかだ。

 それから考えると、この記述全体が全く信頼に値しないと考えるのが妥当だろう。個別の記述の意味を考えることには恐らく何の価値もない。

 アダムからイブが作られたシーンのすぐ後の記述はこうだ。

男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。

 何と、アダムは最初の人間ではなかった!
 どういうこと?
 しっかりと説明してもらいたいものだ。

原罪問題

 次が聖書最大の問題箇所、エデンの園での有名な出来事だ。

 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪
を知る者となることを、神は知っているのだ。」 おんな
 女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。

 アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を取って食べたことを原罪だとする考え方が、キリスト教の根幹に横たわっていて、これがキリスト教系の教団の力の源泉になっている。脅しのネタとして、また従属させる力として。

 この事件についての様々な解釈を見て来た中で、私が最も納得したのは「キリスト教は邪教です!」(ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳)の中の以下の解釈だ。

「女の本質はヘビでありイプである」とキリスト教の僧侶は言います。
 要するにキリスト教では、「女が原因でいろいろな災いが起こる」とされているのです。
 その結果、「したがって科学は女から生じる」となったのですね。科学は彼らにとっては災いですから。
「女」が作られたことによって、人間ははじめて「認識という木の実」を味わうことを学んだというわけです。
 これは神の計算違いでした。自分の敵を作ってしまった。人間が科学的になれば、僧侶も神々もおしまいですから。
 だから、キリスト教は科学を禁じたのです。科学は最初の罪であり、すべての罪を生み出すものであり、原罪であるというわけです。
「聖書」には「汝認識することなかれ」という言葉があるくらいですから。
「科学からどう身を守ればいいのか」が長い間、神の主要な問題となりました。そしてその答えは、人間を楽園から追放することでした。
 ヒマがあって幸せだったら、人間は頭を使ってものを考え始める。そこで僧侶たちは、人間が考えるのをやめるように、「死」「苦労」「さまざまな悲惨なできごと」「老化」、そして「病気」をでっちあげたのです。
 それらによって科学を倒そうとしたのですね。
 しかしそれにもかかわらず、ものごとを考えるという力は、天にさからい、神々が落ちぶれていくのを知らせるように、高くそびえるものなのです。
 人間は考えるのをやめなかった。そこで、今度は神は戦争を作りました。民族と民族を分断させ、人間がたがいに攻撃しあい、絶滅するように仕向けたのです。
 だからこそ、キリスト教の僧侶は、いつも戦争を必要としてきたのです。戦争は科学の発達を妨害するからです。

「キリスト教は邪教です!」

 キリスト教の目的は、人々を信者にし、献金させるとともに心を支配することだ。聖書や牧師の言う言葉に無条件に従う従順な信徒を確保しておくためには、自分で考える力を奪う必要がある。
 その際に邪魔になるのが「科学」である。
「善悪の知識の木の実を食べること」の象徴しているものが「科学」であるという説には非常に説得力がある。

「善悪の知識」との言い方は、単なる知識ではなく、ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)への批判を禁じたかった思いの表れではないだろうか?

約束の地

 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」
「私はあなたが身を寄せている地、カナンの全土を、あなたとあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。」

旧約聖書

 これが、現在のイスラエルの土地が、ユダヤ人に対して神から契約によって与えられたとする、いわゆる「約束の地」の根拠だ。
 証人はアブラム(後のアブラハム)ただ一人だ。
 この言葉が現在のパレスチナ問題を生み出した。この言葉が嘘であれば、アブラハムはパレスチナの人々に謝る必要がある。


割礼

「私とあなたがた、およびあなたに続く子孫との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたかたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない。包皮に割礼を施しなさい。これが私とあなたがたとの間の契約のしるしとなる。」

旧約聖書

 これが世に言う割礼だ。
 神もくだらないことを要求したものだ。割礼に何の意味があると言うのだろうか?他に要求すべきものを思い付かなかったのだろうか?

生贄

 また、神はアブラハムに信仰の深さを試すため、ひとつの「試練」を与えたとされます。それが、「息子イサクをいけにえに捧げよ」というものです。アブラハムがその試練に応え、息子を手にかけようとしたところ、直前に中止が告げられ、神はアブラハムの信仰の深さを認めてイサクの子孫、つまりヘブライ人たちが世界中の民の中で最も優れた勝者になることを約束したのです。
 これ以外にも、『旧約聖書』には神の命令と神との約束、 ヘブライ人が「選ばれし民」であることなどが繰り返し書かれています。 こうしたストー
リーがユダヤ教の特徴である 「唯一神とヘブライ人との契約関係」やユダヤ人が「神に選ばれた民」 であるという 「選民思想」 につながります。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 宗教編」

 神は生贄を要求するものだろうか?
 そして、神の要請に応えて我が子を生贄にするような人間を、神は高く評価するだろうか?神に言いなりの、主体性のない人間を。

 生贄の儀式は悪魔崇拝で行われるものなので、旧約聖書における神は悪魔=ルシファーだと言っていいのではないだろうか? 旧約聖書が本当に神の言葉を記したものであるならば、だが。

アブラハムは信用できるのか?

「約束の地」や「選民思想」の根拠は全てアブラハムの証言のみに頼っている。
 アブラハムが自分を正当化、自分や自分たちの立場を有利にするために書いた創作であると考えた方が納得がいくのではないだろうか?

「歴史は勝者によって書かれる」との言葉がある。私から見れば、神の言うことであれば何でも従う、従順な人間を作り出すための、アブラハムによる創作、あるいはユダヤ教を作って人々を支配しようとした者たちによる創作である可能性が高いと感じる。

パウロについて

「キリスト教は邪教です!」ではパウロについて以下のようにボロクソに書かれている。

 イエスの教えと正反対のものが、パウロが作り出した現在のキリスト教です。
 パウロはイエスとは正反対のタイプで、「憎しみの論理」の天才なのです。パウロはイエスを含めて、すべてを憎しみの犠牲にしてしまいました。
 パウロはイエスを自分の十字架にかけたのです。イエスの都合がいいところだけを、パウロは利用したのですね。
 パウロが作ったキリスト教には、イエスの大切な教えは何も残っていません。
 パウロはデタラメなキリスト教の歴史をでっちあげました。それどころかイスラエルの歴史まで自分たちの都合で書き換えたのです。
 その結果、すべての予言者が、パウロが作ったキリスト教について語ったことにされてしまった。
その後、さらに教会は人類の歴史をキリスト教の歴史へと書き換えていきました。
 しかし、それらはイエスという人間とはまったく関係ないことです。
 しまいには、パウロはイエスが復活したというデマを流しました。
 結局、パウロはイエスの教えからは何も学ばなかったのです。ただ、イエスの十字架上の死を利用しただけでした。
 パウロは「イエスはまだ生きている」と言うくせに、自分では信じていません。
 デマを流したのは、あくまでも自分の目的を実現させるためでした。パウロはただ権力がほしかっただけです。パウロをはじめとするキリスト教の僧侶たちは、人々を抑え込むための「教義」や「象徴」がほしかっただけなのです。
 後にイスラム教を始めたマホメットは、「不死の信仰」をキリスト教から借りてきて利用しましたが、これもパウロが発明した「僧侶による社会支配の道具」だったのです。

「キリスト教は邪教です!」

出エジプト記

 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 有名なシーンだが、こんなことがあり得るのだろうか?まさに映画の一シーンだ。
 これはモーゼを神格化するための創作だと考えるのが妥当だろう。
 オウム真理教の麻原彰晃が、あぐらの状態で力技でジャンプしたところをフラッシュを使って撮った写真が、超能力の証拠として、麻原彰晃の神格化のために使われたのと同じ手法だ。それも、映像さえ使わず、言い伝えのみによって。何とも安上がりな方法ではないか!

十戒

 神はモーゼにやたらと細かい決まりを提示する。「物を盗んだら2倍にして賠償しなければいけない」など、「目には目を」の刑法のようなルールだ。

 なぜ、モーゼが神から言われたと主張するこんなルールを人々は守らなければいけないのだろうか?なぜ、神はこんな細かいルールを決める必要があるのだろうか?私の持っている神のイメージとは全く異なる。
 神は「ある人が自分の娘を女奴隷として売る場合、彼女は男奴隷が去るようには去ることができない」「奴隷は財産」とも言っており、奴隷を肯定している。しかも男尊女卑だ。私はこんな神をとても信用などする気にはならない。

 神によって一方的に定められたこれらのルールは宇宙の法則に反していると感じる。

 私のイメージする「神」は、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」に出てくる、一切何事も禁じない、放任主義の気さくな神だ。人間は、経験するために生まれてくる。いいことであれ悪いことであれ。物事に善悪はないのだ。全ては経験なのだ。それを経験して本人がどう感じるかが重要だ。「またやりたい」と思えばやればいいし、「もうやりたくない」と思えばやめればいいだけの話だ。

エゼキエル書

 次は有名なエゼキエル書を見ていく。

 冒頭の章で、「神の幻」とのタイトルが付いている。

 第三十年の第四の月の五日に、私がケバ川のほとりで捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ、私は神の幻を見た。ヨヤキン王が捕囚となって五年目、その月の五日に、カルデア人の地、ケバル川のほとりで、祭司ブジの子エゼキエルに主の言葉が臨み、主の手が彼の上に臨んだ。
 私が見ていると、激しい風が北から吹いて来た。大きな雲と燃え続ける火とその周りに輝きがあり、その中に琥珀金のきらめきのようなものが見えた。 また、その中には四つの生き物のようなものがあった。その姿は人のようであった。それぞれに四つの顔があり、四つの翼があった。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のように輝いていた。また、その翼の下には、四つの方向に人の手があった。四つの生き物には顔と翼があり、翼は互いに触れ合い、進むときは向きを変えず、それぞれ前方に進んだ。 顔のようなものは人の顔であり、 四つとも右に獅子の顔、四つとも左に雄牛の顔、四つとも後ろには鷲の顔があった。顔はそのようであった。翼は上方に広げられ、一対は互いに触れ合い、一対はその体を覆っていた。それらはそれぞれ前方に進み、霊の行く所に行き、進むときその向きを変えなかった。生き物の間に炭火のような姿が見え、生き物の間を行き来する松明の姿のようであった。火は輝き、その火から稲妻が出ていた。 生き物は、稲妻のひらめきのように、行ったり来たりしていた。
 私が生き物を見ていると、四つの顔がある生き物の傍らの地の上に、それぞれ一つの車輪があった。車輪の姿と作りは輝くかんらん石のようであり、四つとも同じようであった。これらの姿と作りは、あたかも車輪の中に車輪があるかのようであった。それらは進むとき、その四方に行き、進むとき向きを変えなかった。それらには外輪があり、高くて恐ろしかった。外輪の周りは、四つとも目で埋め尽くされていた。生き物が進むとき、車輪もその傍らを進み、生き物が地上から上げられるとき、車輪も上げられた。霊の行く所にそれらも行き、車輪も共に上げられた。生き物の霊が車輪の中にあったからである。生き物が進むとき、車輪も進み、生き物がとどまるとき、車輪もとどまる。生き物が地上から上げられるとき、車輪も共に上げられる。生き物の霊が車輪の中にあったからである。
 生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあり、その頭上に高く広がっていた。器 大空の下では、翼が互いにまっすぐであり、一対は互いに触れ合い、もう一対は体を覆っていた。それらが進むとき、私は、大水の音のような、全能者の声のような翼の音を、また、陣営のどよめきのような騒ぎの声を聞いた。それらのとどまるときは、翼を垂れた。彼らの頭上、大空の上から声があった。それらのとどまるときは、翼を垂れた。
 生き物の頭上の大空高くに、ラピスラズリの玉座のようなものが見えた。その玉座のようなものの上にひときわ高く、人の姿のようなものがあった。私は、腰のように見えるものの上に、琥珀金のきらめきのようなものを、その周りに火のようなものを見た。腰のように見えるものの下に、火のようなものを見た。その周りには輝きがあった。周りの輝きは、雨の日に雲の中に現れる虹の姿のようであった。これは主の栄光のような姿であった。私はこれを見てひれ伏した。私は、語る者の声を聞いた。

「エゼキエル書 1 神の幻」

 この時に見たものを、神の姿だと思っているようだが、「その足はまっすぐで」「磨かれた青銅」「進むときは向きを変えず」「車輪」「かがやくかんらん石」「外輪」など、どう見ても機械だ。

 「その姿は人のようであった」「その中には4つの生き物のようなものがあった」との言い方は、「のよう」との言い方から、人や生き物ではなかったと考えるのが正しいように思う。

 初めて見る物体の描写に困り、見たことのあるものに例える。それでも、この文章から元の姿を想像するのは不可能なくらい、支離滅裂な描写が続く。イラストを添えて欲しかった。🤣

 この描写の後に神の言葉が続くわけだが、これが実際に起きたことであれば、「神」である異星人がUFOに乗って現れて、言葉を伝えたと考えるのが一番合理的だ。

 神の言葉はかなり長い物であり、私が感じるのは、この章に限らず、これだけの長い神の言葉をよく記録(記憶)できたものだということ。

 その場で忘れないうちにメモしない限り、その正確性はかなり低いだろう。

 この後、「神」はエゼキエルに対して「あれやれこれやれ」とやたらと指示を出す。かなり人使いが荒い。

 次のような描写もある。

 私が見ると、人の姿のようなものがあり、その腰のように見えるものの下に火があり、腰のように見えるものの上には輝きのようなもの、琥珀金のきらめきのようなものが見えた。彼は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の毛の房をつかんだ。すると霊が私を地と天の間に引き上げ、神の幻のうちに私をエルサレムへ、北に面した内側の門の入り口に連れて行った。

「エゼキエル書 8 エルサレムの忌まわしいこと」

 これはどう見てもUFOに引き上げられて、UFOで移動した際の描写にしか思えない。


新約聖書

見出し

 そもそも、見出しがダメだ。

「マタイによる福音書」「ローマ人への手紙」使徒行伝」といった具合。

 マタイって誰?
 マタイ、マルコ、ルカに関する説明がない!
 冒頭にその章が何について書かれたものかを説明すべきだろう。

「福音」とは、 「イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え」のことらしいが、マタイには福音を伝える資格があるの?

「ヨハネによる福音書」のヨハネだけは文中に出てくる。ただし、
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。」
とあるだけなので、どこの誰かは分からない。神から本当に遣わされたのかも分からない。
 つまり、得体の知れない人物の語った言葉だ。これを信用する気になるだろうか?
「神からつかわされた」んだよ!それを誰が確認したのだろうか?

 ローマ人への手紙?
 コリント人への第一の手紙?
 ガラリヤ人?エペソ人?ピリピ人?コロサイ人?

 手紙の宛先はそんなに重要なの?

 ローマ人への手紙は日本人にも有効なの?

 万人に共通する教えなら、宛先は不要じゃないの?

 タイトルの付け方のセンスが悪い!

パウロの信頼性

 手紙を書いてるのは、以下の通りほぼパウロ。

「ローマ人への手紙」→パウロ
「コリント人への第一の手紙」→パウロと兄弟ソステネ
「コリント人への第一の手紙」→パウロと兄弟テモテ
「ガラテヤ人への手紙」→パウロならびにわたし(誰?)と共にいる兄弟たち一同
「エペソ人への手紙」→パウロ
「ピリピ人への手紙」→パウロとテモテ
「コロサイ人への手紙」→パウロと兄弟テモテ
「テサロニケ人への第一手紙」→パウロとシルワノとテモテ
「テサロニケ人への第二手紙」→パウロとシルワノとテモテ
「テモテへの第一の手紙」→パウロ
「テモテへの第二の手紙」→パウロ
「テトスへの手紙」→パウロ
「ピレモンへの手紙」→パウロと兄弟テモテ
「ヘブル人への手紙」→記載なし

 イエスの言葉を伝えているような体裁を取っているが、実際に書いているのはパウロ。

 ソステネ、テモテ、シルワノは共著者なの?
 イエスの言葉を伝えるのに、なぜ複数人が必要なの?
 自分一人が著者だと信憑性を疑われるから、架空の人物を共著者にしたんじゃないの?

 いずれにしても文責は筆頭者のパウロにある。

 これがイエスによる言葉だと証言した人物はいない。パウロ一人の証言に過ぎない。

 さあ、あなたはそんなパウロの言葉を無条件に信じられるだろうか?

 伝説では、 十字架にかけられた3日後にイエスは復活し、弟子たちの間に姿を現した後に 「昇天」したとされます。
 イエスの死の意味について、 高校の倫理や現代社会の教科書には、「人間が持っている根源的な罪である『原罪」を、イエスがその身体であがなっ
したのだ」という記述があります。 「原罪」 とは、人類の祖先であるアダム |とイブが、 神の約束を破って 「禁断の実」を食べてしまい、 楽園を追放されたことであり、すべての人間はその罪を引き継いでいるとされます。
「原罪」については多くの解釈がありますが、楽園追放のエピソードから、人は「罪を犯してしまう存在である」 「してはならないといわれていること
をやってしまうという 『罪に向かう傾向」 を持った存在である」ということがいえます。 イエスは、人間自身では解放されないというその罪を一身に受けて償い、神に認められたとされるのです。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 宗教編」

 イエスの復活、これは明らかに創作だろう。太陽信仰の擬人化なのだ。

 宗教が作り出された背景を知るためには、古代フェニキアやバビロンの時代へとさかのぼらなけれ
ばならない。古代宗教の中心は太陽だ。前述したように古代の秘教的司祭団は、太陽が超巨大な電磁
波エネルギーの発生源であり、人間の日々の活動に多大な影響を与えていることを熟知していた。
(中略)古代世界の司祭団は、太陽の持つ巨大な影響力を深いレヴェルで認識したうえで、太陽をその秘教体系の中心に据えていた。 
 古代の秘境的秘密結社の者たちは、一年を通じた太陽の運行を象徴化していた。(中略)この象徴体型を見れば、キリスト教以前の多くの神々の誕生日がなぜ12月25日となっているのか説明がつく。12月21〜22日、北半球では冬至となり、太陽の力は一年のうちで最低となる。象徴的に表現すれば、太陽は「死んだ」ということだ。そして12月25日頃までに太陽は、その力の絶頂点である夏に向かって再び象徴的な旅を始める。
 それゆえに古代人たちは、太陽は12月25日に「生まれる」と考えていた。クリスマスをはじめとするキリスト教の祭りは、異教の祭典を言い換えたものにすぎない。
 古代バビロンの神タンムズ(女神セミラミスの息子)は、生贄の羊とともに十字架にかけられ洞窟の中に運び込まれたが、三日後に洞窟の入り口が再び開けられたとき、その死体は消えていたという。
これはどこかで聞いたような話だ。
 古代の人々は春の太陽を乳幼児と考え、夏は強健な若者、秋は年とともに力を失いつつある男、冬
の太陽は老人であると考えた。また古代人たちは、太陽の光を金髪に見立て、秋になるとその金髪が短かくなるので太陽の力が弱くなると考えた。これは旧約聖書のサムソンの物語を想い起こさせる。
サムソンとはサム・サンであり太陽のことなのだ。
 キリスト教では、イエスは人々の罪を贖って死んだ神の一人子ということになっている。しかし、これとまったく同じ話は、イエスの名が聞かれるよりもはるか以前、古代の神々のなかにも見受けられる。イエスという名前自体、定かなものではない。「イエス」は、あるヘブライ語名のギリシア語表現だからだ。「神の子」という表現は、少なくともアーリア系ゴート族のキリキアの王が 「太陽の神の子」という称号を用いたときにまでさかのぼれる。「太陽神の子」というのはエジプトのファラオの称号でもある。 ニューエイジ宗教では、霊的階層組織の高位者サナンダこそがイエスの正体であるということになっている。
 彼は地球にエネルギーを注ぎ込むために救世主として転生してきたという。イエスの正体は異星人だと言う者もいる。ダヴィデの血流を受け継ぐユダヤの王であるとも言われている。
 しかし、果たしてイエスは実在したのであろうか。モーセやソロモンやダヴィデもだ。
 私は、彼らは実在の人物ではないと断言する。聖書のほかには、彼らが実在していたという信頼に足るべき証拠は存在しない。聖書自体も非常に疑わしい。彼らは何に由来するのだろうか。

「大いなる秘密(上) 爬虫類人」

 「おおいなる秘密」の著者のデーヴィッド・アイク氏は、イエス・キリストは存在しなかったとまで言う。
 確かに、今回検証したように、おかしな記述だらけの聖書の中だけで、その存在が示唆されているのであれば、イエスの存在は怪しくなってくる。

 そして、旧約聖書の方でも述べたが、キリスト教最大の疑惑、「原罪」。
「人類はアダムとイブに始まる原罪を背負って生まれてくる」との考えがキリスト教の教義の根幹に横たわっていて、教会から信者への様々な要求に繋がっている。教会の力の源泉と言ってもいいだろう。それほど重要な概念であり、大前提だ。

 ところが、原罪の存在は一切検証できない。それを無条件に信じているのがキリスト教の信者だ。

 また、イエスが身代わりになって原罪を償ったのなら、我々には原罪がもはや存在しないことになるのではないのか?
 未だに存在するのなら、イエスの死は何だったのかということになる。つまり矛盾しているのだ。

 私の判定では、訳のわからない「原罪」の存在を主張する時点でキリスト教はイカサマ宗教だ。


ヨハネの黙示録

 これは、神→イエス・キリスト→ヨハネと伝えられた予言である。

 特に有名なくだりが以下の部分だろう。

 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が生じ、地に投げ入れられた。地の三分のが焼け、木々の三分の一が焼け、青草もすべて焼けてしまった。
 第二の天使がラッパを吹いた。すると、火の燃え盛る大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、海に住む生き物の三分の一が死に、船の三分の一が壊された。
 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から降って来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んでしまった。

 第一のラッパは第一次世界大戦、第二のラッパは第二次世界大戦と言われており、第三のラッパは、「にがよもぎ」というキーワードが出てくるので、チェルノブイリ原発事故のことではないかと言われている。にがよもぎをロシア語ではチェルノブイリと言うのだ。
 しかし、よく読んでみると、内容は別に原発事故特有の内容が書かれているわけではないので、たまたま「にがよもぎ」という言葉が出てきただけかもしれない。

 そもそも、神が予言を与える必要はあるのだろうか?

 イエス・キリストの再臨で神の国が作られる、というのが最終到達点だ。

 これを見るとヨハネの黙示録の書かれた目的が見えてくる。

 黙示録がない場合とある場合とを比較すれば分かるだろう。
 イエス・キリストが再臨して神の国が作られるのであれば、それまで徳を積んで頑張ろうと思うのではないだろうか?いつ来るとも分からない「ハッピーエンド」の結末を鼻先にぶら下げることで、信者たちは永遠に教会に貢いでくれるわけだ。実に賢い戦略だ。

【結論】

 聖書の全てを読んで検証するつもりだったが、ここまででおおよその全体像が掴めたので検証はとりあえずここまでにする。

 聖書がとても信用に値しない書物であることをご理解頂けただろうか?

 ただし私はキリスト教の教えの全てを否定するわけではない。なぜなら、道徳面でいいことは言っているからだ。

 宗教団体は儲かるものだ。税金が掛からないし在庫も必要ない。
 教祖や教団職員は当然ながら欲が出てくる。利益第一主義に陥りがちだ。
 当初は素晴らしい教え、教訓を伝えることを目的に始めたかもしれないが、組織化した時点で大抵はおかしなことになる。

 「キリスト教は邪教です!」にはこうある。

「新約聖書」は「道徳」で人をおびき寄せます。

 どんな宗教でも、道徳面では同じようないいことを言うのだ。そこに騙されてはいけない。

 最後に、「大いなる秘密(上) 爬虫類人」の216ページのタイトルを紹介して、この記事を終えようと思う。

「キリスト教など大宗教は、恐怖や罪悪感で人間を精神の牢獄に閉じ込めてきた」

 全くその通りだと思う。

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