私の人生に少なくない影響を与えて来たキリスト教の正体については、子どもの頃からずっと気になっていた。
「世界中に多くの信者のいるキリスト教は素晴らしいもの」との、社会から来る先入観は心の中に深く刻まれており、これまでは表立って批判しようと思ったことはなかったが、様々なテーマについて調べて情報を得る中で、キリスト教を全面的に批判、否定する心の準備ができたので、キリスト教の聖典である聖書(旧約聖書、新約聖書)の内容を見ていくことで、その正体を探っていく。
旧約聖書
創世記
天地創造
第四の日を見ると分かるように、神は地球を中心として太陽と月を作っている。天動説の価値観だ。
この記述が、天動説及び、地球にしか生物はいないとの考えを、科学が進歩するまでの人類に植え付けた。
地球に人類を作り出した異星人による言葉だとしても、地球のために太陽と月を作ったとの記述は真実から程遠いのは明らかだ。
それから考えると、この記述全体が全く信頼に値しないと考えるのが妥当だろう。個別の記述の意味を考えることには恐らく何の価値もない。
アダムからイブが作られたシーンのすぐ後の記述はこうだ。
何と、アダムは最初の人間ではなかった!
どういうこと?
しっかりと説明してもらいたいものだ。
原罪問題
次が聖書最大の問題箇所、エデンの園での有名な出来事だ。
アダムとイブが「善悪の知識の木」の実を取って食べたことを原罪だとする考え方が、キリスト教の根幹に横たわっていて、これがキリスト教系の教団の力の源泉になっている。脅しのネタとして、また従属させる力として。
この事件についての様々な解釈を見て来た中で、私が最も納得したのは「キリスト教は邪教です!」(ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳)の中の以下の解釈だ。
キリスト教の目的は、人々を信者にし、献金させるとともに心を支配することだ。聖書や牧師の言う言葉に無条件に従う従順な信徒を確保しておくためには、自分で考える力を奪う必要がある。
その際に邪魔になるのが「科学」である。
「善悪の知識の木の実を食べること」の象徴しているものが「科学」であるという説には非常に説得力がある。
「善悪の知識」との言い方は、単なる知識ではなく、ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)への批判を禁じたかった思いの表れではないだろうか?
約束の地
これが、現在のイスラエルの土地が、ユダヤ人に対して神から契約によって与えられたとする、いわゆる「約束の地」の根拠だ。
証人はアブラム(後のアブラハム)ただ一人だ。
この言葉が現在のパレスチナ問題を生み出した。この言葉が嘘であれば、アブラハムはパレスチナの人々に謝る必要がある。
割礼
これが世に言う割礼だ。
神もくだらないことを要求したものだ。割礼に何の意味があると言うのだろうか?他に要求すべきものを思い付かなかったのだろうか?
生贄
神は生贄を要求するものだろうか?
そして、神の要請に応えて我が子を生贄にするような人間を、神は高く評価するだろうか?神に言いなりの、主体性のない人間を。
生贄の儀式は悪魔崇拝で行われるものなので、旧約聖書における神は悪魔=ルシファーだと言っていいのではないだろうか? 旧約聖書が本当に神の言葉を記したものであるならば、だが。
アブラハムは信用できるのか?
「約束の地」や「選民思想」の根拠は全てアブラハムの証言のみに頼っている。
アブラハムが自分を正当化、自分や自分たちの立場を有利にするために書いた創作であると考えた方が納得がいくのではないだろうか?
「歴史は勝者によって書かれる」との言葉がある。私から見れば、神の言うことであれば何でも従う、従順な人間を作り出すための、アブラハムによる創作、あるいはユダヤ教を作って人々を支配しようとした者たちによる創作である可能性が高いと感じる。
パウロについて
「キリスト教は邪教です!」ではパウロについて以下のようにボロクソに書かれている。
出エジプト記
有名なシーンだが、こんなことがあり得るのだろうか?まさに映画の一シーンだ。
これはモーゼを神格化するための創作だと考えるのが妥当だろう。
オウム真理教の麻原彰晃が、あぐらの状態で力技でジャンプしたところをフラッシュを使って撮った写真が、超能力の証拠として、麻原彰晃の神格化のために使われたのと同じ手法だ。それも、映像さえ使わず、言い伝えのみによって。何とも安上がりな方法ではないか!
十戒
神はモーゼにやたらと細かい決まりを提示する。「物を盗んだら2倍にして賠償しなければいけない」など、「目には目を」の刑法のようなルールだ。
なぜ、モーゼが神から言われたと主張するこんなルールを人々は守らなければいけないのだろうか?なぜ、神はこんな細かいルールを決める必要があるのだろうか?私の持っている神のイメージとは全く異なる。
神は「ある人が自分の娘を女奴隷として売る場合、彼女は男奴隷が去るようには去ることができない」「奴隷は財産」とも言っており、奴隷を肯定している。しかも男尊女卑だ。私はこんな神をとても信用などする気にはならない。
神によって一方的に定められたこれらのルールは宇宙の法則に反していると感じる。
私のイメージする「神」は、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」に出てくる、一切何事も禁じない、放任主義の気さくな神だ。人間は、経験するために生まれてくる。いいことであれ悪いことであれ。物事に善悪はないのだ。全ては経験なのだ。それを経験して本人がどう感じるかが重要だ。「またやりたい」と思えばやればいいし、「もうやりたくない」と思えばやめればいいだけの話だ。
エゼキエル書
次は有名なエゼキエル書を見ていく。
冒頭の章で、「神の幻」とのタイトルが付いている。
この時に見たものを、神の姿だと思っているようだが、「その足はまっすぐで」「磨かれた青銅」「進むときは向きを変えず」「車輪」「かがやくかんらん石」「外輪」など、どう見ても機械だ。
「その姿は人のようであった」「その中には4つの生き物のようなものがあった」との言い方は、「のよう」との言い方から、人や生き物ではなかったと考えるのが正しいように思う。
初めて見る物体の描写に困り、見たことのあるものに例える。それでも、この文章から元の姿を想像するのは不可能なくらい、支離滅裂な描写が続く。イラストを添えて欲しかった。🤣
この描写の後に神の言葉が続くわけだが、これが実際に起きたことであれば、「神」である異星人がUFOに乗って現れて、言葉を伝えたと考えるのが一番合理的だ。
神の言葉はかなり長い物であり、私が感じるのは、この章に限らず、これだけの長い神の言葉をよく記録(記憶)できたものだということ。
その場で忘れないうちにメモしない限り、その正確性はかなり低いだろう。
この後、「神」はエゼキエルに対して「あれやれこれやれ」とやたらと指示を出す。かなり人使いが荒い。
次のような描写もある。
これはどう見てもUFOに引き上げられて、UFOで移動した際の描写にしか思えない。
新約聖書
見出し
そもそも、見出しがダメだ。
「マタイによる福音書」「ローマ人への手紙」使徒行伝」といった具合。
マタイって誰?
マタイ、マルコ、ルカに関する説明がない!
冒頭にその章が何について書かれたものかを説明すべきだろう。
「福音」とは、 「イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え」のことらしいが、マタイには福音を伝える資格があるの?
「ヨハネによる福音書」のヨハネだけは文中に出てくる。ただし、
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。」
とあるだけなので、どこの誰かは分からない。神から本当に遣わされたのかも分からない。
つまり、得体の知れない人物の語った言葉だ。これを信用する気になるだろうか?
「神からつかわされた」んだよ!それを誰が確認したのだろうか?
ローマ人への手紙?
コリント人への第一の手紙?
ガラリヤ人?エペソ人?ピリピ人?コロサイ人?
手紙の宛先はそんなに重要なの?
ローマ人への手紙は日本人にも有効なの?
万人に共通する教えなら、宛先は不要じゃないの?
タイトルの付け方のセンスが悪い!
パウロの信頼性
手紙を書いてるのは、以下の通りほぼパウロ。
「ローマ人への手紙」→パウロ
「コリント人への第一の手紙」→パウロと兄弟ソステネ
「コリント人への第一の手紙」→パウロと兄弟テモテ
「ガラテヤ人への手紙」→パウロならびにわたし(誰?)と共にいる兄弟たち一同
「エペソ人への手紙」→パウロ
「ピリピ人への手紙」→パウロとテモテ
「コロサイ人への手紙」→パウロと兄弟テモテ
「テサロニケ人への第一手紙」→パウロとシルワノとテモテ
「テサロニケ人への第二手紙」→パウロとシルワノとテモテ
「テモテへの第一の手紙」→パウロ
「テモテへの第二の手紙」→パウロ
「テトスへの手紙」→パウロ
「ピレモンへの手紙」→パウロと兄弟テモテ
「ヘブル人への手紙」→記載なし
イエスの言葉を伝えているような体裁を取っているが、実際に書いているのはパウロ。
ソステネ、テモテ、シルワノは共著者なの?
イエスの言葉を伝えるのに、なぜ複数人が必要なの?
自分一人が著者だと信憑性を疑われるから、架空の人物を共著者にしたんじゃないの?
いずれにしても文責は筆頭者のパウロにある。
これがイエスによる言葉だと証言した人物はいない。パウロ一人の証言に過ぎない。
さあ、あなたはそんなパウロの言葉を無条件に信じられるだろうか?
イエスの復活、これは明らかに創作だろう。太陽信仰の擬人化なのだ。
「おおいなる秘密」の著者のデーヴィッド・アイク氏は、イエス・キリストは存在しなかったとまで言う。
確かに、今回検証したように、おかしな記述だらけの聖書の中だけで、その存在が示唆されているのであれば、イエスの存在は怪しくなってくる。
そして、旧約聖書の方でも述べたが、キリスト教最大の疑惑、「原罪」。
「人類はアダムとイブに始まる原罪を背負って生まれてくる」との考えがキリスト教の教義の根幹に横たわっていて、教会から信者への様々な要求に繋がっている。教会の力の源泉と言ってもいいだろう。それほど重要な概念であり、大前提だ。
ところが、原罪の存在は一切検証できない。それを無条件に信じているのがキリスト教の信者だ。
また、イエスが身代わりになって原罪を償ったのなら、我々には原罪がもはや存在しないことになるのではないのか?
未だに存在するのなら、イエスの死は何だったのかということになる。つまり矛盾しているのだ。
私の判定では、訳のわからない「原罪」の存在を主張する時点でキリスト教はイカサマ宗教だ。
ヨハネの黙示録
これは、神→イエス・キリスト→ヨハネと伝えられた予言である。
特に有名なくだりが以下の部分だろう。
第一のラッパは第一次世界大戦、第二のラッパは第二次世界大戦と言われており、第三のラッパは、「にがよもぎ」というキーワードが出てくるので、チェルノブイリ原発事故のことではないかと言われている。にがよもぎをロシア語ではチェルノブイリと言うのだ。
しかし、よく読んでみると、内容は別に原発事故特有の内容が書かれているわけではないので、たまたま「にがよもぎ」という言葉が出てきただけかもしれない。
そもそも、神が予言を与える必要はあるのだろうか?
イエス・キリストの再臨で神の国が作られる、というのが最終到達点だ。
これを見るとヨハネの黙示録の書かれた目的が見えてくる。
黙示録がない場合とある場合とを比較すれば分かるだろう。
イエス・キリストが再臨して神の国が作られるのであれば、それまで徳を積んで頑張ろうと思うのではないだろうか?いつ来るとも分からない「ハッピーエンド」の結末を鼻先にぶら下げることで、信者たちは永遠に教会に貢いでくれるわけだ。実に賢い戦略だ。
【結論】
聖書の全てを読んで検証するつもりだったが、ここまででおおよその全体像が掴めたので検証はとりあえずここまでにする。
聖書がとても信用に値しない書物であることをご理解頂けただろうか?
ただし私はキリスト教の教えの全てを否定するわけではない。なぜなら、道徳面でいいことは言っているからだ。
宗教団体は儲かるものだ。税金が掛からないし在庫も必要ない。
教祖や教団職員は当然ながら欲が出てくる。利益第一主義に陥りがちだ。
当初は素晴らしい教え、教訓を伝えることを目的に始めたかもしれないが、組織化した時点で大抵はおかしなことになる。
「キリスト教は邪教です!」にはこうある。
どんな宗教でも、道徳面では同じようないいことを言うのだ。そこに騙されてはいけない。
最後に、「大いなる秘密(上) 爬虫類人」の216ページのタイトルを紹介して、この記事を終えようと思う。
「キリスト教など大宗教は、恐怖や罪悪感で人間を精神の牢獄に閉じ込めてきた」
全くその通りだと思う。