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 イスラム教の経典「コーラン」、ユダヤ教の聖典「タルムード」、キリスト教の聖典「新約聖書」、ユダヤ教とキリスト教共通の聖典「旧約聖書」にはいずれも様々な戒律や禁止事項、推奨事項がある。

 キリスト教であれば、イエス・キリストが神か人かで宗派の分裂が起き、偶像崇拝を認めるかどうかでローマ教会(カトリック)と東方正教会との分離が決定的になり、教会が考え出した免罪符が対立を呼びプロテスタントを生み出した。

 イスラム教では、「コーラン」に書かれた、1日5回の礼拝や断食、聖地メッカへの巡礼、豚肉を食べないこと、お酒を飲まないことなど、1400年も前に決められた多くの決まり事があるため、教えを厳格に守ろうとする人々と、現状に合わせていこうとする人々の間で対立が起き始めてしまう。これらの決め事を厳格に守ろうとする人々は「原理主義者」や「過激派」と呼ばれる。
(「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 宗教編」より抜粋)

 私は子どもの頃はキリスト教徒の祖母(祖父は牧師だったがすでに亡くなっていた)の影響でキリスト教の幼稚園に通っており、日曜学校にも行っていたのでキリスト教の教えは身近にあり、教えについて色々と感じることはあったように記憶している。

 禁欲的な教えを厳格に守っていると思われる祖母のことを堅苦しくて面白くない人だと感じ、その言動には偽善も感じた。本心ではないのだろうと。

 そのような経験をしていたので、宗教や道徳については子どもの頃から自分なりに色々と考えていたように思う。

 そんなこともあり、社会人になってからはジョージ・アダムスキーの「宇宙哲学」、クリシュナムルティーの「自我の終焉」「子どもたちとの対話」を読み、最後に辿り着いたのが、私のバイブルになっている「神との対話」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)だ。

 そこでは、「人間は何をしてもいい。」「人間は経験するために生まれてくる」との考えがベースになっている。

 「神との対話」の神はとてもフランクで人間らしい。何かを強要することも、禁じることもない。会社の先輩が仕事のやり方についてアドバイスをくれるかのようだ。

 この「神」は恐らく唯一絶対神ではなく、魂レベルの進化した先輩的存在なのだろう。他の星から派遣された異星人と言ってもいい。

 本来はこのような教えを自分で本を読むことで学び、実践すればいいだけだ。それを、組織を作って金を儲けようとするから、教えを押し付けようとするから、教義の違いで対立や争いが起きるのだ。

「人間は何をしてもいい」との考え方であれば、対立は起きないはずだ。あくまでも「神」の言うことは推奨事項なのだ。

 どんな素晴らしい教えでも、組織化した時点でおかしくなる。分派のない宗教団体は恐らく存在しないのがその証拠だ。

「信じず、参考にせよ」

 これが私の宗教に対するスタンスだ。

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