過去の『未来』を読み直す/2013.06

短歌結社誌『未来』の巻頭欄は「○月集」だ。6月号なら「六月集」。
岡井隆氏を先頭に、新旧の選者や、未来の全国大会(全員集合歌会)で評者をされるような方々が並ぶ欄である。
……である、のだけれど、畏れ多くも今まで全員分をちゃんと読んでこなかったので、改めて読んでみよう、そのメモをしていこう、というシリーズ。(ところで、欄の途中途中にフォルテ記号みたいな飾りがあって欄が区切られているのだけど、これはどういう区切りなのだろう。)
まずは、私が入会した直後の、初めて手にした2013年6月号から。

6月号なので歌稿の締め切りは3月、季節的に晩冬~初春のお歌が多め。例えば、咲き初める花々、入試や卒業、異動や転居、など。そんななか、ふと雪に悩まされているお歌を見つけて作者の住所を見ると、東北だったりする。また、3月ということで「震災から2年」を意識したお歌も多い。
そして、歌集『青白き光』を出された佐藤祐禎(ゆうてい)氏という未来会員のかたが同3月に亡くなられたようで、関連した挽歌も散見される。

惜別の遠の旅路の平安を『青白き光』歌人の生/鎌田弘子
春の竹ゆらぐともなきときのまを向こう岸なるきみは手を振る/桜井登世子

以下、気になったお歌を引いていく。初回なので特に数などは決めず、気ままに引いてみることにする。

近藤夫人が飼つてをられたあの山羊がぼくの文中で一こゑ啼いた/岡井隆

近藤芳美氏の奥様、近藤とし子氏も「未来」創刊時からの会員であったという。この辺りの人間関係というか、そもそもの人物名などを知ったのすら、入会してしばらく経ってからだった。この号の岡井氏のお歌、全部好きだ。

生涯を育みて来しプライドは施設に入りて打ちくだかれぬ/大島史洋

詞書きに、「古き「未来」会員、槇田早記さん・児玉和子さんを思いて」とある。この辺りについても調べたいところだけど、今回は省略。学校の先生だったり、短歌の講師だったり、そういった人生を送ってきたひとたちが、ケアハウスなどに入所したとたん「おばあちゃん」として扱われる、そんなやるせなさを思う。

二人いて一人とおもう父と母は長火鉢の前にたのしみている/稲葉峯子

老夫婦の静かで穏やかな日常。あたたかなお歌……なのだけど、年を経るにつれて「個」として発するものが乏しくなっていくようなさみしさ(だけではない、悟りの境地みたいなもの……?)、そして、そう遠くない未来に「二人いて」のままいられなくなる、そんな予感が見え隠れする。こう言うと凡庸だけど、限りがあるからこその「たのしむ」かけがえなさが胸に来る。

狭き土地にたちまち三階の家建ちて真赤きくるま今日とまりいつ/今井美代子

空き地の広さと、家になってからの広さって、同じ面積でも全然違って感じるから不思議。「真赤き」の鮮やかさには、新しい住人の新しい生活のエネルギー、そして、以前からその場所を見つめていた観察者の何ともいえない違和感や異物感が凝縮されているようだ。
他に「ベランダに土埃たまるから結界ほしいわぁ」みたいなお歌もあって、なんだかホッとする。この欄、「老」「死」「戦」率が高いから……!

白鳥はおそらく家鴨(あひる)となりたれど吾には今も白鳥のまま/森田孟

と思ったら今度は十首相聞、妻恋だ。旦那様である作者はたぶん、ラヴ全開で詠っているのだろうけど、奥様が読んだら「……ん?いや、ちょっと待って?そこ座って?」となりそうなおかしみ。

指欠けし人形直さざりしこと雪しんと降る夜思い出づ/佐々木昭元

ふっとこわいような、湧き上がる後悔のような、何とも言えない静かな迫力をもつお歌。作画:波津彬子って感じだ。木目込み人形のような和風の人形なのだろう。雛人形や五月人形なのだとしたら、またそこから物語がひろがる。季節的に前者かな。

千秋橋渡り終えむとする頃にくしゃみは昨日の分まで出でぬ/大柴侑宏

「昨日の分まで」がすごい。十首、飄々とした面白さと悲哀があった。

ダダーン鳴るところが好きとう七歳と古きレコードの「運命」を聴く/樋野愛子

子供や孫に対して、可愛さを覚えるのと同時に、鋭さや直球具合にハッとなる感じ。そして、それぞれの感じ方で同じ曲を聴いている嬉しさ。「レコード」というのがまた味わい深く、「運命」というのも暗示的だ。

この埠頭で別れしままの人のあり洲本航路のありし頃の夏/河村公美

このまま歌(songの方の)になりそうな短歌。どんな別れだったのだろう。今ではその航路すら無いという。

そんな雛恥ずかしいから飾るなと母困らせし遙かなる日に/本間芳子

この前の歌から、ねずみに齧られた雛だとわかる。もし仮に、この一首だけをぽんと出されたとしたら、「古い・傷のある雛人形」とも「立派すぎる雛人形」とも「思春期ならではの屈折」ともとれて、もっと読みがひろがるかも知れない。単独でも力のあるお歌だ。

いらっしゃいお帰りなさい御苦労様 娘が来る度言葉に迷う/渡辺恵美子

お庭のお歌が前後にあるから、娘さんの巣立っていったお家に、作者は今も住んでいるのかな。であるなら、なおさら迷うのだろう。微妙な親心。

山をなす白子は何処で取れるのか分からぬことの余りに多し/信太綾子

信太綾子氏については、『未来』の2016年5月号に鈴木麦太朗氏のエッセイが掲載されている。それを拝読した直後に、この号を引っ張り出してみて、目に飛び込んできた一首がこちら。度肝を抜かれた。病に伏す歌が多い作者だが、いや、だからこそなのか、凄い一首だ。

足音が一番さみしい「詩」と言いし姉の眠りを確かめ帰る/龍圭介

見舞いに来た自分の、去っていく足音を姉に聞かせまいとする心遣い。だけどそれは、「目が覚めたら、さっきまでいた弟がいない」との表裏でもある。上句の哀しい美しさと、下句に滲む作者の愛情が心に残る一首。

この重い脚立を倒し年毎に手強くなれり春の嵐は/糸永知子

春一番を詠ったお歌が数多くあったなかで、この一首に心惹かれた。異常気象的なものを憂いているようでもあるけれど、本当に気がかりなのは、実際には変わらない春の嵐を前に、年々弱まっていくように思う自分自身なのだろう。だけど、それらがユーモラスに詠われている。そこに魅力を感じた。

葉ざくらの下を並びて急ぎおり今日より父と呼ばるる息子と/馬渕美奈子

新しい予感に満ちたお歌だ。孫がうまれる、というのは、自らの子が親になる、ということなのだ。満開の桜が葉ざくらを経て、徐々に季節が巡っていくように、そうやって人の世も移り変わってゆく。

誰の手か我を支えてくれたりし会場の隅に我は押されて/佐井ゆたか

題名に「癌と歌うー12」とあり、名前の右肩に「故」の字がある。そういう、ことなのだろう。

他にもたくさん素敵なお歌があったけど、今回はここまで。次号以降についても、ゆっくり続けていけたらいいな。

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