娘こころを観て思った通夜・葬儀

僕は親バカではない。
過剰に自分の子に接しない。
職業病だろう。
自分のクラスの子と同じように観てしまう。

一昨日昨日、尊敬する鹿児島の叔父の通夜・葬儀が行われ、大阪や福岡からも叔父の姉妹が集い、親族が集い、厳かに儀式は行われた。
いずれ彼岸に行くことは予測できているとは言え、心の準備が整わないうちにアレやコレやと準備せざるを得ない家族は本当に大変だと思う。心から労いの言葉とお礼を申し上げたい。ありがとうございます。
まだこれからも続くので、心身一如、気をつけてゆっくり歩んでほしい。

娘こころを連れて、車で鹿児島に向かった。通夜は19時開式。実は鹿児島に着いたのは17時ごろだったので、近くの公園で遊びたいと話した娘の希望に応えた。車にいつも載せているゴムボールで2人で遊んだ。公園には鹿児島キッズが楽しそうに遊んでいる。こころと同い年ぐらいの子より、もう少し年上の男子が多い。皆、楽しそうで、中でもかつての僕と同じような20歳いかないぐらいの青年たちがゲラゲラ笑いながら楽しそうにバスケやサッカーで遊んでいる姿を観て、僕は嬉しくなって、ジュースでも買いなって千円あげた。こころは不思議そうにその様子を観ていた。

通夜の時間が近づいてきたので、喪服に着替え式場へ。こころに特に話しかけはしない。事前に注意事項を言うことは今回は要らない。彼女が自分の心で感じ、表現すればよい。それだけ日頃、妻は娘に教えるべきことは教えている。あ、そうだ。通夜の言葉の意味は教えたな。
座席の関係で、娘と隣には座れず、前後に座ることになる。大した問題じゃない。無論、親が前。僕が前に座り、こころは僕の真後ろに座らせた。これは逆にしてはいけない。わかるでしょう?
通夜で焼香の時間になる。娘に手招きし、共に行く。声かけはしない。観て真似ればよい。説明は後でよい。口説い説明は逆効果。

通夜の儀式は終わり、食事を摂り、時間を過ごす。母の姉弟妹は5人。叔父を含め勢揃い。叔父を偲びながらも賑やかな時間。僕は長女の叔母と四女の旦那さんと話していた。話題は、家系。叔母さんは本当によく覚えている。詳しく詳しく1時間半、家系について話してくれた。僕は元より本垣内家(父方)についても笹原家(母方)についてもルーツをまとめることにしているので、叔母の話は録音し、メモしながら、叔母に描いて説明してもらいながら聴いた。これからも何度も叔母に聴くだろう。途中、こころもそばに居ることもあったので、叔母はこころにも、これは大切な話だよ、と語ってくれた。まだ子どものこころは意味理解という面ではよくはわからないだろうが、大切な話をしているという雰囲気は子どもは感得することはできる。家系は僕が整理し、文字化、図式化しておけばよい。

こころは許す限り、子どもたちと遊んでいる。それでよい。すぐに友達になっている。

僕は仕事があり、22時からオンラインで会議に参加した。邪魔にならない場所で。約1時間ちょっと。こころは時折、僕のところに来ては顔を観て、ちょっと僕を触って、また遊びに行く。大人たちは明日の葬儀に備え始める。式場に風呂、宿泊ができ、叔母さんたちは気遣ってくださり、こころを風呂に誘ってくれていた。僕は仕事だ。
仕事を終え、僕も風呂に入る。3人ほどは共に入られそうな風呂で快適だ。もう24時を回っていた。
僕が風呂から上がると、こころは男子浴場の外の廊下、椅子に座っていた。待っていてくれていた。寂しいのもあったのだろう。ありがとう、と僕は言い、2人でベッドのある部屋に戻った。皆、明日の葬儀に備え、眠ろうとしている。

皆が寝静まった頃、僕とこころは起きていた。僕はこころを誘って、叔父のいる式場に戻った。たくさんの花が綺麗に飾ってあるそこで、小さな声で僕らは話し、弁当の残りを食べ、線香を上げた。10数分すると線香は短くなり、次の線香を上げる。繰り返す。僕はこれをこころに体験させたかった。しばらく繰り返した。叔父が逆にこころを見守ってくれている。彼女の記憶には、この時間も確かに残るだろう。
もう眠い、となったので、じゃあそろそろ寝るか、と部屋へ。少しして、こころは寝た。どんな夢を観たかな。
僕は目が冴えていた。叔父のところへ行き、またしばらく線香を上げた。そして、僕も寝た。4時ごろだった。

夜が明け、葬儀の日。朝食をいただき備える。葬儀前に集合写真撮影。当たり前だが、このような写真の時は言わずもがな立ち位置は決まっている。本垣内である僕たちは邪魔にならない場所に集まる。こころもそれを感じ立ち位置は祖母の横。

葬儀、通夜と同様の儀式。何も説明は要らない。大人と同じように務める娘。通夜と大きく違うのは出棺があること。飾られている花を叔父の棺桶に供える。前日に折った折り鶴も。いよいよお別れが近づくので、たまらず涙する人が増える。涙しない人もまた尊い。独特の空気が式場を包んだ。

僕が死んだ時、こころは何を想うだろう。想像している僕がいた。

出棺し、火葬場へ。基本的に皆、少し離れたところへマイクロバスで移動。僕は帰らないといけない大阪組の叔母と弟を駅へ車で送り、後で火葬場へ合流した。
火葬場では少し安堵感が出たのかな、昼食を摂りながらの朗らかな空気が全体として流れていた。叔父の火葬を終え、骨壷にお骨を納める。頭ではわかっているが、骨になった叔父を観て、それぞれに想うことはあるだろう。こころは言葉は発しないが、ただ従容として、それを受け容れていた。

式場へ戻り、初七日へ。風習として初七日を同日に行うことになっている。初七日については疑問を感じてしまう性格の僕だが、主張は要らない。喪主を中心に務め上げ、叔父は喜んでいるだろう。

叔父は救急車を2度断ったという。救急隊員が病院に行きましょう、との説得も断り、3度目は気絶していたので搬送され彼岸に向かう。聞いた話だが、1度目は1時間、2度目は1時間半の説得だったようだ。お分かりだと思うが、受け容れていたのだ、叔父は。そして、家族もそうだろう。それもまた、僕は叔父の尊敬するところだ。

福岡に帰る車中、僕はオンラインで大切な仕事だった。本来ならば司会を務めるところ、代行しサポートしてくださった先生方に敬服致します。ほぼ耳だけの参加、ハンズフリーで車内は最大音量。こころはよく眠っていた。妻はよく聴いていた。

21時半、福岡に着き、弁当を食べ、疲れた僕は風呂も入らずに眠る。少しして起きて仕事。書き残しておきたい気持ちが高まり、今。

僕は僕の性格上、今日になっても、こころに、どうだった?と訊かないだろう。それは彼女が感得し時間をかけて整理すればよい。彼女が何か尋ねてきたら話せばいい。

僕は僕の娘だから、僕の娘を据えて、叔父の通夜・葬儀について書いた。この文章を大切な家族や親族、仲間、教え子と共有することで、何か伝わるものがあるならば嬉しい。

追伸、昨日は妻の誕生日で帰りの車中、こころとサプライズをしかけお祝いした。

令和5年4月5日 本垣内 英人

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