復刻版「貴族の巣ごもり」 清八の「女性対男性」その7~その9
貴族の巣ごもり 清八の「女性対男性」その7
「上海バンスキング」の話から評論家の話になりました。
「いくら私でも、松坂慶子がミス・キャストなことぐらいわかるわョ」
映画を観終わってから、女友達が言ったのです。
あの一世を風靡した自由劇場の「上海バンスキング」が、映画資本と名前だけの映画俳優によって、どのような駄作にされているのかを、この目で観るために、二人で観ることにしたのでした。
「存在感が全然違うんじゃないですか。あれだけのスクリーンにアップされた顔が、吉田日出子の小さな体より訴えるものが無いというのは、もう致命的な欠陥だと思うんです」
「吉田日出子って、映画化には反対していたんでしょう?」
「そりゃ、そうですよ。何年もかけて当時のジャズを勉強したり、発声を研究したりして、自由劇場と共に生の観客に訴えてきたんだから。どういう説得のされ方があっったのか、わからないけど、プロデューサーは酷くないですか」
「でも、日本の映画界ってひどいわねぇ。こんなパターンが多いんじゃないの」
「最近でも、ホラ、『鎌田行進曲』ってそうじゃないですか‥」
「えぇ、松坂慶子が同じだし‥」
「そう、アレだって、つかこうへいが創りあげた世界をミス・キャストによって、ぶち壊したようなものだったじゃないですか。それを日本アカデミー賞だなんて、映画人の感覚を違いますね」
「そうネ、そうすると今度ねらわれるのは、何なのかしら‥」
「う~ん、わからないけど、何かを狙っているんでしょうね。結局、観る側が舞台と映画を分けられればいいんだろうけど、両方観る人は少ないでしょう。どうしても、映画の方がメジャーな世界だと思われがちだから‥」
「でも、例えば、美人だって言うだけで許される程、美しければ話は別じゃない‥」
「それはそうですよ。演技は全然ダメ、踊りも歌もダメだけど、その美しい顔がアップで映し出されただけで、何もかも許される。それも、映画女優だろうね」
「ということは、誰かさんにはその条件もあてはまらないってこと‥」
「以前、紳・竜の漫才のネタで、こんなのがあったんだけど‥。多岐川裕美がレコード・デビューした時に、そのあまりのおそまつぶりに、言ったのが、『顔がよかったら、何してもエエのんか‥』。これには、思わず吹き出しましたね」
「おもしろ~い。そんなことがあったの。でも、あたってるわネ、それ。今度の映画にしても、風間杜夫と平田満がワキ役というか、誰かさんの欠点隠しに使われているだけなんて、もったいないじゃない」
「マスコミを利用して、製作発表会とか試写会とか、レセプションをたくさん催して、話題をつくりあげたら、それで勝ちだと思うアホがいてるんでしょうね。第一、マスコミもタダで飲み食いできたり、お金を払っている観客よりも先に観ることが出来るから、ヨイショしちゃうんじゃないですか?」
「私、どうして評論家っていう職業があるのか、よくわからないんだけど‥」
「どういうこと?」
「だって、何に対してのギャラなのかしら。誰が、私見に対してギャラを払っているのかしら。何か、おかしいと思わない‥」
「う~ん、そうかもしれないね。特にマスコミに登場するのは、あたりさわりの無い、誰でも考えつくことや、思っていることだろうし‥」
「そうすると‥、価値がまるで無いんじゃない」
「結局、都会っていう個々の集合体では成り立つ職業なんでしょうね。同じレベルの人の考えや意見は聞きたくないけど、他のレベルや他の次元の人なら聞こぅっていう都会人の特性かもしれないし‥」
「だから、しょうもない評論家が暗躍しているんでしょうネ」
「そのうち、評論家の評論家が誕生するんじゃないですか」
(1985年1月1日発行「サムスィングNo.10」掲載)
貴族の巣ごもり 清八の「女性対男性」その8
「レコード大賞」の話からコンサート大賞の話になりました。
「どうして、テレビ局の〇〇大賞って、意外な人が選ばれるの?」
大晦日のレコード大賞授賞式を見ながら、女友達が言ったのです。
「やっばり、いろいろあるんじゃないですか」
「いろいろって‥」
「人脈とか、金脈とか、いろいろ利害関係があるんじゃないですか‥」
そういえば、いくら十人寄ったら気は十腹と言っても、『これは絶対おかしいでェー』ということがありますね。
「ということは、選考基準なんて無いってこと‥」
「そう言えるかもしれないですよ。だって、レコード大賞の選考基準の中で、レコードの売上げなんて二割ぐらいの参考じゃないですか。八割はしょうもない審査員の浮動票とか‥」
「う~ん、考えさせられるわネ。レコード大賞だったら、単純にレコードの売上げだけで決めるべきじゃない。有線放送大賞が有線放送へのリクエスト本数で決められているように‥」
「そうですね。絶対にお金を払っている人の意見で決めるべきであって、お金を払われている側の意見で決めてはいけないと思うんです」
「清八さんって、シビアな言い方をするのね」
「そうですか。結局は、自分の耳とか目とか感性で評価をすべきなのに、現役でプロとして維持できない人がつくりあげているような気がするんです」
「でも、テレビ局のからんだ〇〇大賞って、本当に多いわネ」
「どんな?」
「例えば、東京の某テレビ局に日本演芸大賞というのがあるんだけど、関西では上方お笑い大賞なんです」
「それがどうしたの?」
「東京人が東京のテレビに出演した芸人を対象にして、決めているんですよ。それなのに、日本って付けているんだから、これは東京系日本人の思いあがりじゃないですか」
「そう言われれば、そういうことってあるわネ」
「そうそう、前々から考えているんだけど、コンサート大賞って、そろそろ誕生してもいいんじゃないかな‥」
「おもしろ~い。そう言われれば、そうよネ。これだけコンサート・シンガーが育ってきて、コンサートの観客動員数も増えているんだから‥」
「実際にチケットを購入するために時間を使い、お金を払って、会場に入ってくれた方の生の気持ちを大切にしてあげたいと思うんです」
「そうよネ。週刊誌の情報とか、テレビのレポート放送って、結局は又聞きでしょ。それで、直接体験したような気持になっているなんて、おかしいわよネ」
彼女も、なかなかシビアな発言になってきたようです。
「現状では、夢でしょうね。一つの理由としては、〇〇大賞をつくりたがるのは、テレビ局のイベントとして放送するためであって、実質的にな中身には期待していないでしょう。例えば、日本アカデミー賞とか‥」
「そう言えば、そうネ。ある一局で盛り上げて、さわいでいるだけでしょ」
「番組をクリエイトしようとする能力とか夢を持った人間が少なくなったということも言えるんでしょうね。番組をつくっていく上で、コマーシャルの時間とかスポンサーへの忖度とか、事務所との関係があまりできてくると、個人というのは無くなっていきますから‥」
こうして話をしている内に、ワインを二本飲んでしまっていたことに気付いたのです。飲めば飲むほどマジな話をするという悪い病気を持っている二人なのです。(オチを思いつかなくて、すみません)
(1985年2月1日発行「サムスィングNo.11」掲載)
貴族の巣ごもり 清八の「女性対男性」その9
おんな言葉の話からラジオ生活の話になりました。
「最近、女性の会話で、ドキッとさせられることって少ないわョ」
「それ、どういう意味‥」
女友達の突然の言葉に、何のことか、わからなかったのです。
「きれいな、おんな言葉を使える女性が少なくなったと思わない‥」
そう言い直してもらうと、な~るほどと納得できたのでした。
「例えば、喫茶店で、お茶でも飲んでいるとするでしょ。後ろの席の方から、きれいな言葉が聞こえてきて、どんな方かしらって振り返ることが以前はあったのネ」
「ということは、いまは無いと‥」
「無い、とは言いきれないけど、少なくなったんじゃない」
「ふ~ん、そうすると、きれいな言葉を使えなくなったということでしょうね」
「私はそう思うのネ。ホラ、一部では、おんな言葉っていうのは男女差別だって攻撃してくるけど、そういう人って使えないんじゃないかしら‥」
「そうかもしれないですね。京都大学の寿岳章子さんっていう国語学者がいるんだけど、ポリシーとして、男女間に差別があってはならないとする人なんです。ところが、女であることを捨ててまで、男に勝とうとは思っていないんだそうです。同年齢、同条件の場合、おんな言葉を持っていた方が有利な点があると考えていたからなんです」
「う~ん、すごいわねェー、その方‥」
「だから、おんな言葉を使えない女性たちが増えていくとしたら、おんな言葉を必要としない社会で、おんな言葉を聞かなくてもいい男たちと暮らすべきだと思うんです」
「割り切った言い方だけど、それなら喧嘩にならないでしょうね」
「ギャルたちが使う言葉で、ウッソーとかホントー、ヤダー、カワイー、それに最近では、サイテーがあるんだけど、これが案外バカにできないんだそうです」
「どうして‥」
「その時の感情によって、アクセントさかイントネーションの違いをつけて、全く逆の意味にも使えるんだそうです」
「‥例えば‥」
「サイテーっていうのは、最高の意味を表したい時にも使えるんです」
「な~るほど‥」
「文字としては、一つが二つの意味とか持っていないかもしれないけれど、言葉として口から出た時には、もっとたくさんの意味に育っていくんじゃないですか。ホラ、英語のインターレスティングって、そうじゃないですか。おもしろいとか、魅力的だとか、楽しいとか、色々意味を持っているでしょ」
「おもしろい考え方だけど、彼女たちがそこまで、わかって使っているわけじゃないんでしょう」
「それは無理だと思いますよ。何しろ感性が貧困ですから‥」
「テレビのレポーター番組って、たくさんあるけど料理とか旅の番組にゲストとして出演するタレントとか歌手つてひどいわョ」言葉を知らないっていうのか、表現できない場面ってよくあるでしょう。‥いくらなんでも、プロとしては恥ずかしくないのかしら‥」
「テレビっていうのは、言葉が無ければ無くても成り立ってしまうから、何も不思議に感じないんでしょうね」
(ここ四ヶ月程、テレビの無い生活をしているのです)
「ラジオは聞き取りにくい箇所にきらっと光る内容があるでしょう」
「FM放送って、音楽が主体だから音楽情報については非常に早く吸収できるほど、生活感が無くなっていくんですよ」
「そういえば、AM放送のローカル・ニュースとかレポート番組って、深く突っ込んでいるし、何しろ、わかりやすいわ」
「考える時間を持てるということがいいですね。それだけ余裕が生まれることだし‥」
「それじゃ、もう少しこの生活を続けましょうョ。ニュー・プアー生活を‥」
(1985年4月1日発行「サムスィングNo.12」掲載)