喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十三
本果寺寄席の10年と瀧川鯉昇師匠 Part.3
その十一で、1975年12月29日に開催された「第一回楽輔・柳若勉強会」について書きましたが、当夜に配られた勉強会?の目的と、第二回目にして「雅落語会」と名称変更されたご案内葉書がありましたので、画像で紹介しておきます。
1987年9月6日には、第11回本果寺寄席が行われました。その際、青山くんが手書きした「本果寺寄席十回総覧」を印刷して、当日のお客様にプレゼントしました。その時点では、来演者は10人、演目は40席でした。
さて、鯉昇さんは1986年5月30日の第10回公演の後、6月13日に「第77回蒲郡落語を聴く会」に出演しました。このイベントは二ツ目としての三席独演会で、関山和夫先生の推薦により実現しました。青山くんは1986年に帰郷し、橘右太治師匠の「寄席文字勉強会」に所属し、真剣に勉強を続けていました。この会では二ツ目さんの独演会は初めてで、お客さんの数には心配がありましたが、なんと160人近くが集まり、大入りとなりました。当日のプログラムは「犬の目」「かぼちゃ屋」「茶の湯」という三席でした。
この会の主催者は、橘流寄席文字の橘右近さんの弟子であり、橘右太治さんという名前で活動しています。東海地区でポスターや広報用の文字を書いています。私が学生の頃から使っている名刺は、右太治さんが書いてくれたものです。この投稿を書いているのは2024年の初めで、私たちは約50年の付き合いになります。公演が終わった後は、右太治さんの家で打ち上げをしました。とても楽しくて、終わったのは午前2時頃でした。
翌日ではなくて、当日の午後には浜松市都田の老人ホーム「しあわせの園」に慰問に出かけ、二日酔いにも負けず、私も久しぶりにボランティアをさせていただきました。
8月の3日には、柳亭楽輔さんの真打昇進を祝って、一年ぶりに「第30回雅落語会」が浜松市の田町公会堂で行われました。この会は、鯉昇さんの同級生(浜松西高校)が中心となって続けられている勉強会なのです。二ツ目時代の芸名、春風亭愛橋・柳亭楽輔・笑福亭鶴志の三人のレギュラーに、三遊亭金遊師匠がゲスト出演、真打昇進の口上を述べていただきました。この口上が、とてもお祝いとは思えない?人情味あふれる内容でした。終演後は「今晩のところは、俺が出しとこぉ!」という人間は一人もいないという低額所得者達が集まりましての打上げでした。同級生の中華料理の老舗店での飲み放題コースなのですが、師匠連に気をつかわれて広東料理のお店なのに、北京ダックやら麻婆豆腐やら、青椒肉絲まで円卓に登場、紹興の紹興酒が一人1ボトルに至るという、今回も午前2時まで、阿鼻叫喚?の宴席となりました。まともな人生を送るには、噺家と知り合いにならないことだと、今回も反省することになったのです。
しかし、次の日には再び「ホルモンを食べる会」を計画することになるのです。鯉昇さんは非常に贅沢ではなく、生の魚やステーキ、鰻は食べません。主に野菜を食べていますが、もちろんお米やお麦の流動食も大切な栄養源です。彼はベジタリアンではありませんが、ホルモンが好きな体質です。彼がなぜそうなったのかはわかりませんが、東京での生活は非常に経済的で、持続可能な生活を送ることができるようです。
毎年8月は、この少し前から、浜松市有楽街商店街の「七夕祭り」のイベント「カラオケ大会」での司会進行という、実に地域に密着された芸人生活を送られていました。ところが、1988年に中止になったんだそうです。その為、この年は「ラムネ早飲み大会」「スイカ早食い競争」の司会進行をされていました。後日、「カラオケ大会」中止の理由を伺ったら、思わず笑ってしまいました。この年の7月の下旬にアメリカのバークレー音大から講師が来浜されて音楽セミナーが開催されていたんです。この時期には、講師だけでなくジャズファン、音楽関係者も市内に滞在していたんです。そこで、これから浜松を「音楽の街」としてイメージ・アップを図ろうとしているのに、演歌や歌謡曲の「カラオケ大会」とは何事だというクレームがあったというのです。現在のアクトシティ浜松を建設する検討段階の時代でした。コンベンションホールとか県立音楽堂とかの話が出ていた頃の話です。個人的にね、アクトシティが完成したら「いったいも何が禁止されるのかな?」と真剣に考えておりました。
ところで1987年に鯉昇さんは、あるテレビ番組で話題となっておりました。10月下旬に放送された「クイズダービー」に問題として登場していたのです。その問題は「愛橋さんといえば、お見合いのギネス記録に挑戦中というエピソードの持ち主なのですが、初期の頃、どういう断られ方をされたのか?」でした。答えは、関係者でも笑ってしまったという「見合いから帰ったら、留守番電話に断りの文句が入っていた」でした。都内の寄席の楽屋でもしばらくは話題に事欠かなかったという事件でもありました。こうしたお見合いの話は、当本果寺寄席の打上げ会場でも披露されていました。別の事件で、師匠の春風亭柳昇からの紹介でお見合い場所に行って、いろいろ話をしたら、そのお相手が人妻だった。何でも、柳昇師匠から何度も頼まれて「結婚しています‥」と言えなかったのだそうです。又、同じ相手と三度お見合いになったとか。相手は同じだけど間に入ったのが三人別々という訳でした。
さて、これからが今回のメインイベントといえるのですが、何と、1987年に鯉昇さんの東京の住処に一泊という大冒険をしたお話でございます。11月の19日、都内に仕事がありまして上京したのですが、たまたまといいましょうか、運が良いといいましょうか、その日の夜に内幸町のイイノホールで「愛橋を真打にする会」とサブタイトルをつけた「金太楼寄席」が開催されたのです。「金太楼」というのは、この会のスポンサーである老舗のお鮨屋さんで、上野池之端で定期的に勉強会を開催してくれていたのです。重複して書きますが、彼はこの頃、生魚はダメ、鰻の蒲焼・白焼きもダメでした。
1986年6月14日に、浜松市都田の老人ホーム「しあわせの園」に伺った時の昼食は「鰻の白焼き定食」でした。ご存じだと思いますが、丼飯とおしんこ、肝吸い、そして鰻の白焼き一本でした。気を使ってくれた園長さんには感謝、感謝でした。鯉昇さんは黙って私のお盆に肝吸いと鰻の白焼きの皿を移して、私のお盆からおしんこを取りました。さすがに私も昨夜の宴の二日酔いのため、白焼き二本は無理でした。
話を戻しますと、彼は「金太楼」での勉強会の打上げ時は、カッパ巻きと刺し身のつま、おしんこで飲んでいたそうです。さて、イイノホールでの寄席です。楽屋入りの時間に待ち合わせという電話をしておいてホールへ行ったのですが、出演者はどなたも来ていませんでした。係りの方に訳を言って楽屋で待っていました。楽屋入りの第一号は下座のお姉さんでした。そして前座の三遊亭おまえ君、二ツ目の春風亭昇八さん、愛橋さん、真打の林家時蔵さん、柳亭楽輔さん、講談の宝井琴梅さん、最後に漫才の松鶴家千代若・千代菊師匠の順に到着されました。お弁当と缶ビールをいただいて、関係者のような顔で千代若・千代菊師匠とお話をさせていただきました。千代若師匠は入れ歯の具合が悪くて声が出せない、と困っておられましたが、舞台では一番声が出ていたようです。
終演後は、楽屋の片づけをお手伝いして、スポンサーである上野池之端「金太楼鮨」での打上げに加わっておりました。参加者が40名近くであったためか、こちらのテーブルではビールから始まって、酒・焼酎・ウイスキーと勝手に飲んで帰っていくお方、あそこのテーブルではテーブル上の食べられるものはすべて片づけて帰っていく者がいたりと、何の打上げか全くわからない有様でした。二次会は、他のパトロンとカラオケスナックに連れていかれまして、解放されたのが午前2時でした。確かに芸人は体(内臓)が丈夫でなかったらつとまらないと思い知らされました。
さて、これからが鯉昇師匠宅での宿泊となりました。当時は、学生時代からのアパートで、東京都文京区の白山でした。文京区ですから、歓楽街は殆どありませんでした。イイノホールの楽屋で、楽輔さんから真顔で「今日、愛ちゃんのとこ、泊まるの?よした方がいいよ!」と言われていたのも、お酒による健忘症で頭には残っていませんでした。結局、眠いのが先ですぐ寝てしまったのが良かったようです。昼近くなって明るい状況になった頃、前日に聞かされていたことが真実であったことが理解できたのです。何しろ、実の母親が入り口のドアを開けただけで帰ってしまったという部屋だったのですから。その日の昼食は、昨晩、「金太楼鮨」で持たされた鮨の折を開き、ネタをはがしてシャリとお茶をいただきました。
後日談になります。お見合いのギネス記録を更新後、めでたく結ばれる美人の奥様とゴールインされた時の話です。あの実の母親が入れなかった部屋にただ一人何事もないように普通に入られた唯一の方だからと結婚を決められた理由をお聞きして、「愛」の力は何者にも勝ると改めて、あの部屋を思い出した自分でした。