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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十一

本果寺寄席の10年と瀧川鯉昇師匠 Part.1

 私は、東海道の宿場町「新居」の小さな会場で、1882年10月30日から、普通に「笑って過ごせる」地域寄席を企画し、継続して開催してきました。予定では、2024年11月26日には、瀧川鯉昇師匠の会を100回記念会として開催する予定です。初回から26回目まで、10年間一緒に動いてくれたスタッフのうち、4人の方は亡くなってしまいました。当然ですが、初回から昨年の第97回まで一緒に参加してくれた常連の方々からの「もう伺えません」連絡も増えてきました。
 1992年に、当時のMacintosh Classic Ⅱに書き留めて、プリントしておいた本果寺寄席の10年間の詳細な記録が残っていましたので、修正・加筆しながら公表させていただきます。

 1992年9月15日の夜、バレ太鼓の音に合わせてお客さんを見送りました。10年目で26回目の本果寺寄席が、久しぶりの満員御礼で終了することができました。1982年10月から10年間も続けることができました。理由は特に大層なことではありませんが、私自身が前座として舞台に立っていたため、カメラで写真を撮られるのが苦手でした。だから、この10年間は写真をほとんど残していませんでした。私自身やプロの噺家の方々もそれほど興味はないかもしれませんが、新しいお客様と話す時に、この10年間を信じてもらえないことがありました。私自身は問題ありませんが、協力してくれる噺家の方々には申し訳ない気持ちです。だから、記憶がはっきりしている時に書き残しておこうと思います。

第26回本果寺寄席のチラシとチケット

 私は学生時代、浜松市内のアマチュア噺家集団「落天会」に入会しました。そこでは月に一度の例会や老人会、婦人会の集まりで口演し、お小遣いをもらうことがありました。この「落天会」は、1969年3月に浜松市肴町の藤屋蕎麦店の三階座敷で、浜松市内の落語や講談が好きな人たちによって始められたそうです。私は、1973年10月に通学中のバスから開催の看板を見かけて、その日の帰りに立ち寄ったことがきっかけでした。そして、その年の12月から1981年1月の最終例会まで参加しました。主催者の一人で、2022年9月に90歳でお亡くなりになったのは、「天竜そばニュー藤屋」の会長、山田芳太郎さんでした。

1981年1月18日開催 最終日のネタ帳


 山田さんたちは、遠州文化連盟(通称:遠文連)が寄席部門として、1976年に「えんしゅう寄席」を始めるまでは、市内の旦那衆で開催されていた会員制落語会「浜松落語会」の会員でした。私は、山田さんと知り合った事により、年4回のこの落語会に下足番として許され、会費なしで生の落語を聴くことが出来たのです。この「浜松落語会」では、八代目林家正蔵、五代目柳家小さん、十代目桂文治、十代目金原亭馬生、五代目春風亭柳朝、十代目柳家小三治、九代目入船亭扇橋の噺を聴かせていただいた記憶があります。

1976年11月28日開催「第40回浜松落語会」のチラシ

「落天会」は1979年5月には10周年記念として、当時の浜松市児童会館ホールで、柳家小里ん師匠と春風亭小朝師匠をお迎えして記念例会を開催しています。その記念会の後、11月からは元城藤屋店に会場を移して、私がマネージャーとして続けて開催しました。

1979年5月17日9開催の「浜松落天会10周年記念」のチラシ
1979年5月17日9開催の「浜松落天会10周年記念」ご案内とチケット

 この「落天会」の時に、当時の信愛学園高校に誕生した落語研究会へのコーチという形で、文化祭への応援出演とか、模範演技疲労とか、いろいろな理由をつけては同行に出入りをしていました。当時は、女子高でした。
 ある日のこと、顧問というより言い出しっぺの阿部先生から、友人が噺家に入門したと聞かされました。しかも浜松出身、浜松西高校かに明治大学農学部に進み、園芸ではなく、演芸の世界に入ったという情報でした。後日、その当時の実態が判明するのですが、確かに就職担当の教授からは千葉県内の園芸関係を推薦されたとのことでした。そして、翌1975年に先生から手紙が届くのです。その浜松出身の噺家が浜松市内で勉強会を始めるから、ぜひ聞きにきて欲しい、という内容でした。この縁がなかったら、瀧川鯉昇さんとの付き合いもなかったし、「本果寺寄席」も無かったと思います。

1975年12月29日「第一回楽輔・柳若勉強会」ハガキと会員証

 1979年頃だったでしょうか。この「雅落語会」の時、機会があって楽屋におじゃましました。出番前の短い時間でしたが、すぐに打ち解けて話をしていたことを覚えています。それまでの会に皆勤で、殆ど同じ場所で聴き続けていたことが師匠の記憶にあったようです。それからは、毎回のように開演前に話をしたり、終演後に打上げに参加するようになり、東京の若手の噺家さんの情報をお聞きすることができました。 
 当時、私は地方公務員として働いていて、新居町役場で老人福祉の担当をしていました。次の年の敬老会で、ゲスト出演者の話になり、鯉昇師匠を紹介しました。1980年9月12日は、私が鯉昇師匠のプロモートをするようになった記念すべき日でした。その後、新居小学校、中学校での「学校寄席」もセッティングしております。なお、この時のチラシは、私が作成して町内に回覧しました。

1982年11月12日「学校寄席」のチラシ

 1981年1月2日、西武百貨店浜松店の8階で開催された「西武CITY8寄席」を始めました。鯉昇さんと相談して、「雅落語会」の仲間である柳亭楽輔さん、林家時蔵さん、そして真打ちの桂文朝さんにお願いしました。経費の関係で、私も出演し、口上と前座噺を披露しました。3回目の時、楽屋で新居のお寺でもできないか、と鯉昇さんに相談しました。こうして実現したのが、1982年10月30日の第一回「本果寺寄席」となりました。なぜ、会場を本果寺さんにお願いしたのか。それは、前述の「落天会」のメンバーの一人として学生時代に数回、檀家さんの集まりに呼ばれていたことからお願いしやすかったのです。この時の出演者は、私と鯉昇さん、楽輔さん、そして磐田出身の三遊亭新窓さんの四人で企画し、チケットの販売にかかりました。ところが、当日になって桂小南師匠がお弟子さんの桂南らくさんを送っていただけたのです。当日のお客様には木戸銭の800円はお得になったと思います。

1982年10月30日「第一回本果寺寄席」のチラシとチケット


 桂小南師匠は、私が落語の世界にたくさん浸るようになった最初の噺家さんでした。京都で生まれた小南師匠は、江戸落語を話していましたが、二つ目時代から上方落語に転向しました。1972年頃、上方落語がテレビやラジオで全国に放送されることはあまりありませんでした。しかし、その時代に小南師匠は頻繁に出演していました。もっちゃりとした関西弁ではなかったので、わかりやすかったと思います。私にとっては大好きな噺家さんの一人でした。
 ところで、第1回目の本果寺寄席です。19時30分から21時30分までの予定は大幅に超過し、色紙の当たる抽選会が終わった頃には22時を過ぎていました。終演後、この本堂を会場にしてこれからも続けたい旨をお話ししたところ、大勢の方から拍手をいただけました。ご賛同の意味なんだろうと勝手に解釈して、現在も続けているのです。準備期間が1カ月しかなかったこと、翌月の芝居の企画と重なっていたこともあって、観客数は49人でした。来月以降のことを考えて訳を話し、出演料ではなく謝礼という形にさせていただきました。その代わり、終了後は「宴会料理の夕べ」となりました。酒の量、宴席の会話、噺家さんと付き合うのがいかに大変か(いかにオモロイか)、改めて思い知らされたものでした。
 初めての本果寺寄席は、予定の時間を大幅に超えてしまい、抽選会が終わった頃には22時を過ぎていました。終演後、この本堂を会場にしてこれからも続けたい旨をお話ししたところ、多くの人から拍手をいただきました。そのため、現在も続けています。準備期間が短かったことや、翌月の芝居の企画と重なったことなどもあり、観客数は49人でした。来月以降のことについて話し合い、出演料ではなく謝礼という形にしました。それに代わり、終了後は「宴会料理の夕べ」となりました。酒の量や宴席での会話、噺家さんとの付き合いがいかに大変か(いかに楽しいか)、改めて思い知らされました。
 第2回目は、1983年5月14日でした。この回から、会場を本堂から庫裏に移しました。移した理由は、準備や片付けが簡単なことや、お座敷の方が雰囲気が良いと思ったからです。当夜のゲストは、桂文治門下の柳家小蝠さんでした。彼は身長172センチで体重は45キロという細身の体形をしており、そのために異常な寒がりでした。信じられないようなエピソードがあったのです。

1983年5月14日「第二回本果寺寄席」のチラシとチケット

 ここまで書いていた時に訃報が入りました。1981年、私たちの「新居・寄席あつめの会」の立ち上げから2001年3月3日の第48回本果寺寄席までお席亭としてご迷惑をおかけし、また、打上げにご一緒していただけた、当時のご住職、金原戒雄さんが1月16日に遷化されました。昨年11月26日の第97回本果寺寄席では、瀧川鯉昇師匠の噺を聴かれ、楽屋を出る際に昔話をしていただけました。本当に長い間、お世話になりました。ご冥福をお祈りさせていただきます。

1987年9月6日「第11回本果寺寄席)での お席亭あいさつ

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