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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十八

「新居・寄席あつめの会」の設立経緯と趣旨

 その十一で、1984年9月25日開催の「野口すみえ一座」招聘から公演までを投稿致しました。この公演が、静岡県湖西市新居町という東海道の宿場町の片隅で、私が「新居・寄席あつめの会」というイベント活動を始めて6本目の企画でした。7本目の企画の前に、当時のスタッフ各位に対して、私の思いを書いた資料が残っていました。若気の至り?と恥ずかしい内容ですが、当時28、29歳でこんなことを考えていて口に出していた記録です。そのまま掲載します。

 一昨年「土佐源氏」、昨年「本果寺寄席」「越前竹人形」と私の道楽から始めたイベントもどうやら赤字を出さずにここまでくることが出来ました。
 本年は、三本以上のイベントを企画したいと思っていますので、このあたりで、当会の設立経緯と趣旨をまとめてみようと思います。
 過去において、浜松で素人の落語会「藤屋寄席」を7年、新居町で自分の会を2年、企画・実行してきました。そして、遠州文化連盟のスタッフとして7年近く、「あっ!ぷる」(浜松市内のミニコミ誌、昨年3月休刊)のスタッフとして3年手伝ってきました。こうした環境のなかで、様々なイベンター、ライブハウス関係者と出会い、いろいろ勉強させていただきました。
 そこで、感じてきたのはイベンター、ライブハウスの質、量の薄さでした。浜松の文化とか、地方の文化がどうのこうのとか、そんな机上の空論を何度繰り返しても現実に無いのだから、進んでいかないのです。
 地元でつくってやろうと思ったのは、やはりスタッフ作り、パトロン探しのことを考えたからです。それと、この地では人口8000人の時代に小屋が三つあったという既成事実でした。確かに、テレビの無かった時代、娯楽の少なかった時代だから存在しえたと思います。しかし、現実はどうでしょうか。テレビ・娯楽の乏しかった時代と変わってないと思うのです。だから、この地でならライブハウスが出来るのではと、期待して始めました。
「寄席」というと落語・漫才といったイメージが先行されるので、客層が制限されのではないかといった懸念もありますが、千・二千のキャパがあるホールができる以前は「寄席」が今でいうライブハウスであったと思うのです。幸い、お寺の本堂というイベント空間として最適な会場を承認していただけました。一昨年、坂本長利さんと出会えたことにより「一人芝居」というジャンルを上演することができました。七年来の知己である春風亭愛橋さんの協力により「寄席」の開催もできました。
 私が坂本長利さんという俳優と出会って、何とかして生の芝居をベストな状況で観たいという、それだけの理由から手伝っていただいたのを出発点と考えます。それまで、落語会ができればよいと考えていた私にとってジャンルを広げてくれた貴重なイベントであったと思います。確かに、一回目は赤字でしたが、客入りがたとえ悪くても、ファン、表現者双方に刺激をもたらしてきたことは事実ではないでしょうか。
 価値観や趣味・情感が多種多様であった方が人間らしく生きられると思いますし、「衣食足って礼節を知る」では遅すぎるのでは考えます。私が今までの活動を通じて知りえた情報及び資料(タレント・旅・食べ物)をこれからの活動に使いたいと考えています。
 これからも、様々なジャンルのイベントを企画して、生の魅力を味わっていただきたいと思います。何もできなませんが、文化面でのボランティア
精神で、この地でのクリエーターとして先見性をもって継続していきたいと考えております。何卒、よろしくお付き合いの程お願い致します。
 当時、私自身で考えてスタッフ各位にプリントしてお渡しした内容です。
特に、何かのリーダーになりたいとか、商売にしたいとかは考えていませんでした。

中林淳真(なかばやし あつまさ)

 1983年4月25日、毎日新聞に「セレナーデ出前演奏」という記事が掲載されました。ラテン・ギタリストの中林淳真さんが都内から岡山県に転居するのを機会に全国150ヵ所での演奏を予定している。その年の9月から岡山県を出発、東海・中京地区に84年1月立ち寄りたい。家庭コンサートの料金は原則として交通費滞在費込みで5万円、家庭以外の文化団体出では、別途2万円という条件まで提示されていたのてす。早速、岡山市のご自宅に手紙を出しました。中林さんから送られてきたプロフィールには、次のように書かれていました。

LP「ギターと管弦楽の世界」表面
LP「ギターと管弦楽の世界」裏面

 1927年、東京生まれ。第7回全国ギターコンクール第1位。スペイン大使賞受賞。
 1692年、マドリードにて、プロギタリストとして、デビュー。
 1964年、日本人ギタリストとして、初めてカーネギー・ホールでリサイタル。
 1973年、バリ・ショパンホールにおいてリサイタル。
 1974年、メキシコシティの国立劇場においてリサイタル。
 1981年、南米、パラグアイ、及びスイスより招聘を受け、各首都及び、テレビ、ラジオ、リサイタル。
 1983年、国際交流基金派遣ソリストとして、ヨーロッパでコンサート。
 1984年、グラナダ国際音楽祭に日本人初のゲストとして、スペイン国立シンフォニーと自作バレエ曲を初演。
 さらに、「セレナーデ運動」について書かれてありました。
 テレビ・ラジオ・テープ・レコード・ウォークマン等、日本には缶詰音楽があふれています。こうした音楽で育ち、冷凍食品を食べ、化繊を着て、コンクリートの箱で過ごしていますと、人間関係までもが無機質となり、家庭内・学校暴力等の惹起、国土の荒廃にも発展していきます。
 家庭やグループのつどいに演奏家が出向いてコンサートを行うシステムは日本では確率されておりません。手造りの音楽を‥‥‥と、この度、ギター片手に全国を廻ることを決意しました。自宅を開放してコンサートを行ったりして参りましたが、こうした運動を是非アーチストの皆様が実行とれ、それぞれの分野で提供されることを提唱して止みません。
 皆様の御理解と御支援を心より御待ち致しております。 中林淳真・談

 何度かのお手紙のやり取りと電話で、1984年1月19日(木)に新居町に立ち寄っていただけることになったのです。コンサート会場ですが、市外からのお客様を期待して、駐車場の広い、当時の新居町民センター内の視聴覚室をお借りしました。当時の町の設備として音響機材が整備されていたからです。又、当時、私は新居町役場職員という立場で、この音響機材の使い方を知っておりました。
 新居町は、2010年3月23日に湖西市と合併、当時の庁舎も取り壊されているので、もう書いてもよいと判断します。実は、この視聴覚室の使用許可を申請した時の条例では、有料での公演利用はダメとなっていました。さらに、教育委員会、文化協会などの後援を取り付けないと使用許可審査も出来ないと断られました。結局、私が現職員という事で「当日券の販売を行わない」という条件で許可されたのです。

「中林淳真ラテン・ギターコンサート」チラシ

 当日は、木曜日のため、18時30分開場、19時開演とし、中林さんと奥様、スタッフ一同も17時には会場に来ていただきました。スタッフが視聴覚室の出入り口で受付準備をしている間、中林さんはリハーサルの時間でした。この部屋の椅子席は100席であったため、マイク設備は使わないことになりました。もし、マイク設備使用の場合は、私が音響室に入り操作する予定ではおりました。19時に、私が今回の開催経緯と中林さんをご紹介させていただき、90分間、休憩なしの演奏でした。当日の演奏曲目です。
1.「メキシコのノスタルジア(絵画的ギター組曲「中南米」より)」
2.「マヤの男(絵画的ギター組曲「中南米」より)」
3.「インカ王女の子守歌(絵画的ギター組曲「中南米」より)」
4.「アンデスの笛(絵画的ギター組曲「中南米」より)」
5.「地平線のサンバ(絵画的ギター組曲「中南米」より)」
6.「チゴイネルワイゼン」
7.「おじいさんの歌 第1番」
8.「風のビターラ」
9.「前奏曲第5番・粉屋の踊」
 1曲目から5曲目は、中林淳真作曲。6曲目は、サラサーテ作曲。7曲目8曲目は、ユパンキ作曲。9曲目は、ダレルガ・M・デ・ファリア作曲。

 浜松市内からのお客様を含めて、67名様の素晴らしいコンサートとなりました。
 ありがとうございました。

当日、いただいた色紙


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