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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十九

劇団テクノポリス、東京キッドブラザーズ、そして北村想

 1980年頃に、当時の浜松市青年婦人会館のサークル活動の一つとして、結成されたのが「劇団テクノポリス」でした。私は、当時、浜松市内の月刊ミニコミ誌「あっ!ぷる」に「我楽多通信」というコラムを掲載していました。その内容が浜松市内の演劇関係者の目に留まり、何度か話をする機会が出来ました。それで、この劇団の存在を知り、何度か観に行っていました。
 また、私は1976年から、浜松市内の音楽鑑賞団体であった遠州文化連盟(遠文連)のスタッフとして寄席部門「えんしゅう寄席」の企画を担当していたのですが、当時の浜松市民会館で月例会として企画・開催されていた音楽コンサートの招待券をいただいたり、当日の受付のもぎりなどを頼まれては会場に足を運んでいたのです。1979年2月11日、劇団四季「ひばり」が上演されました。昭和53年芸術祭優秀賞を受賞された、当時、劇団四季25年の歴史上燦然と輝く藤野節子さんのジャンヌ・ダルクです。出演は、中町由子、影万里江、浜畑賢吉、日下武史、松宮五郎、名優が揃いました。

遠文連ニュースNo.135 「はぴねす」1月号P6(1979.1.1)


「霧のマンハッタン」映画のチラシ

 1980年10月31日には、東京キッドブラザーズの俳優総出演の映画「霧のマンハッタン」が、映画館ではなく、当時の浜松市民会館で上映されました。

 1981年1月29日には、東京キッドブラザーズ「心は孤独なポアロ」が上演されました。

「心は孤独なポアロ」のチラシ
公演当日の物販パンフレットの裏表示


 柴田恭平、坪田直子、峰のぼる、国谷芙美子、金井美雅子、飯山弘章、懐かしいですね。遠文連では、この頃からミュージカル部門も企画として取り上げられるようになってきました。これまでの企画とは少し異なるし、法人会員向けチケットの販売に不安があるからと、遠文連の事務局長から頼まれて、「劇団テクノポリス」と接触することになりました。新規客層の開拓です。
 1982年頃から、彼ら彼女たちの稽古や公演を観にいくようになり、感想を伝えたり、アンケートに記入するようになっていきました。83年2月には、東京キッドブラザーズの「冬のシンガポール」を上演するまでに成長していました。そして、翌84年には劇団創立3周年記念として「寿歌(ほぎうた)」と「ペルーの野球」のダブル公演の企画が立ち上がっていたのです。「ペルーの野球」は、東京キッドブラザーズが浜松公演を行い好評を得ていた作品でした。この公演時のパンフレットには、いろいろなお立場の方々がメッセージを寄せられました。私も、遠文連スタッフという立場で一文を書かせていただきました。恥ずかしい内容なのですが、再掲します。
 「浜松のヤングたちは、何故、アクションを起こさないのか?」こんな疑問と苛立ちを感じていた頃、忽然と登場してきたのが彼らテクノポリスの面々であった。東由多加・山田太一・北村想と続けられていく公演には、内容の出来不出来(失礼)を超えたパッションがあり、インタレスティングな要素を秘めている。これから、どういった方向性を持っていくのかわからないが、一時期の演劇青年たちが抱えてしまった重い思想を吹き飛ばしている彼らには多いに期待したい。」

「劇団テクノポリス」の公演当日のパンフレット

 「寿歌」は、1979年に劇作家・北村想が発表した戯曲で、初演は79年12月21日、名古屋市北区にあった「鈴蘭南座」という大衆演芸場でした。あっという間に、東京、大阪、名古屋と上演が続き、「現代演劇の古典」と言われている作品です。「核戦争後の廃墟に、旅芸人と名乗る一組の男女と、一人の謎の男が出会い、旅を続ける。三人の目的は、どこへ向かうのか‥」という現在の戦争や破壊行為もイメージさせ、何度も演出や時代背景を代えて上演が続いている名作戯曲です。最近では、2012年に堤真一・戸田恵梨香・橋本じゅんによって、新国立劇場・小劇場でリメイク上演され話題となりました。私は、80年5月に大阪の阪急ファイブ・オレンジルームのチラシで初めてこの演劇の存在を知り、名古屋の大須共同スタジオで観て、感激、カルチャー・ショックを受けていた時代でした。その後、私は北村想ファンとなり、劇団「彗星'86」「プロジェクト・ナビ」「avecビーズ」としての公演を観るために、コロナ禍を除き名古屋へは2023年1月まで37年近く通い続けました。
 そうそう、映画「男はつらいよ」シリーズ、「学校」シリーズ、「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の詰め」など、山田洋次監督作品に出演している俳優・神戸浩さんは82年から「プロジェクト・ナビ」のレギュラー役者でした。

「寿歌ー改稿版ー」「寿歌・II」掲載本(1982.7.25発行)
「笑ってくだけろ!」の脚本(サイン付き)
「けんじの大じけん」の脚本(サイン付き)
コロナ禍での配信公演DVD(2021)と2023年の最終公演パンフレット

 浜松市内でアマチュア劇団が「寿歌」を上演すると知って、浜松市青年婦人会館まで稽古の見学に伺いました。顔なじみとなった代表者と北村想作品について話をしたところ、名古屋で観ているなら、演出を手伝ってくれないか、と誘われました。うっかり返事をすると、毎週平日の夜に通わなければならなくなると理解していたので、お手伝いはさせていただくと申し出ました。初演の84年5月13日までは三ヶ月の間に5~6回は通い、その都度、感想を伝えました。初演後に、私から「新居町のお寺で上演しませんか?」と伝えました。団員の何人かは、坂本長利さんの一人芝居に来られていたので本堂の範囲は理解されていたからです。数日後に了解のご返事をいただけたのですが、新居町まで音響機器を持っていけないので、私に本堂にある太鼓で音を出して欲しいと条件がつけられました。私も了承し、9月19日(水)の日程を出していただけたのです。こうして実現したのが、11本目のプロデュース公演でした。

「寿歌」新居公演のチラシとチケット

 当日、お客様にお渡しした挨拶文を再掲します。
 秋の気配もそこはかとなく感じさせる今日この頃です。本日はご来場いただきまして、ありがとうございます。本果寺小劇場の開幕でございます。今回、来演の劇団テクノポリスとは、3年前に結成された浜松のアマチュア劇団で、東京キッドブラザーズのミュージカルから始まって、山田太一、北村想、つかこうへい等の脚本を上演している若い劇団です。「寿歌」は北村想が1979年に当時の自分の劇団T・P・O師★団に書き下ろした作品です。翌年、岸田戯曲賞の最終候補作となって注目を集めたこともあって、82年には自由劇場と加藤健一事務所によって競演されました。さらに、83年には、前日談として書かれた「寿歌Ⅱ」が北村想率いる劇団彗星'86によって上演されました。
 さて、舞台は核戦争の終わった後のガレキの山となった、ある関西の地方都市。赤や青、色とりどりにミサイルの飛び交う廃墟の中をわけ知りの男ゲサクと少し痴呆的とも思える無垢な少女キョウコの二人だけの芸人一座がやってくる。待ちうけるのはヤソのヤスオ。三人のおかしな旅は、やがて新世紀へと、我々を導く。
 キリスト教の要素を含んだ、この演劇に対して、ご理解をしていただいた当寺に感謝をしております。なお、今回の木戸銭は、私たちが全く営利を目的としていないことをご理解していただくために、今までの黒字分から還元しております。

 当日の観客は、43名様とスタッフの6名でした。終演後、いつもなら打ち上げなのですが、劇団員は浜松市内から車の乗り合わせで、次の日の仕事を考慮してお茶だけで、「お疲れさま」を伝えました。


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