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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十二

本果寺寄席の10年と瀧川鯉昇師匠 Part.2

 1982年8月7日、岐阜県益田郡萩原町上呂に「民宿赤かぶ」という宿泊施設ができました。私は、最初から会員として利用しており、オーナーの尾藤政勇さんと知り合ったのは1975年ごろの浜名湖ユースホステルでした。彼の結婚式は、そのユースホステルのホールで行われ、私も出席しました。その後、彼は長野県戸隠村のペンションの管理人になり、萩原町上呂に自分の民宿をオープンしました。なお、萩原町は現在は下呂市となっています。

「民宿赤かぶ」の正面
「民宿赤かぶ」内の囲炉裏端

 この「赤かぶ」さんで、1984年から「百八寄席」という地域寄席を始められました。翌年1985年3月2日に三回目の企画として、鯉昇さんと小蝠さん、南なんさん、そして私の前座というメンバーで出演させていただいた。浜松市駅集合で私が運転する車で現地に向かいました。終演後は、現地のスタッフたちと深夜まで宴席が続きました。そのままこの民宿の部屋に戻れば睡眠、という好条件でした。そして翌朝、小蝠さんたちの部屋から、うめき声が聞こえてきたのです。遅めの朝食の時にお話しを伺うと、昨夜寝てから小蝠さんがあまりに寒がりなので、鯉昇さんと南さんで有るだけの布団、毛布、座布団を掛けた。それでも寒がっていたので、襖を外して掛けておいたところ、目覚めてからあまりの重さにうめいていた、というわけでした。小蝠さんは、現在の二代目の柳家蝠丸さんで、ご出身が青森県むつ市なのです。この日は、高山市内の酒蔵見学をさせていただきました。

「飛騨百八寄席」でのご挨拶
1985年3月2日の「第三回百八寄席」

 実は、1983年5月14日の第2回本果寺寄席の打上げの時、小蝠さんは全くアルコールが駄目だということが判っていました。小蝠さんは造り酒屋の跡取りという境遇なのですが、上京した時には全く一滴も飲めなかったと言ってました。それでも修業のかいあって、この当時はアメリカンの水割りなら一杯くらいはお付き合い出来ると言われました。しかし、この水割りのつくり方が変わっていました。先ず、グラスに氷を二つ、三つ、ミネラルウォーターを九分目まで注ぎます。そして原液(ウィスキー)をスポイトで一滴?という、非常に難しいレシピでした。1985年5月に真打に昇進され、二代目の柳家蝠丸を襲名されました。当本果寺寄席には、この10年間に1983年、1985年、1986年、1989年と四回来演していただけました。さすがに、四回目にはアルコールにも強くなられ、スポイト二滴になっていました。

 1984年5月12日の第4回本果寺寄席には、素晴らしいゲストを迎えることが出来ました。当日までは鯉昇さんと楽輔さん、二人会の予定だったのですが、当日になって曲独楽師のやなぎ女楽さんが来てくれたのです。これまで書いてありませんでしてが、実はこの本果寺寄席は「西武CIT8寄席」の終演後、新居町まで移動していただき公演を続けておりました。
 当初、鯉昇さんとCITY8寄席の企画を話し合った時、真打ち1人、二ツ目3人、前座1人の予算にするため、終演後の打上げは行わないことにしました。西武さんからの経費は全て、当日の交通費と昼食代、出演料でまかなうことにしました。私は当時、地方公務員でしたので、兼業はできませんでしたし、鯉昇さんからも西武百貨店からもプロデュース料は受け取っていませんでした。この当時の浜松市内の百貨店は外付けのエレベーターはなく、消防法上、百貨店の営業終了後のホール使用は難しかったです。そのため、CITY8でのイベント開催は営業時間内に限られていました。また、当時の浜松市では昼間の平日は土日祝日以外ではイベントに集客することは難しかったです。その理由から、「西武CITY8寄席」は土日祝日の13時30分から15時30分に開催されました。当時の二ツ目の方々は、そのまま東京都内に戻っても寄席や演芸場での出演機会は少なく、逆に浜松駅周辺で終電まで打ち上げをするお金もありませんでした。そこで、新居町まで来ていただいての地域寄席を依頼したのが「本果寺寄席」のきっかけでした。
 やなぎ女楽さんの話をお伝えします。昼間の「西武CITY8寄席」のゲストとしてお願いしていましたが、終演後は鯉昇さんと楽輔さんお二人に残っていただきました。浜松駅で前座時代の昇八さん(現昇太師)、笑福亭鶴志さん、先代柳亭小痴楽師と女楽さんとお別れする予定でした。しかし、女楽さんから「君たちは、これからどこかで仕事をするの?」と鯉昇さんに聞かれ、「これから隣の新居町で夜の寄席に出るんです」と答えたところ、鯉昇さんの勉強会のためならと急遽予定を変更し、ノーギャラで出演していただけることになりました。本果寺寄席では、素晴らしい曲独楽と踊りを披露していただき、まさに寄席の雰囲気を味わうことができました。

1984年5月12日 「第4回本果寺寄席」のチラシ

 1986年頃です。学生時代から仲良くしていた湖西市鷲津の青山秀樹くんが家業の工場を継ぐために広島から戻ってきました。彼は、新居町の生まれで、立命館大学の落語研究会に所属していて、副部長まで務め、寄席文字を得意としていました。浜松での「雅落語会」の二回目、1976年からめくりの担当をしていて、勤務先から送られていたことも分かりました。早速、「新居・寄席あつめの会」に誘って、寄席文字でのポスターと当日のめくりを頼みました。この寄席文字は、2014年7月に彼が亡くなるまで、同年5月18日の第70回本果寺寄席まで続けていただけました。長い間、ありがとうございました。彼の高校時代の同級生が、瀧川鯉昇師、大学時代の同級生が桂塩鯛師なのです。没後、彼の妹さんから連絡があり、彼が所蔵していた落語・演芸・寄席文字関係の書籍・資料など数百点は私が引き継いでおります。

1995年9月9日「第35回本果寺寄席」終演後。右側が青山秀樹くん。

 1987年9月6日の第11回目には、鯉昇さんより5年ほど前からお知り合いだった柳家小里ん師匠に来ていただきました。私の学生時代に、当時の浜松市内の鍛治町、肴町、連尺町周辺の店主たちが会員制の「浜松落語会」を3か月に1回開催していました。その会に市内のアマチュア落語集団「落天会」のお席亭である藤屋肴町店の山田さんの紹介で、当日の下足番の仕事をする代わりに無料で聞くことができました。もちろん、それまで行ったこともないような高級料亭のお部屋でした。
 八代目林家正蔵、十代目桂文治、五代目柳家小さん、先代入船亭扇橋、柳家小三治、先代春風亭柳朝、立川談志、古今亭志ん朝、どの師匠方も新幹線の最終ぎりぎりまでの長講熱演でした。私は、当時、浜松周辺に居ながら当時の名人上手を生でじっくりと聴かせていただけたのです。あの春風亭小朝師が柳朝師匠のカバン持ちとして学生服で舞台袖にいたのを覚えています。さて、小里ん師匠は当時二つ目になられた頃で、各師匠連の前座として出演されていたようです。この会では、若手の会として頻繁に出演するようになりますが、この時期に浜松でのネタおろしをされていたと後日聞きました。毎回私が一番に座っていたので、前回と同じ噺はできないと思われたそうです。その後、この会は発展的に解消され、1976年から遠州地区の音楽鑑賞団体である「えんしゅう寄席」という定期的な落語会が誕生します。私はまたしても藤屋総本家肴店の山田さんからの紹介で、この団体のスタッフとして参加することになります。
 この寄席の企画運営において10数年関わることになるのですが、その半数以上の窓口になっていただいたのです。1983年の真打昇進時には、同年11月28日に第30回えんしゅう寄席として、グランドホテル浜松鳳凰の間において「柳家小里ん真打昇進披露」を開催しております。当日、昇進記念の手ぬぐいと扇子をいただき、素人前座でずっと使ってきました。

グランドホテル浜松での真打昇進披露
真打昇進披露の扇子


「CITY8寄席」にも「本果寺寄席」にも、早く出演してほしかったのですが、1987年までかかってしまいました。その日は、私が素人前座として出演し、覚えたばかりの「千両みかん」を終えて楽屋に戻ったら、「素人がこんな噺をやっちゃあいけないよ」と笑いながら高座に上がり、長講「五人廻し」45分でした。鯉昇さんと私の家に泊まっていただいたのですが、結局、朝まで落語について話し続けてしまって、一睡もしなかったようでした。このことが縁となり、鯉昇さんに稽古をつけてもらえるようになり、彼の持ちネタが増えるきっかけにもなりました。とても嬉しかったです。

1987年9月6日 第11回本果寺寄席

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