見出し画像

復刻版「贋作・ひとりごと」No.6

遠文連ニュース「はぴねす」」No.225(1986.7.10)より

 最近、といってもかなり前からなのだろうが、浜松でも東京・大阪地区のイベント・チケットを指定して購入できるようになってきています。それらのイベントの中で目につくのが、やはりミュージカル、それも舶来の直輸入物という夢のような内容であります。日本にいながらブロードウェイが楽しめるということは大変けっこうなことではないでしょうか。ところが、必ずといっていいほど大きなスポンサーがついておりますね。一観客にとっては、その方が少しでも安くなりますから、別に気にするということでもないわけです。ところが、純国産のミュージカルをスポンサーに頼らんと、自分たちだけの力だけでという劇団もありますな。これも納得できるんです。日本語による歌と日本人の体型に合ったダンスを研究して稽古をしている所へ、いきなり本場物が入ってくるわけですから。そら、ずっこいで!となるわけです。本物を感じとれる感性と、ただ本場を見たという感じとは根本的に違うてると思うのです。えぇかっこしぃをしたいのもわかりますけど、もう少し内側にも目を向けてもらいたいと思うのです。自分が英語をわからへんので言うてるようなもんですけど、国産のミュージカルもええもんでっせ。

遠文連ニュース「はぴねす」」No.226(1986.8.10)より

 長かった選挙騒動も何とか終わり、後遺症の後始末に大わらわの今日この頃だと思います。私の愛読書の一つに筒井康隆大先生の「狂気の沙汰も金次第」というエッセイ集があって、まさにこのタイトルは各選挙のキャッチフレーズにぴったりだと思っているのです。もうこうした事を書いても選挙妨害にはならないはずですので遠慮無く書かせていただきます。
 大阪地区で西川きよっさんが見事当選しましたが、その後の報道においてもかなりの言葉による暴力があったようです。例えば、やっさんとのコンビは解消か?とか、タレント活動はやめるのか?とかいった、しょうもないレポーターたちの質問でした。そのような個人やコンビのプライバシーにねたみやそねみで足を引っ張らないでもういたいものです。もった腹立たしかったのは、某政治評論家とか某先輩議員たちがタレント活動をやめるように勧告していたことです。そういう発言をしている人たちこそ二足も三足もわらじを履いているというのに、要は、芸人をバカにしているんじゃないでしょうか。参議院という良識の府に組織ではなく、良識のパーソナリティーを送り込んだ大阪の庶民の力こそ本物だという気がします。日本でもこうしたドリームが誕生したという事実に、とても感動しているのです。

遠文連ニュース「はぴねす」 No.225  226  227

遠文連ニュース「はぴねす」」No.227(1986.9.10)より

 サラリーマン、今年もあるぞ、夏休み‥ということで、今年も長野県戸隠村の住民になってきました。日本人のレジャー内容も観光地巡りから滞在型のユックリズムになってきたといわれていますが、私たちのグループは最初から、お金を使わない、時間にしばられない、流行にとびつかない、という三ない旅行をしてきました。結婚してグループから抜けたり、子供が生まれてしばらくはおあずけになったり、その時々で構成メンバーは変わりますが、おそらく50、60代になっても続けているんじゃないでしょうか。熊笹に囲まれたキャンプ場、木陰で朝からビールを飲みながら読書という夢のような日々が送れるのです。
 サラリーマンでも休暇をシーズンオフにとれる方、花嫁修業等で毎日が日曜日の方、ぜひ一度観光シーズンでない時に戸隠村へ出かけてみて下さい。緑と鳥と風以外は何もありません。街灯も自動販売機も、何もありません。何もない状況というものがどんなにすばらしく、お金で買えないものか、おわかりになると思います。
 全国各地の自治体で資金源となるような観光地づくりが作為的にされていますが、いずこも一時的な現象で終わってしまうのでは何でもあるからではないかと、思ってしまうのです。

遠文連ニュース「はぴねす」」No.229(1986.11.10)より

 時代劇が無くなってしまうんやそうですな。テレビ番組からも、編成シーズンになるたびごとに少なくなってきているのが、おわかりだろうと思います。あなたのお宅でも、おとうさんやおじいちゃんがしょんぼりしているんではないでしょうか。これが映画の世界となると「必殺!」が最後?になってしまったんだそうです。
 なぜ、こんな状況になってしまったんでしょうか。視聴率がとれなくなった、役者がいない‥いろいろ言われています。本当のところは、私たち日本人の暮しが急速にアメリカナイズされてしまったため、伝統文化を伝えることができなかったからだという説があります。キモノ文化に一度も触れたことのない人が増えてしまったためにノスタルジーも感じないということなんだそうです。
 これから、ますます国際化社会になっていくと、〇〇系日本人が生まれてまいります。いろいろな価値感を持った新人類が増えてくるわけです。そうすると、逆に自分たちの歴史を考えるようになっていくのではないでしょうか。もう10数年もすると、中年層だけが時代劇とか歴史については全く無知になってしまって、上下の世代からはダメおじん・おばん扱いをされるようになれば、おもしろいのですが‥‥。

遠文連ニュース「はぴねす」」No.230(1986.12.10)より

 少し前になりますが、例の写真週刊誌に対して、回収まで含めた告発をした方がありました。それから法務省から注意を受けたり‥と話題になっています。第三者である読者にとっては他人事だから笑ってすませてるけど、当事者にとっては一生を左右される事件ともなりかねないのです。
 もう少し前にはアホなレポーターたちの思いあがった行為に対して、少しは非難の声があがりましたね。でも、あれからどうなってしまったのでしょうか。いつの間にか、お笑いタレントになっていたり‥。彼(彼女)たちは自分の口からどんな言葉が出ていたのか、思い出すことがあるのでしょうか。
 こうしたマスコミの権力で、一私人の情とかやさしさが踏みつけにされていったのかを何人の方が理解していたのでしょうか。こんな状況が続くと、目には目を、歯には歯をで、必殺!になるんとちゃいますか。カメラマンとか編集長の過去とかプライバシーを逆にさせしものにする事件が起きてしまうと思います。
 音楽を聴き、芝居を観て、落語に笑うという感性生活を送っていれば、そういうアホな人間にはならないのと違いますやろか。

遠文連ニュース「はぴねす」」No.231(1987.1.10)より

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。毎年同じパターンで申し訳ないのですが、まだまだこの状況は変わらないと思いまので、今年も書かせていただきます。
 12月になると、どこのテレビ局でも自分たちの局主催の〇〇歌謡大賞とか、〇〇音楽賞といったあまり権威の無い番組を放送しますね。レコード歌手とテレビ歌手とステージ歌手を同じ舞台・レベルで競わせるのは、いいかげんにやめていただけないでしょうか。歌手の体質、人間性そしてセールスとかデモンストレーションの方法が、すっかり変わった今日では10年20年前のレベルには納まりきらないと思うのです。
 彼ら音楽関係者は全国にどれだけのホールがあって、年間どれだけの観客動員があるのか、知りもしないし知ろうともしていないと思うのです。これを金額に換算したら、レコード売上とコンサート入場料とではどれだけの差があるのでしょうか。
 いつの日にか、コンサート大賞、ステージ大賞が制定されて、ステージ歌手にもっともっと正当な評価がされることを願って、新年の主張に代えさせていただきます。

遠文連ニュース「はぴねす」 No.229  230  231






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?