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ゴシック・ブルーに溺れる――エミル

 硝子を叩くまばらな雨音に気がついて顔を上げると、窓の向こうは幻想的な蒼に彩られて、まるで海の底のようにエミルの街を浮かび上がらせていた。
 読みさしの「夏採れとまとと三本脚のかかしのための殺人」の続きはすこし、おあずけにして、久しぶりにペンを握ってみようと思う。薄暮時の空と、解決編の推理小説ほど、かわりやすいものはない。いまここにしかない言葉で綴る旅行記は、きっととても贅沢なものになるだろう。

 エミルの街には陽が差さない。一年中、冷たく厚い雨雲に覆われているからだ。ブラン・リリー急行に揺られながら次の目的地を決め兼ねていたわたしは、その一文を見てどれほど陰気で淋しい街なのだろうかと身構えてしまったのだけれど、予想に反し、エミルは美しい街だった。透きとおるほどに磨かれた白い石で造られた建物は、雨が降ると蒼を反射し、ぼんやりと発光して、街そのものがひとつの泉のように輝き始める。通りを往く人々も、ものしずかで心優しいひとばかりだった。ペンションのホストなどは、朝からろくに身支度すら整えずベッドでだらだらと読書をしているわたしのような客にも、眉をひそめることなく紅茶を出してくれる。聞けば、どんな冒険家も、エミルの街では救いようのないひきこもりになってしまうらしい。
「ここには碌な観光名所もなければ、珍しいものが揃う市もない。おまけに天気は年がら年中この有り様です。活字と活字の隙間にひきこもりたくもなるでしょう」
 ホストは自嘲するようにそう言って笑ったけれど、喧騒を離れ、現実も明日の予定も自分の名前すらわすれて読書に没頭できる心地好い場所など、そうあるものではない。エミルの街の白い壁と薄明かりは、大掛かりなスクリーンのように、あらゆる空想を瞼の裏に映し出してくれた。ホストも、それをわかっているから、こうしてわたしたち旅人にあたたかいベッドを寄越してくれるのだろう。まだ静かに湯気を立てているセイロンティにミルクを足しながら、わたしはまた、かかしの三本脚が行き着く事件の真相に、心を奪われはじめている。

 紅茶を飲むと身体がすこし、火照るような心地がしたので、薄く窓を押し開けてみた。ふわり、と霧を含んだような湿った風が、たちまちあたたかな室内にあふれ返る。
 ほんのすこし前までいたスリーヴスの街では、日除けを求めて店から店まで酩酊したミツバチのように蛇行をしなければいけなかったのに、(そして、その都度勧められるままに海老やら貝やらを試食して目的地に着くまでにすっかり満腹になってしまったというのに、)いつの間にか随分と秋めいてしまった。これから北上するならば、この街で新しいコートを買わねばならないだろう。眼下を過ぎる、まあるい傘のひとつひとつがくるくると開くのを見つめながら、これからの季節を共に過ごすコートの色に想いを馳せた。むかし、持っていたものは暗いグレイだったけれど、思いきってあざやかな赤いコートにしてみようか。些か派手だろうか。思いあぐねると向かいのコーポの白い壁にも、色とりどりにイメージが浮かぶ、浮かんでは消える。そうだ、この街に似合う、ネイビーのコートにしよう。近くに仕立屋はあるだろうか。名案とともに嬉しくなって、思わず頬が緩んだ。
 微笑みとともに漏れた息が熱くて、今頃のように、外気の冷たさを思い知る。夜が深まって、秋も深まって、カップの紅茶がすっかり冷めてしまう前に、わたしは夏採れとまとの名探偵振りに刮目しなければならない。静かに軋む窓を、雨の吹き込まない程度にすこしだけ下げて、ブランケットを頭から被った。あのヤドカリ島の密室がどう暴かれるのか。美しきサフラン嬢を殺したのは誰なのか。次にペンを握るときはきっと、わたしの心はエミルの壁に映り込む、活字と活字の隙間の青い海の中にいるのだろう。

2018/9/27

#サンタ・クルスをたずねて #短文

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