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月光と潮騒――イリエ

 この世界に生まれてくるずっと前、わたしは海の音に満たされていた。
 たとえば、そんな書き出しならどうだろう。手帳にたなびく走り書きの文字を、束の間眺めて、首を傾げて、はんたいに捻って、やがて「おてあげ」のポーズとともに万年筆を放り投げる。
 とりとめのない旅行記の、余白を埋めるように、わたしは小説を書いていた。読むほうに関しては飽きるということを知らないが、書くほうに関してはてんで才能がない。それでも短い首をあちこちに曲げながら、言葉を綴ることは楽しかった。永遠を薄くのばしたようにゆるやかな海辺では、真砂に紛れた星屑を探すみたいに、かがやかしいレトリックをつかまえられるような気がするのだ。
 イリエが、わたしの名を呼ぶ。「おてあげ」になって夕間暮れの空を見上げるわたしを、さかさまになって覗き込む。夕飯の時間らしい。たちまち作家気取りのたましいは成仏してトマトの匂いに誘き寄せられる野蛮なけものになる。「おてあげ」を「ばんざい」に書き換えたら、しばし執筆のことは忘れよう。

 イリエは、街の名前ではない。
 ブラン・リリー急行にゆられて港へ向かうときも、そこから舟守を探して渡し舟に乗り換えるときも、イリエの名はどこにもない。地図に描かれた、折り目ただしい正式名称を口にする。あの島まで連れていってください。ああ、あの島ね。港ではそうでなければ伝わらない。イリエを、イリエと呼ぶのは、わたしだけなのだ。
 イリエは、友人である。ひどく内省的で、そっけなく、愛嬌のない、けれど世界一すばらしい音楽家だ。人間ぎらいの彼が暮らすひとりぼっちの家、ひとりぼっちの島、ひとりぼっちの海、そのすべてをわたしは、ひっくるめて、イリエと呼んでいる。そこにはイリエだけがいる。イリエのために、世界のすべてがある。
 遠くで暮らす親戚って、地名で呼びがちだよね。スリーヴスのおじさん、みたいにさ。だから逆に地名ごとイリエにしたっていいよね。いつかわたしが得意げにそう宣言したとき、彼は怪訝な顔をして、けれど拒みはしなかった。イリエは人間ぎらいだけれど、ひとりひとりの人間(たとえばわたし、連絡もせずに唐突に訪ねては一宿一飯を強請って帰る放浪者)にはやさしい。あるいは、人間ぎらいというのは、人里はなれて静かに暮らすための方便なのかもしれない。イリエの家は、イリエの島は、イリエの海は、いつだって穏やかに潮騒の音だけが響いている。

 きょうの夕飯は、白身魚と夏野菜をトマトで煮込んだシチュー。塩のきいたフォカッチャ。わたしがおみやげに買ってきた、夏みかんのサイダー。几帳面な手で細かく、さいのめにされたパプリカやなすやズッキーニが、トマトを纏ってつやめいている。フォカッチャは、オリーブオイルと、ローズマリーの香りがして、ふかふかとあたたかい。イリエは、芸術家なのに、生活力があるね。そうわたしが褒めれば「偏見だ」と苦言を呈したあと、「君は旅人なのに生活力がない」とお説教を喰らう。そんなことはない。ソクラテスに倣って善く生きることが、わたしの生活だ。
 浮かんでは消えるサイダーのあわのように、そんなとりとめのない話をして、ダイニングテーブルの料理はすっかりわたしのおなかに収まった。甘ずっぱい、夏みかんの粒が、氷の溶け残ったグラスの中で見知らぬ星座を模っている。マドラーで一度、かき混ぜて、氷がからりと涼めいた音を鳴らすのを聴いていた。そうしたあとで、顔を上げる。平皿の上にカトラリーを寄せて、キッチンに下がろうとしていたイリエは、その音に共鳴したかのように、わたしを見る。
「聞く?」
 大きく頷いた。イリエは、わたしの半分にも満たない、浅い頷きを返す。了承の合図だ。
 イリエを訪問する度、わたしは、イリエの演奏するピアノを聴くのだ。
 細い背中がキッチンへ消える。わたしだけが取り残されたダイニングで、潮騒の音が大きくなる。

 クロード・ドビュッシー。ベルガマスク組曲、第3曲。月の光、を、一丁。
「ラーメン屋みたいに注文するな、ドビュッシーを」わたしは赤い雷紋の中華椀に、髭面の作曲家が浸かっているところを想像して、笑った。イリエだって笑っているじゃあないか。ごまかすように咳払いをしたあとで、イリエは浅く呼吸する。鍵盤に触れる。
 くすり指が白鍵をやわらかく押したとき、わたしは比類のない満月が揺蕩うのを見た。ああ、あの月は、水面でひかっているのだ。鏡の国の反映なのだ。そう気づいたときのような、かすかな、耳朶に触れる甘い囁きのような、ピアニッシモ。そんな静かな音から曲は始まる。
 夜の海に浮かぶ月は揺れるたびにかがやきを増して、この部屋に押し寄せる。押し寄せては、また返して、わたしたちの爪先を濡らそうとする。ひたむきに照らされたイリエの横顔は祈りのさなかのようで、白く温度のない頬には睫毛の影が落ちていた。ゆるやかに結ばれたくちびるが、薄くひらかれる。満月が海を引き寄せるのと同じリズムで、息をする。
 そして、一際高い波が泣き出す前のような和音で心臓に触れたとき、わたしはイリエの海に溺れて息絶えた。ふたつの肺が、胸の中でひとつに燃えて、酸素を希う。ひどく苦しい。熱い。冷たい。寂しい。苛烈なその温度を逃がすように口をひらいて、けれどそこからは言葉も、ため息すらもこぼれずに、わたしはひとつの瓶になる。からっぽで、透明で、花も手紙も忘れて、ただ、
 海の音に満たされている。
 演奏が終わる。

 鍵盤から両手を離したイリエは、わたしを見て、ぎょっと目を丸くした。驚愕に、次第に戸惑いと呆れを滲ませる。
「感受性の化け物なのか、君は」
 そんな悪態とともにティッシュの箱が差し出された。言葉とは裏腹に、声音は優しい。うん、ごめん、ありがとう、いや、感動してね。そんなような言い訳をまごまごと返して、涙を拭く。薄くたよりない紙が眦に貼りついて、天使についばまれているようにも、悪魔に小突かれているようにも感じた。
 楽譜とは設計図であるらしい。理屈はもちろんわかるけれど、楽器のできないわたしには、五線譜の上で踊るそれが、難解な幾何学模様にしか見えない。けれど、イリエがひとたび触れれば、それは音楽になる。遥か昔、パリの街を照らした満月を、遠く離れたこの海にも、中華椀にも水溜まりにも、瞳の中にでも再現することができる。それって、ほんとうに、すごいよ。白い紙に落ちたインクの染みを、イリエは、月の光に変えることができるんだよ。
 凡庸な語彙で、それでも必死に言葉を尽くして、感動を伝えようとするわたしを、イリエは黙って見ていた。やがて口をひらく。
「それは、君も同じだろ」わたしも。「ただのインクの染みを見て、そこにないはずの景色を再現できるのは、演奏も、読書も同じだ。君は、自分は本を読むくらいしかできないというけれど、インクの染みから世界を空想して、一喜一憂したり、感動して泣いたりできるのは、すごいことなんじゃないか、多分」
 とりたてて励ますふうでもない、そっけない彼の言葉を、反芻する。そうなんだろうか。よくわからない。読書が好きだ。食事が好きで、旅行も好きだ。わたしには数多の好きなものがあって、別にそれが実をむすんでかたちのある何かにならなくたっていいと思っている。好きを言葉にできるだけで満足だ。わたしは、善く生きている。
 そう思う一方で、たまに、宛てのない旅の行く末がふっと不安になることがある。何かを生み出さなくてはいけない気がして、余白を睨んで、そこに意味を見出そうとしてしまう。焦燥感に苛まれているあいだは、わたしがわたしでないような気がして、すこし苦しい。
 けれど、口の悪いイリエが云うのだから、わたしはわたしをそれほど悲観しなくてもいいのかもしれない。浅く呼吸すれば、溺れたあとの鼻の奥が、つんと冷えていく。
 おいしい食事、きれいな音楽、おもしろい本、やさしい人たち、魅力的な街。わたしは、わたしの好きなものでできていて、ならばもうすこしわたし自身を好きになってもいいはずなのだ。束の間、呼吸が楽になる。顔を上げて、静かにこちらを窺っているイリエに、アンコールを頼んだ。もう一曲、おかわり。亜麻色の髪の乙女。

「替え玉みたいに要求するな、ドビュッシーを」
 よく似た台詞を口にして、呆れたようすでピアノに向き直った。言葉が途切れて、演奏がはじまるほんの刹那、また潮騒の音が大きくなる。
 ささやかなリサイタルを終えたら、もっとめいっぱいイリエのピアノの素敵なところを伝えよう。不健康を叱られながら夜通し晩酌をして、潮騒のホワイトノイズに包まれて眠ろう。未来に待ち受ける「わたしの好きなもの」を空想して、目を閉じた。
 いまはとにかく、魔法にかかろう。亜麻色の髪が、こもれびを透かしてひかる、その色彩のすべてを、
 わたしたちはどこにいても描き出すことができるのだから。

2024/8/29

#サンタ・クルスをたずねて #短文

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