24. マル・ダムール/火照る、伸ばす、夜

ツイッターでやったワードパレットからSSを書くやつです


 古びた戸建の屋根をぴしぴしと軋ませる、その台風の名前をわたしは知らない。だいたいたかが気象現象の、そのひとつひとつに律儀に名前をつけるのもどうかと思うのだけれど、能天気なかの男は「いいんじゃない? 名前があったほうが親しみやすいでしょ」などと宣って十二分の一の梨のかけらをしゃくりと齧る。
 男は、隣人である。「感じのいい、誠実そうな眼鏡の青年」と、「馴れ馴れしい、やたらと口のまわる眼鏡のクソガキ」を砂糖と卵白のように撹拌して焼き上げたかのごとき人物である。初対面の頃などはもっと「感じのいい」のわりあいが大きく、「感じ」だけではなく人あたりもよければ声の耳ざわりもよい砂糖細工のような好青年だったのだけれど、対面する度会話をする度卵白は空気を含んで、いまではすっかりこのふてぶてしさである。歳上のわたしに敬語を使わなくなったのも、人の家の縁側を我が物顔で占領し梨を喰うのもまあいいとして、わたしの愛犬とわたしよりも仲睦まじくしているのはどうなんだ。シロも嬉しそうだし。「安直な名前だね」なんてけちをつけてきた男の腹に、カスタードクリームのようにとろけてひろがって、幸福そうに眠っている。度し難い。

「君なら台風とも仲良くなれるんだろうな」
 精一杯の皮肉を込めて呟いたけれど、彼は「まあそうだね」としれっと肯定してくるのだから糠に釘である。菓子盆に手を伸ばすと、爪楊枝をなめらかに梨に突き立てて、魔法の杖のように掬い上げながら、わたしを見た。
「あなたとも仲良くなれたわけだからね」
「どこが良いんだ、どこが」
「違うの? 仲が良くなきゃ家に上げて梨を振る舞ったりしないでしょ、ねえシロ」
 わん。シロを味方につけるなと言いながらわたしも梨を齧る。いただきものの豊水は甘く瑞々しい。夏の夜の纏わりつくような湿気を割くように、さくり、目をみはるほどの涼やかさを閉じ込めたそれは、プールサイドか、打ち水か、通り雨を凝縮したかのように、白く透明で冷たいのだ。

「そんなに怒らないでくださいよ」
 たまに思い出したように丁寧語になる。成人男性にしてはやや細い指があやすように髪を梳く。他人の頭に勝手に触るな、習ってこなかったのかおまえは、と一発張り倒したいところなのだが、何故かわたしはそれができない。痛覚などないはずの傷んだ毛先が、ちりちりと焼けるように敏感になる。身体は火照るような、あるいはさんざめく星のようにきりきりと冷えるような、不思議なせつなさに襲われる。ああこれだから、こうなってしまうから、この男は苦手だ。目をあわせると昏い瞳にわたしの姿が映っている。ため息がふれあうほどに近づいて、男は微笑む。

「でもね、怒った顔も素敵だと思いますよ」
「わたしは君のそういうところが全面的に嫌いだよ」
「酷いなあ、ねえシロ」
「わん」
「シロを味方につけるな」
「僕はあなたのことが好きですよ」
「わん」
「…………シロに向かって言うな」
「わん」

2019/9/6

#短文

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