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美談の相性

酷暑続くなか、皆さま如何お過ごしでしょうか?
たべるば公式note今回はお久しぶりに丁稚の私情回、せっかくなので
シーズン的に、ちょっと「美談」について考えてみようかと思います。

手始めに、「美談」とはなんでしょうか?
辞書を引いてみますと、
「ほめるべきりっぱな話。現代では特に、道徳的に模範とすべき行為の話」(精製版 日本国語大辞典)
といったことや
「美しい話。聞いて感心するようなりっぱな行いの話。」
というような説明がされています。
なるほど、なるほど。
これはまさに、我がたべるばやボランティア活動のことではないか!
・・・・
・・・・・・
ないよ!
全然無いよ!
おれたちに美談にするべきことなんか、一個もなぁぁぁあい!
※たべるば調べ

いや、多分なのですが、一応美談のネタはあるのです。
わたしたちにも。
なにせ、子ども相手の支援活動やっているもので。
ただそれを美談にしたくはない。
なんなら、美談にさせないために、関係者みんなで全力でオチをつけている説まである。
我がたべるばトップの女将を筆頭に、親族の葬式ネタで笑いをとりにいくレベルで芸人気質な代表秘書よしとも、そして、ネタセンサーが発動しすぎて笑いの沸点が変な方向に発達したまだまだ育ち盛りの不祥わたくしこと丁稚と立ち上げ初期からの古参メンバーが
悲劇よりも喜劇を!美談よりも怪談を!
などと、ボランティア団体としては異様な癖の強さを発揮しているということはもちろん否めないのだけれども、そもそもさ、美談ってシンドくない?

わたしの友人であり、同業者としても尊敬できる松本の某ネズミ司書曰く
「美談は美談になった時点で好かぬっ!」

美談というものの影には往々にして、なんらかの「悲しさ」や「寂しさ」、「苦しさ」があり、それをなんらかの手段により「乗り越える」ことで美談が形成されているのだけれども、その過程における「我慢」や「耐える」ことに耐えられなくなってくる(わたしが)
例えば、某24時間TVでも取り上げられ、美談として名高い『はなちゃんのみそ汁』ですが、娘持ちのわたしとしては、はらわた煮え繰り返り案件です。

このお話、今ではヤングケアラー問題の一つとして認知されつつありますが、放送当初は「はなちゃん」を賞賛する声はすごく多かった。
丁稚としても、彼女の頑張った事実は否定はしない。
ただ、頑張るべきなのは、「はなちゃん」じゃ無いよね?というのが正直な感想である。
また、同じ系列で言えば、『生徒が人生をやり直せる学校』というドラマもあったけれど、個人的にはこれもかなり危険性の高い内容だなと感じました。
特に、若年者の妊娠及び出産、そしてそのために学業を断念した姿を肯定的に描いた部分なんかは丁稚個人としては相当にFXXKだと云わざる得ない。
というか、世の中に蔓延る「美談」というもの、大半が「子ども」「おんな」もしくは「なんらかの障害がある人」が弱者としてなんらかの困難に見舞われ、それを受け入れながら克服していく、むしろ、受け入れながら前向きに進んでいく姿が多い気がする。
そして、それらを「美談」として持て囃す人の大半は弱者としてのカテゴライズの外にいる、もしくは、「名誉マジョリティ」ともいうべき立場から美談を消費、ないし、美談として規定しているようにしか見えないのだ。
だからこそ
「美談は美談になった時点で好かぬっ!」
けだし、名言である。

さて、たべるば公式noteを、特に、丁稚の私情回を読んでくれているあなたは既にお気づきかと思うが、不祥わたくし「視線の不均等」に煩い女である。
であるからして、この「美談」を巡る視線についても、「視る」ものは常に「視る」だけであり、「視られる」ことはない。
深淵というものが、覗き込むものを覗き返し、なんなら偶には手を振って笑うのに対し、美談を巡る視線というものは、立場が変わることがあまりない。
美談を賞賛するものは、美談の置き忘れた靴を拾うことはない。いわんや、履くことをや。
美談を求めるひとは、自らを「ちょっといいはなし」を越えた美談の主にしようとはしないのである。

では、視線の均等な美談、あるいは、美談になり損ねた奇談とはどういうものであろうか?

我がたべるば、この手のネタには事欠かない。
例えば、就労支援のひとつとして準備したフォーマットについて、
対象者が青春を謳歌しすぎて、なかなか現場に来ない!
あるいは、学習支援として気合入れてスケジュール組んだのに、対象者が逃げ回る!
いや、君たちがやるって言ったのだろうがぁぁぁ!
こっちだって、暇じゃないんだよぉぉぉぉ!
そう絶叫したい日もある。
なんなら、そんな日の方が多い。
足立区の奥深く、そんな怒号が聞こえたら、それはきっと、堪えきれず表に出ちゃった女将の心の叫びである。
でも、それでいいとも思う。
私たちは、「子ども」食堂である。
「子ども」が大人の善意に敏感になり、ましてやその好意をありがたく思い、曳かれたレールの上をニコニコと歩くようになっては、世も末だ。そんな姿を視るくらいであれば、老婆となり、羅生門の上で死体から髪の毛抜いて生計を得る方がなんぼかマシである。
いいんだよ、子どもなんだから。
気にせず好きにすればいい。私たちだって好きでやってるし、うちの団体に限って言えば、まぁおれたち大人サイドの方が、結構好きに生きている。

結局、美談の影にあるのは「甘えられない」姿である。
誰にもヘルプを出せず、現状を受け入れながら耐える弱きもの。
あるはずの支援を受けず(なんなら拒み)、周囲の人もそれを善きこととする。
そして、背負わなくてよい困難を背負い、抱えなくてよい苦労を抱え、それでも「自分」の2本の脚で立っている、なんなら余計に何かを背負おうとする。
それを側から「立派である!」と褒めているのが、美談の姿なのである。
胸糞悪いぜ!

五年目に入った我々たべるば、
これからも「世に言う美談」に中指立てながら、甘え放題なキッズたちをたまに叱りながら、こちらもチャラチャラ笑顔で好きに活きていきたい次第である。

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