その人がタイプなのか、それともその人のことが好きなのかは、その人の文脈を愛せるかどうかによって決まる

好きな人とのLINEの頻度が下がってきた。未読スルーが増えた。
むかしのその人はすべてにマメに返信する真面目で手を抜けない人で、俺はその不器用な性格が好きだった。
未読スルーは、無理に話を続けずおもしろい話だけを集める、人生を楽しく過ごすための器用な手段だ。悪いことではない。しかし自分は、過去のその人の不器用さを愛していて、その人の幸せに目が向かなかった。
どうして未読スルーをするようになったのか、好きな人は「むかしからその器用さを持っていて、忙しくなったからみんなにそうしているに過ぎない」と主張する。本人からしてみたらそうなのだろう。
ただ、外から見ていると、好きな人がさまざまなつらいことを経て、人生を楽しむ器用さを学んだように見えた。なぜなら、過去の好きな人は紛れもなく不器用だったから。
俺はその、本人も知らない歴史をまた好きになって、その人の今を好きになった。

よく「〇〇がタイプだ」という言い回しがあるが、それはその人のことが好きなのではなく、人間の特定の類型が好きだという意味だ。その意味で、タイプの人と好きな人とは異なる。それらが強く結びつくのは、タイプの人がタイプでなくなった時、認知的不協和解消のためにその人がなぜそうしたのかの文脈を考えやすいからだ。
タイプの人を乗り越えて好きな人になるには、その人の文脈や関係性などを愛する必要がある。「変われなかったのは僕なのか」という使い古されたJ-POPの言い回しがあるが、その人の文脈、その人が変化した過程を追えるかどうかが、「その人のことが好き」と「その人がタイプ」とを分かつ。

文脈を愛するためには文脈を想像できなければならない。想像へのエネルギーはその人への愛なのだが、ともかくとして、想像のハードルは愛とは別の、その人の文脈をどれだけ知っているかにかかっている。その点で遠距離恋愛というのはやはり難しい。その人がなぜそのような変化をしたのかの情報が、時間的空間的に一緒にいるときと比べてあまりにも少ないからだ。

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