見出し画像

ミーハー記念日第14回(後編) 握手の人〜リリー・フランキーさん〜

※こちらの文章はまだ挿絵がない状態の不完全のものです。

「握手の人(後編)」 

 全国大会の前日、7月11日に僕は乃木坂にあるソニーミュージックのスタジオでレコーディングを行った。朝、9時くらいにスタジオに入り、夜10時過ぎに効果音の挿入などを除く、僕の役割について全ての作業を完了した。
 この日は、はす向かいの部屋でイエロージェネレーションが、隣の部屋では松浦亜弥がレコーディングを行っていた。目黒は松浦亜弥が好きなのでここに呼ぼうと電話をかけたが、幸いなことに電話はつながらなかった。

 そして翌日、いよいよ運命のわかれ道、「第3回詩のボクシング全国大会」当日である。
 この日、僕はトーナメントを勝ち上がり全国優勝を果たした。
 この大会の様子は後日『NHK-BS』と『NHK-教育』で数回放送された。
 と、いうことで大会を希望通り勝ち上がった僕だったが、大会に出場してみて思ったのは、CDの発売が決定していることがものすごくプレッシャーになったということである。
 前日のレコーディングでは、プロの使うスタジオで、プロのエンジニアに一日中つきっきりになってもらった。さらに、ライナーノーツはあのリリー・フランキーさんが書いてくださることが決定している。負ける訳にはいかない、と、人生の大半を遊び半分という言葉で済ませてきた僕でさえ、さすがにプレッシャーは大きかった。

 それにても、優勝が決定する前にCD発売の話を水面下で進め、さらに、レコーディングまで済ませていたことから、当時の僕がとても調子に乗っていたという感じはおわかりいただけると思う。
 そして、一般的に、多くの調子に乗った人間が、その後手痛い思いをすることを避けて通れないように、僕もまた例にもれずこのあといろいろとそのツケを支払うことになったのだった。
 まず、大会終了後にCDの発売について詩のボクシングを運営している「日本朗読ボクシング協会」に報告をしたところ、協会からは「CDの販売促進物およびプロモーションなどに関して、詩のボクシングについての表記を許可することはできない」という返事が帰ってきた。
 この件に関しては小さな問題がいくつもあったが、焦点となる大きな問題をひとつ挙げるとするなら、大会とソニーが直接の結びつきを持っているのではなく、今大会のいち出場選手である僕が完全に2者の間に入ってこの話を進めているということだった。
 もしプロモーション等に大会の名前を使うことになれば大会とソニーの結びつきを世間や次回以降の参加者にアピールしてしまうことになる。ただ、ソニーは僕のCDを出したいと思っているのであり、まだ見ぬ翌年以降の優勝者に関しては、CD発売は約束できない。しかし、僕の作品だけがCD化されたということになれば、「同じ大会で優勝者の扱いについて不平等が生じ、次回以降の参加者を落胆させる結果を招きかねない」これが大会主催者側の意見だった。
 そして、そういった現実的な問題もさることながら、僕が大会前から協会に相談せずに勝手にCD化の話を進めたこと、しかもレコーディングさえ済ませていたことに対して主催者側はとても不信感を持っていた。
 そこで、主催者側からはこの大会から1年程時間をおいてCDを出すことにしてみてはどうか、という提案があった。それなら協会としても協力はできるとのことだった。
 しかし僕は主催者の協力を得ず、詩のボクシングという言葉は一切使用しないまま当初の予定通り大会終了後すぐにCDを出すことにした。
 僕がそのように決めた主な理由は、それがとても面白いことだと思えたからである。他者に対する迷惑を考慮に入れてもなお、僕は朗読の素人である僕が突如、ソニーミュージックという大手レコード会社から作品を発表することが面白く、とても興奮できることだと思っていたからである。
 と、いうのは実は対外的な少しかっこつけた言い方で、恥を忍んでもう少し本音を言えば、このときの僕はどんな形にせよ、どんな条件で、どんな反対意見があるにせよ、とにかく自分の作品を世に出すための足掛かりが欲しかった。この機を逃し、自分が今後の展望を見失ったままの状態に戻ってしまうことを僕はとても恐れていた。だから協会からの提案は耳に入れず、強行策をとったのだった。
 この件に関して少しだけ救いだったのは、大会の主催者はCDを出すことに最後まで反対しながらも最後に一言、
「表現をする人というのは、ときには敵を作りながらも突き進んでいくものだとも思う。君がそうしたいならそうすればいい」
 という言葉を贈ってくれたことだった。
 さて、ここまでは大会のあとの、主催者と僕のやりとりである。
 そしてここから先には、もうひとつ、この時期に僕が調子に乗り過ぎたためにご迷惑をかけた別の出来事を記しておかなければならい。



「ほんだぁ〜」
あの日、僕の長くて短い夜は、そんな一言で始まった。
このとき、僕の名前を呼んだのは、他でもないあの、リリー・フランキーさんである。このときの名前の呼び方はとても迫力があった。
 リリーさんの著作物やインタビューを読んだことがある方ならご存じだとは思うが、どこでも頻繁に話題に上るくらいリリーさんは原稿を書くのに時間がかかるらしい(ここでは便宜上「書くのが」と書いているが、実際は書くのは早く、手を付けるまでに時間がかかるとのことである)。

 僕はそういったインタビューや、「月イチの連載を3回に1回は落としていた」という文章を目にしていたので、なんだか面白い人だなぁと思っていた。編集者が事務所に原稿を取りに行く話や、電話で原稿を催促する話を、面白おかしく読ませていただいていた。
 その頃は、僕自身が原稿を受け取る立場になるとは夢にも思わずに、そんな話を楽しんでいた。


 今回の朗読CDの制作におけるデザインやイラストレーションは僕たちの事務所で請け負うことになっていて、ジャケットや内面のイラストは相方の目黒が担当した。それで、詩や絵のレイアウトもだいたい完了したところで、あとはリリーさんの原稿待ちという状態になった。
 CDのデザインに関して、おおまかなスケジュール・最終締切はソニーの担当者から聞いたので、僕は知っていた。それで、その最終締切が近づいた頃になると、僕の事務所の電話が鳴り、ソニーの担当者に「リリーさんの原稿は頂きましたか?」という催促を受けた。
 それから僕はリリーさんの事務所に電話をするのだが、超多忙なリリーさんのことである。TVの収録その他で、事務所にいらっしゃらないことも多かった。ソニーの担当者も何度かリリーさんの事務所に電話をしたようだったが、元々は僕がイベントをきっかけにリリーさんにお願いしたことだったので、リリーさんの事務所の方も、ソニーの担当者も、
「それでは、あとは当人同士にお任せするということで…」
 というなんだかお見合いのような言葉で話がまとまったようだ。それで僕のところにソニーから電話があった。
「当人同士にお任せすることになったから、リリーさんにまめに連絡を入れてどうにか原稿を頂いてね。それと、××日がギリギリの最終締め切りだからもし間に合わないならリリーさんの事務所まで原稿を貰いに行ってくれる?」
 この時点で締め切りの時間を逆算すると、事務所へ原稿を取りに行くことは確定的だったが、僕はそれを承諾し、
「原稿を頂けるようにお願いしてみます」
 と言った。
 しかし、この時点で僕は原稿を貰えないかもしれないという焦りよりも、リリーさんのエッセーに登場する多くの編集者のように事務所まで原稿を頂きに行けることに胸を躍らせてしまっていた。
 初めにライナーノートをお願いする段階で、リリーさんの事務所に挨拶に伺っていたので原稿を頂きに行ったときは2度目の訪問だった。まず原稿の受け取りに伺うということを留守電に吹き込んで、夜遅い時間にリリーさんの事務所へと向かった。途中お土産に缶ビールを数本買ったのだが、事務所にはリリーさんもその他のスタッフの方々もいらっしゃらなかった。

 僕が目を覚ましたのは一体何時くらいだったのだろうか。深夜12時くらいだったような気もするし、2時くらいのような気もする。夏だったこともあったのだが僕は事務所の前の道路に座って、お土産のはずの缶ビールを2本飲み、前日あまり寝ていなかったこともあって、その場に寝ころび、しばしうたた寝をしてしまったのだった。
 そして僕が目を覚ましたそのすぐあとで黒い大きな車が事務所に到着し、中からリリーさんが現れた。
 僕はやっとリリーさんに原稿を頂けると思い、喜んで勢いよく立ち上がり、缶ビールの入ったビニール袋を高く持ち上げて手を振るような仕草をした。
 その時、車から降りたリリーさんの第一声が先ほどの
「ほんだぁ〜」
 というセリフだったのだ。続けてリリーさんは言った。
「なんだお前、原稿取りに来たのか?」
 その語彙の強さにやっと状況を理解した僕は、思わず全身が硬直した。それからしばらくリリーさんはすこし強めの口調で僕にいくつか話をして事務所の中へ入っていった。そして僕は少し遅れて中に入り、リリーさんと話をした。周りには数人のスタッフの方々がいて、僕とリリーさんの会話に耳を傾けていた。
 リリーさんは簡単に言うと次のようなことを僕に話してくださった。

「詩人としてデビューするはずの人間が、原稿を取りに来るなんていうサラリーマンの真似ごとをするな。そんなことはサラリーマンにまかせておいたらいい。こんなことをしている暇があるなら一編でも多く良い詩を書いたほうがいい」

 また、この頃、新しく出版する詩集の推薦文をリリーさんに依頼した及川光博さんを例に出してこんなこともおっしゃった。
「ミッチーは一度電話で依頼をしてきてから、俺が書くとも書かないともいっていないのに、何も言ってこない。締め切りもあるとは思うけど、ドンと構えて待っている。お前もこれから世に出ていくんだから、もっと堂々としてかっこよくしていてくれよ。CDを出すということはプロになるということなんだから。これからは周りがお前のことを良くも悪くもプロの物書きとして見るんだよ。プロになる人間がこんなことで右往左往していたらだめだろ。CDデビューする人間は腐るほどいるけど実際に売れるのは本当にひと握りだよ。これからお前は、本当にどんどん詩を書かなければならないんだぞ。CD1枚だけ出してそれ以降出せない人生ってつらいぜ」

 とても簡単に要約してしまったがこんなことをおっしゃった。
 僕はリリーさんが丁寧に話をして下さるのを聞いて、とても申し訳ない気持ちになった。また、僕の話の引き合いにあの及川光博さんまで登場させてくださったことに恐縮した。原稿にかこつけて、好奇心80%でこの場に足を運んでしまったというのが僕の本音だった。
 僕は今回ソニーを通してリリーさんに原稿を依頼したのではなく、直接、イベントで話をしたという理由だけで文章を寄せて頂けることになったのである。断る気ならいくらでも断れることを、リリーさんは2つ返事で受けてくださったのだ。そんな経緯をすっかり頭から消して、ピクニック気分で原稿を頂きに行ってしまったことが、どれくらいリリーさんをがっかりさせたことか。自分のイベントに来た観客がCDを出すことになって、そのライナーを依頼して来たことをリリーさんは喜んでくれていた。その気持ちを僕は無頓着な行動で台なしにしてしまった。
 これを書いていて、またこの件に関する申し訳ない記憶が蘇ってきたので記しておくことする。
 原稿を頂きに事務所に行く前、僕の優勝が決まったすぐあとで、僕はリリーさんの携帯に原稿の催促の電話をかけた。普段は忙しくてあまり携帯に出られないのだが、この日は僕の電話に出てくれた。この時の会話は今思い出しても恥ずかしくていられなくなるほどである。

本:「こんにちは。本田です」
リ:「あ、おめでとう。優勝したんだって?」
本:「ありがとうございます・・あの、原稿いかがですか?…お早めにお願いします」
リ:「・・・ごめん」

 せっかく電話でおめでとうと言ってくださっているにも関わらず、僕は自分の原稿のことで頭がいっぱいで大会の様子を報告することさえもできなかったのだ。原稿を取りに行く前でさえ、僕はこんなに失礼なことをしていたのだった。

 僕がそんな無礼を重ねていたにもかかわらず、原稿を頂きにお邪魔したあの夜、怒られて落ち込んでいた僕を、その夜のうちにリリーさんご本人や事務所のスタッフの皆さんは励ましてくれた。
 ひと通り僕に対しての話が終わったあとで、リリーさんは気分を切り替えて別の話をした。当時つぶやきシローのような髪型をしていた僕の頭の上に手を置いて「これすごい変な髪型だね。(ヅラを)乗っけているみたいだね〜」と言いながら頭を撫でてくれた。また事務所のスタッフの方を引き合いに出してこんなことも言ってくれた。
「お前(事務所の人)も変態だと思ってたけど、本田ってなんかすげえ変だよな。お前の変さなんてかすんで見えるもんな。なんかこいつ(本田)気持ち悪くさえあるもんなぁ」
 結局この晩、話が終わったのはもう空が明るくなり始めたころで、僕は歩いてでも帰るつもりだったのだが、リリーさんやスタッフの皆さんは僕に、事務所に泊まってソファで眠って行くようにと言ってくれた。ソニーの担当者からはタクシーを使っても良いと言われていたのだが、タクシーを使って帰るとみなさんに言ったところ、25才でタクシーなんてとんでもないよ、とか、詩人がタクシー乗ったらだめでしょう、とかいろいろと言われてしまった。
 そして皆さんが翌日に向けてそれぞれの家に帰りはじめた頃、リリーさんは
「じゃ、(原稿は)明日の夕方だな」
 と、ひとこと言ったのだった。
 それから僕は事務所のソファで眠り、翌日、皆さんが出社してきた頃に目を覚ました。
 事務所にはあちらこちらの編集部から、電話がかかってきていた。リリーさんはどこかの出版社の人と打ち合わせをしていて、スタッフの方々は皆忙しく働いていた。僕はとくにやることがないのでリリーさん愛犬、コロと遊んでいた。僕は小さい頃から犬が苦手なのだが、このコロとは不思議と仲良くできた。
 そういうわけで僕はこの日1日、ひたすらコロと遊んでいたのだが、ただ一度だけ、スタッフの皆さんの手が足りないときに電話に出てくれと頼まれて、電話に出た。もちろん用件はわからないので、先方の名前と電話番号を聞いただけだったが、とても嬉しかったのを覚えている。 
 夕方になるとリリーさんが仕事部屋から原稿用紙を2枚ひらひらと持ってやって来た。そして「はい」とだけ言ってそれを僕に手渡してくれた。
 そこには僕のCDの為の文章が、僕の見たこともないリリーさんの字で書いてあった。イラストの脇に書くときの字とはまったく別物の字だった。達筆である。僕が原稿を受け取ったところを見て、スタッフの皆さんは「良かったね」と言ってくれた。
 僕は原稿を受け取ってからまずリリーさんにお礼を言い、原稿に目を通してから、再びリリーさんとスタッフのみなさんにお礼を言った。
 その後、リリーさんは浅草で対談か何かがあるということで、そのついでに車で僕を近くの駅まで送ってくれることになった。そのとき僕を乗せてくださった車は、リリーさんとナンシー関さんの共著である「リリー&ナンシーの小さなスナック」にも登場した黒いセンチュリーだった。
 事務所を出る前に、原稿を頂いたことを電話でソニーの鈴木さんに報告すると、思ったより鈴木さんが落ち着いていたので、まだ締め切りには少し余裕があるということがわかった。リリーさんは昨晩の時点で「提示される締め切りには当然余裕があることくらい知ってるだろ?」と言っていたが、やはりリリーさんの言う通りだった。
 それで僕はまた調子に乗って、浅草からは自分で帰るので、浅草まで一緒に乗せて行って下さい、と無理なお願いをした。
 そういうわけで僕はリリーさんの事務所がある中目黒から、浅草まで一緒に車に乗せて頂き、浅草から電車に乗った。別れ際、車を降りた僕に、初めてお会いした時と同じように、リリーさんが右手を差し出してくれた。



追記
 この日から数日して、僕はリリーさんの事務所にお邪魔した経験が、ある映画の一場面に似ていることに気がついた。その映画は、ジョンレノンのドキュメンタリー映画「イマジン」である。
 映画の撮影中、ジョンレノン、オノ・ヨーコ夫妻が住むアスコットの自宅にファンが忍び込んで来てしまうというハプニングが起こるのだが、家の玄関まで来たそのファンの男性は泥だらけで、顔も手も服もひどく汚れていた。広大な敷地の中を隠れながら歩いてきたからである。彼はジョンの詩にとても共感を覚え、その詩が自分のことを歌っているのではないかと強く思い込み、それを確認するために敷地内に侵入したのだった。
 ジョンは玄関先で彼と直接話をし、彼の主張をすべて否定した。「誰にでも共感できるような詩を書いている」「言葉遊びが好きだから、いろいろな意味に受け取れるが、別に君のことを歌ったんじゃない」、そんなことを強い口調で言った。
 そのシーンで背景に流れるオノ・ヨーコのナレーションは「ジョンはこういった人たちをもすべて自分の責任だと考えていました」と言っている。そして、ひとしきりファンのその思い込みを否定したジョンは、彼に「腹は減っているか?」と尋ね、家に招き入れて一緒に食事をする。
 僕はこのファンが、あの日の自分にダブって見えて仕方がない。あの日僕を叱ったあとで、頭を撫でてくれたリリーさんの行動がフィルムの中のジョンと重なってしまうのだった。

※このテキストは2000年頃に執筆し、2005年頃に某出版社から発行される予定だったものです。15章ほど書いた後で出版が中止になりお蔵入りしていましたが久しぶりにnoteにて公開させていただきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?